259. 浮遊する澱み(2/7) - 虚空を貫く剣
ローゼスタットの王宮襲撃から二日後のことだ。秘密の列車基地から休まず走り続けた列車は、ジルを無事にパラブロト自治区まで送り届けた。
そこは先日、アルノーが大勢の兵達と共に足を踏み入れたのと同じ場所だった。だからそこにはもう一本列車が止まっていた。ジルが乗ってきたものとは違い、たくさんの貨物車両が連結した列車だ。
その車両から聞こえてくるのは、期待と諦めの混ざったざわめき。ここに閉じ込められたローゼスタット兵達のものだ。窓のない貨物車両ではローゼスタット方面から列車が来たということは分かっても、そこから誰が降りてきたのかは確認しようがない。
だから彼らは希望を持ちきれない。助けかもしれないと思いたいのに、アルノーの失敗でこんな事態に陥ったように、また更に悪い何かが起こるのかと不安が拭いきれない。
そんなどんよりと空気に辟易したように溜息を吐きながら、ジルは小脇に例の箱を抱えて乗降場を歩いていた。その先に待つのはヒルデルの兵だ。しかし、彼らにジルを警戒する様子はない。これでジルが騎士の格好のままであれば多少違ったかもしれないが、今の彼は車内で着替えたためいつもどおりの、どこでも見かけるような服装をしている。
だが、だからと言ってヒルデル兵が完全に油断することもなかった。一人の男に付き従うように、そして守るようにそこにいる彼らは、しっかりとジルの一挙手一投足に目を光らせている。
その視線を無視してジルが歩いて行くと、彼らが守る男――ラルフ・レヴァスは一歩前に進み出て、「よく来たな」と笑った。
「快適だったか?」
「雑魚寝よりは」
短く返すジルに肩を竦め、ラルフは案内するように歩き出した。そのすぐ後ろにジルが続き、二人を囲むように兵達が付き添う。
「約束どおりお前の弟は元気だ。それは彼への手土産か?」
「ああ」
「一体誰の首を取ったんだか」
茶化すようにラルフが言えば、兵の何人かがぎょっとしたようにジルの持つ箱に目をやった。木製の箱の表面は結露で濡れ、中が冷たいことを物語る。そしてその大きさが、ラルフの言葉が決してただの冗談ではないと兵達に思わせた。
一方で彼らの視線を向けられたジルは表情を変えなかった。ラルフに首を持ってくるだなんて話はしていないが、彼ならば十分に推測できる状況だと分かっていたからだ。
以降はほとんど会話をしないまま歩いていくと、五分も経たないうちにラルフが足を止めた。そこは列車基地が見下ろせる管理室前。その扉をラルフがノックもせずに開ける。するとその先で何かが動いた。体の前で両手に枷をつけられたアルノーだ。
「兄上……!」
一瞬だけ驚いたアルノーは、ジルを見つけるや否や満面の笑みを浮かべた。服は多少乱れてはいるが、暴力を振るわれたような形跡はない。食事も十分に与えられているのか、弱っている様子は一切なかった。
そのアルノーは喜びのままに歩き出そうとして、ジャラ、と左足首に括り付けられた鎖に動きを阻まれた。自然と彼は目をそちらに向け、忌々しげに足を動かす。しかしどれだけ引っ張っても、アルノーの足首と繋がれた建物の柱はびくともしない。
「俺は外にいる。終わったら声をかけてくれ」
興味がないとばかりにラルフがジルに告げる。ジルが「ああ」と短く返して部屋の中に入れば、その様子を見ていたアルノーが愕然とした面持ちとなった。
「兄上、どうして……どうしてあんな奴と……!」
喜びから一転、アルノーの顔が怪訝と驚愕に染まる。それは部屋の出口である扉が閉まったことへの感情ではなかった。アルノーの目にそんなものは映っていなかった。
彼が見ていたのはジルの姿だけ。だからこそ自然とラルフとの会話も耳に入った。そしてそれが、アルノーを愕然とさせた。
ジルとラルフが交わしたのは必要最低限のやり取りに過ぎない。しかしアルノーにはそれで十分だった。何故なら兄とヒルデル――ラルフには確執があることを知っていたからだ。何年も互いに組織として一歩も譲らないやり取りをしていたから、こうして会話をすることすらおかしいのだ。
それでも自分を助けるために来てくれたというのならアルノーもまだ納得できた。自分を無事に引き取るために兄が譲歩しているのだと考えることができれば、喜ぶことだってできた。たとえ兄がここに来た理由が彼の何かしらの目論見のためだと分かっていても、自分を助けてくれる可能性が消えたわけではないから。
