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果ての銀花と愚者の杭  作者: 丹㑚仁戻
最終章 果ての銀花と愚者の杭
258/267

258. 浮遊する澱み(1/7) - 消えない異物

 人気(ひとけ)のない街の中をキルドラグは走っていた。彼を守る騎士はもういない。たった一人の男に全滅させられてしまったからだ。

 なんて使えない――己を守る騎士の失態に、キルドラグは腸が煮えくり返る思いだった。騎士になるためにはそれなりに厳しい基準があるはずなのに、同じ元騎士の男一人の力にも及ばないなどなんと情けないことか。あの男の存在を以前から知っていれば重宝してやったものを、あろうことか彼は息子に仕えている。


 不満だった。侮辱されたように思えた。……そして、恐怖を感じた。


 腹の一部が爆発で吹き飛ばされても尚こちらに向かってきた男が、恐ろしかった。

 そしてその事実が余計にキルドラグの怒りを逆撫でた。恐怖などこれまで一度も本気で感じたことがないのに、あんな男一人に身体が凍りつくほどの恐怖を味わわされたことが屈辱的でたまらなかった。


 だが――


「はは……ははははは!!」


 愉快だった。何せあの男はもういない。あの怪我では這いつくばったまま絶命しただろう。こうして走っていても追いかけてこないことが良い証拠だと、笑い声が止まらない。ならばもう、わざわざ急ぐこともない。

 キルドラグは納得すると、必死に動かしていた足を少しだけ遅くした。歩くほどの速さまで落とさないのは、そう、急に止まったら足がもつれそうだったからだ。限界まで酷使した足は筋肉が疲労しているから、あまり一気に速度を変えてしまうと変化に耐えきれそうになかった。それで転んでしまってはあまりに見栄えが悪いから、息を整えるまではこのまま走り続けることにしたのだ。


 だから決して、恐怖しているからではない。あの男が追いかけてくることを恐れているからではない。


 キルドラグは自分に言い聞かせながら、それまでよりも遅い速度で建物と建物の間を駆け続けた。とはいえ体力はもう限界に近い。息子に殴られた分くらいしか消耗していなかったが、マスクで呼吸が妨げられる上に、普段それほど動いていないせいで長時間走り続けるのはやはり厳しいらしい。

 終わり時を決めよう――頭の中に街の地図を思い描く。細かい部分は知らないが、この王都は王宮を中心として放射状に八本の大通りが走っている。今いるのはどう見ても小路だが、この道の先には大通りがあるはずだ。

 だから、その大通りに出る手前で止まろうと決めた。その頃だったらある程度は息も戻り、足も速度の変化に対応できるだろう。どちらにせよ敵がいないか確認するためには止まらなければならないのだ。どうせ誰もいないだろうが、騎士がいない今、自分である程度は身を守らなければならない。


 ふらふらと走っていたキルドラグは、大通りの少し手前で更に速度を落とした。それは本人の自覚よりもずっと遅く頼りない歩みだったが、指摘する者はいない。

 大通りを目前としたところで止まり、無理矢理背筋を伸ばす。息を深く吸って、上がりきった呼吸を整える。


 遠くから馬車の音が聞こえてきたのは、その時だった。


 壁の陰から音の方を見る。グイに引かれた馬車が走ってくる。敵かもしれないとキルドラグが警戒したのは一瞬だけ。その馬車に刻まれた紋様にその持ち主を知った。

 ああ、これなら――確信したキルドラグは、馬車の前に飛び出した。


「止まれ!」


 突然飛び出してきた人間に御者が慌てて手綱を引く。「何をやってる!」相手が誰かも分からないまま怒声を上げる御者を無視してキルドラグはコーチの方へと歩いていくと、「開けろ」と中に向かって高圧的に言い放った。


「……ああ、やはり陛下でしたか。よくぞご無事で」


 扉が開くとともに、中から若い男の声が聞こえた。


「どうぞお乗りください。ちょうどこれから郊外の別邸に避難しに行くところです」


 声の主と思われる男の手がキルドラグに伸ばされる。キルドラグはその手を取って馬車に乗り込むと、相手の顔を半分だけ見ながら笑みを浮かべた。


「いいところにいた、ミクラーシュ子爵」


 キルドラグが言えば、男――ジル・ミクラーシュは柔らかい笑みを返した。



 § § §



 一方、イースヘルム――


 イヒカ達はひたすら氷の大地を進み続け、やっとハルゼの知る氷の下への入口に辿り着いていた。そこは以前イヒカが落ちた亀裂とそう変わらない大きさの穴で、この土地にはよくあるものだ。付近にまばらな木が生えていなければ目印もなく、見つけることは難しかっただろう。