だが、今見たものは違う。
『俺は外にいる。終わったら声をかけてくれ』
『ああ』
この会話は、普通すぎる。
『ゆっくり待っているといい。お前の兄は確かにここに来る。だがそれは、お前を助けるためじゃない』
自然と数日前のラルフの発言まで思い出されて、アルノーの鼓動は更に速くなった。
これは有り得ないのだ。ラルフが兄の考えを知っているはずがない。知っていてはいけない。
何故ならラルフは、間違いなく兄の敵だったはずだから。ケイラの死を仕組んだのは自分だと知っていても、彼が手を貸したことは兄も知っているはずだから。
だから兄はラルフを嫌い続けているはずで、ラルフが物知り顔でその兄の考えを語れるわけがないのだ。仮に兄が自分を助けるために一時的に矛を収めたのなら、もっと態度に敵意が出ているはず。だから、そうではない。だから、あんなふうに兄にしては友好的な態度で接することなど有り得ない。あってはいけない。そこには自分がいるはずなのに、他の奴がいるだなんてことが許されるわけがない。
これではまるで、兄がラルフと本気で手を取り合ったようなものではないか。利害の一致だけではなく、人として関係を持っているようではないか。
そんなことは、あってはならない――アルノーの顔が血の気を失う。
「兄上、嘘ですよね……? 奴と手を組んだだなんて! 力が必要なら僕がいくらでも兄上に用意できるのに!! あんな奴なんかより僕の方がずっとずっと役に立てるのに!!」
兄がまた、別の誰かを見ている。自分以外の誰かをその隣に置いている。そんなのは駄目だとアルノーが悲痛な声を上げれば、ジルは虫でも見るかのような目を彼に向けた。
「お前の中の俺は力を欲するだけの愚か者なのか」
「ッ、いえ! いえ! そんなことはありません! ですが兄上のことですから常に崇高なことをお考えなのでしょう? だとしたらそれを実現するには、庶民暮らしで得られる力では到底足りません。手段として使える力はあればあるほどいいと兄上ならきっとお考えに――」
ガタンッ! ――大きな音がアルノーの言葉を止めた。ジルが持っていた木箱をアルノーの前に投げつけたのだ。
その音は、重かった。中身がびっしりと詰まっているのか、あまり箱の中で音が反響しているようにも聞こえない。
一体これは何だろうと、アルノーの目がそこに縫い付けられる。それでもどうにか答えを求めるように視線を持ち上げて、「これは……?」とジルに尋ねた。
「土産だ。お前にやる」
ジルには珍しい、はっきりとした笑みだった。そこに意地の悪さは微塵もなく、ただただ元の目鼻立ちの良さが強調されるだけの、美しい笑み。
その表情を見てアルノーの気持ちが軽くなる。見たことのない兄の表情が見られたと、兄が自分に初めて贈り物をしてくれたと、天にも昇りそうなほどの喜びを感じる。
アルノーはその喜びのまま木箱に手を伸ばした。幸い手枷は前にされているから、箱を開けることに不便はない。乱雑に投げられたせいで側面を下にしている箱を起こし、持ち上げる。
重かった。落ちた音から予想はしていたが、手にずっしりと重さが伝わってくる。
左手を底に触れるように移動し、立ちながら落とさないように腹と密着させて支える。右手の指で留め具に触れれば、頑強な造りだと分かった。ならばよほど大事なものでも入っているのだろう――期待しながら留め具を外し、蓋を開ける。
「…………?」
中にあったのは麻袋だった。しかし空ではなく、何かが入っている。アルノーは箱を持ったまま、右手でその麻袋を捲った。
「ッ!?」
ガタンッ! ――再び大きな音が響いた。しかしその音を原因となったアルノーは動かない。動けない。箱を落とした体勢のまま、その箱の中から氷と共にゴロゴロと転がり出た何かを見つめることしかできない。
麻袋に包まれていたそれは、転がったせいか、それとも落ち方のせいか、動きが止まる頃には中身が顕になっていた。
人間の頭部だった。ちょうど自分の方を見る形で止まったそれを見て、アルノーの顔が引き攣る。一瞬にして青ざめる。
箱の中にある時には気が付かなかった。だが今ははっきりと、その首が誰のものか分かる。
「は、は、うえ……?」
アルノーの声は震えていた。すっかり生気を失くした母の顔。偽物を疑いたくとも、箱を開けた時から漂う生臭さが疑うことを許してくれない。
「ははうえ……母上!! も、申し訳っ……あぁぁ! そんなっ……こんなっ……っ……」
ガタガタと震える手がコルネリアの首に伸ばされる。その場に膝を突き、転がったそれを震えながら、しかし丁寧に起こす。「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」呆然と、叱られた子供のように。乱れたコルネリアの髪を直し、床に触れた頬を指で拭う。
そんなアルノーの姿を見て、ジルは「お前のせいだ」と吐き捨てた。
「ぼ、くの……?」
「お前がこんな場所にぞろぞろと兵を率いてくるから、王宮警備の人手が足りなくなったんだ」
その言葉に、アルノーの頭にラルフに言われたことが蘇った。
『今ローゼスタットは軍の人手が足りていないはずだが、これだけの兵をどこから持ってきた? 彼らが元々守っていた場所は?』
ジルが示しているのはこのことだ。ヒルデルを攻めるために手頃なところから兵を連れてきた。王都の兵の多くは暴動の鎮圧に手を割かれているから、有事の際に王宮を守るために待機させられている兵を、コルネリアを守るはずだった兵を連れてきた。
そう、兄に仕組まれた。そのことはとうに知っていた。だから何か起こるかもしれないという予感はあったが、それと目の前の現実が繋がらない。
いくら兄でも母親は殺さない。だからこれは、兄の企みとは関係ない。ただ単純に、王宮の防御が弱っていたから起こった出来事なのだ――アルノーの中で情報が繋がる。尤もらしい筋書きが出来上がる。
しかし、受け入れきれない。
「だ、だとしても、こんな……何も起こらなければ問題は……!」
「あれだけ民を蔑ろにしておいて?」
ジルの冷たい言葉が、アルノーを地の底へ叩き落とす。アルノーの脳は未だ事態を受け入れることを拒んでいたが、それは許さないとばかりにジルの声がアルノーを苛む。
「王宮を襲ったのはお前が篩にかけた王都の民だ。王都にしがみつくことはできても、お前への恨みは消えなかったらしい」
王宮が襲われたのは、〝自分〟のせいだと。
「全てはお前が招いたことだ」
襲われた王宮を守りきれなかったのは、〝自分〟のせいだと。
「お前の浅慮さが、無能さが、母上を殺した」
言葉を変えて、何度も何度も。愛する兄の声がアルノーの体から熱を奪っていく。だがそれも、ここまでだった。
「お前に愛される資格はない」
「――――!!」
その瞬間、アルノーの体を激情が駆け巡った。
「違う! 違う違う違う!! 僕は十分やった! 母上は僕を愛しておられた! 僕を成長させるために冷たく振る舞ってらっしゃっただけで、実際は僕のことを……兄上だって! 僕に笑いかけられないのは僕が甘えないようにするためでしょう? 僕に自分と同じくらいに力を付けさせて、いつかご自分の右腕とされるためでしょう? お二人とも、僕のために冷たく……! だからっ……だから僕は……兄上に笑って欲しくて……!」
絶望を打ち消すほどの怒りは、しかし長くは続かなかった。燃やし続けるには糧が足りなくて、追いやったはずの絶望がアルノーに這い寄る。
「ああ、なるほど。お前が俺に執着するのは母親の代わりにするためか」
ジルがアルノーを嘲笑う。なんて浅いのだと、滑稽なのかと、その声に含まれた愉悦がアルノーを侮辱する。
それでもアルノーには言い返すことができなかった。兄の姿に母の面影を見ていたことは事実だったからだ。母からは与えてもらえなかった笑顔をいつか自分に向けて欲しかった。母と同じように感情に乏しいそこに、自分への愛情を湛えて欲しかった。
だから、ケイラが憎かった。自分が得られなかったものを与えられる彼女が、何も努力せずにそれを享受できる彼女が、妬ましくて堪らなかった。
「そういえば面白い話を聞いたんだ」
絶望と姉への憎しみで顔を歪めたアルノーを見て、ジルが思い出したように言う。その声にアルノーが歪な表情のまま顔を上げれば、ジルは愉しそうに目を細めた。
「その女にも情があったらしい」
アルノーはその意味を理解するのに時間がかかった。けれど、理解できた。母は自分を成長させるために突き放してきたのだという考えが、肯定された気がした。
思わず「ほら……!」と声を上げれば、ジルが「だがそれは、俺達に向けた情じゃない」と首を振った。
「その女が自らの人生をかけて守ったのは、お前が殺した姉上だ」
アルノーの顔から感情が抜け落ちる。
「お前の価値は、お前が見限った存在にも劣る」
「……そんな……違っ……だって……だって姉上は、いらない子で……!」
必死に否定する。口がうまく動かない。筋肉が硬直し、更に頭もろく働かないものだから何を言っていいか分からない。
そんなアルノーにジルは冷え切った目を向けた。ここまでアルノーを傷付ける言葉を選んで発してきたが、思いの外気分は晴れない。
罪悪感だなんてものはない。アルノーがどれだけ絶望に打ちひしがれているように見えても、良心は微塵も痛まない。そもそも良心だなんてものも残ってはいない。
それなのに何も感じないのは、やはり彼が生きているからだろうか。姉を殺した奴が、たとえ苦しみに溺れそうになっているのだとしても、まだ生きているという事実が喜びを覆い隠してしまうのだろうか。
ジルはそこまで考えると、足を一歩前へと踏み出した。「母上にとって――」静かな声で続けながらアルノーに近付いていく。その耳元に、口を寄せる。
「――お前の方こそいらないんだよ」
感情が全く乗らない声で、告げる。近かったお陰か、アルノーの毛穴が一気に広がったのが分かった。そこから脂汗が吹き出して、ツンとした臭いがジルの鼻腔を刺激した。
「ちがっ……ぁ……うわぁああぁぁあぁああああ!!」
アルノーの口から絶叫が押し出される。力いっぱいのそれは、まるで他の音を聞かないようにするかのよう。
あまりにうるさく、不快で、ジルは腰の剣に手を伸ばした。
「あぁぁあああぁぁああああガッ……!?」
雄叫びが止まる。喉を無理矢理潰したかのような音が、アルノーの絶叫を押し止める。彼の目は自身の胸元に、そしてそこに刺さった剣に向けられて、じりじりとその刃を辿っていく。「あに、う……」ひしゃげた声は、途中で音を失った。瞳もまた光を手放し、美しい青色が闇に沈んでいく。
ジルはアルノーが絶命したことを知ると、少年の胸に足の裏を当て、ぐっと剣を引き抜いた。
「……この程度か」
感慨はなかった。目的を遂げたという実感はあれど、期待していた晴れやかさはない。
そしてその理由は、ジルにももう分かっていた。
「あなたも不幸だな」
コルネリアの首に視線を落とす。剣についた血を拭い、鞘に収める。
コルネリアはケイラを守りたかっただけなのだろう。だから王妃の役目を継ぎ、子を成した。そしてその子供達と距離を置いたのは、亡きイングリッドへの義理堅さ故。
だから、理解はできる。しかし罪がないとは思えない。王妃としての役目を重んじ、本来負うべきだった母としての役割を放棄した。
その結果がこれだ。彼女の二人の息子は愚かに育った。その愚かさがケイラと、そしてコルネリアを殺したのだ。
アルノーに向けたのは、自分自身への言葉だ。
――お前の浅慮さが、無能さが、母上を殺した。
四年前の自分がもっと周囲と信頼関係を築いていれば、ケイラは助かっていたかもしれない。二日前の自分がもっと冷静にキルドラグと向き合い、コルネリアのことも知ろうとしていれば、彼女を殺してしまうことはなかったかもしれない。
全てはこの愚かさが招いたこと。それなのに自分は未だ、復讐心を捨てきれずにいる。
復讐なんてしたところで死者は蘇らない。復讐とはただ、己の怒りをぶつけるだけの暴力だ。それを自制もせずに振るえるのは勇敢だからではない。愚かさが自制心を食い潰し、更なる愚行に走らせているだけ。
だから、虚しい。
「……それでも、終わらせられない」
まだ、もう一人いる。ケイラを苦しめた男は、そのきっかけを作った男は、今もきっと大勢に守られこの状況を嘲笑っている。一度は見逃したが、コルネリアがあの男からもケイラを守っていたと、そうしなければならない状況だったと知った今、絶対に逃すわけにはいかない。
「次はお前だ、キルドラグ」
もう、父とは思わなかった。ただただ憎いだけの仇として、その名を呼ぶ。
しかしジルはすぐにまた無表情に戻ると、部屋の出口に歩いていって扉を開けた。
「終わったのか」
待っていたらしいラルフが顔を上げる。「遺体はまとめてローゼスタットに運ぶよう手配しよう」ちらりと扉の向こうを一瞥して、事前の取り決めを確認するように告げる。
そんなラルフにジルは視線だけで了承を返すと、「用意はできたんだろうな」と相手に問いかけた。
「ああ」
ラルフがゆっくりと首肯する。
「こちらの約束は果たした。次はお前が俺の望みを叶える番だ」
その言葉に、ジルは薄い笑みを返した。