 その木の一本を補強し、ロープを括り付ける。何度も引っ張って十分に強度を確認してからロープを穴の中に垂らせば、簡易的な出入り口の完成だ。

 イヒカが目でロープを下から辿って遥か先にある地上を見上げたのは、そのロープを使って全員が亀裂の底に下り立った後だった。


 そして、そこには大きな口のような穴があった。これが氷の下の世界への入口だと、誰が説明したわけでもなくその場にいた者達は理解した。この状況ではそれ以外に考えられないし、何よりハルゼが迷いなくその穴の中に身を滑り込ませたからだ。

 少し前にイヒカが落ちた亀裂の底から氷の下の世界に行くには、狭い隙間を這いつくばらなければならなかった。しかし、ここは違った。この穴はヒューがどうにか通れるくらいの大きさがあり、そこから続く細く長いトンネルのような中をするすると下りていくことで別世界に行くことができたのだ。


「――ちゃんと掘っといて良かったわ。これなら帰りも十分使えるわね」


 ハルゼ曰く、そのトンネルはかつて彼女達がここにやってきた時に作ったものだそうだ。氷の下に行くという目的を持って掘り進めたため、ヒューのような大男でも通れるような造りになっているらしい。


「…………」


 ハルゼの口から当たり前のように語られたその内容に、イヒカは苦い気持ちとなった。ここはそんなふうに来ていい場所ではないのだ。だから文句を言いたいが、今回は使う必要があったことも事実。

 全てが終わったら埋めよう――方法なんて思いつかないが、内心で決意した。ニムリスとも一度だけという話になっている。彼らに筋を通すためにも、そしてこの感情を収めるためにも、それが正解なのだ。


「本当にこんな空間があったんだな」


 暗いその場所に目が慣れてきたのか、ヒューが周囲を見渡しながら感心したように呟いた。すぐ真上にある天井に手を這わし、首を伸ばせる高さがあるか確認する。ほとんど頭のてっぺんすれすれの氷の天井に顔を顰め、「これ以上狭くならなきゃいいんだが」と希望を漏らした。


「それは無理ね。ここで広い方だから」

「……そうかい」


 ハルゼに言われ、ヒューは頬を引き攣らせた。「また腰が死ぬのか……」その独り言を拾う者はいない。案内役のハルゼがスタスタと歩き出したからだ。となれば、他の者達は後に続くしかない。

 静かなトンネル内にイヒカ達の足音だけが響く。会話はない。その理由は一つだけではなかった。この凍てついた空間では会話をすること自体が憚られることもそうだが、そもそもこの一行の空気はずっと悪い。

 イヒカのリタに対する感情、ハルゼとの不仲。しかし最もヒューの口を重くしたのは、ここでかつての仲間が命を落としたという事実だった。


 ハルゼにとっては嫌な場所だろう――そう思うと、自然と会話をする気が失せていくのだ。


 無言のまま、数時間。時に広い場所を、時に一番小柄なハルゼですら屈まなければならない狭さの中を。一本道を淀みなく進み続けていた一行の足が止まったのは、少し開けた空間でのことだった。


「どうした?」


 先頭で立ち止まったハルゼにヒューがやっと声をかける。見たところ周囲には少量の雑草のような植物があるが、ここまでの道でもちらほらと見かけたものだ。最初こそリタが物珍しげに止まりたがったが、既に彼の興味は収まっている。今更進行を阻まれるようなものでもないだろう。

 ならば何故ハルゼは止まったのか。ヒューはハルゼの隣に並ぼうと数歩進み出て、彼女が見ているものに気付くと足を止めた。


「……こんなに近かったんだ」


 ぽつりと、ハルゼが呟く。その表情は険しい。彼女が見ているのは大きな塊だ。……それは、人間の死体だった。


「ザイン……」


 ヒューの口から自然とその死者の名前が出た。長年会っていない彼でも迷わなかったのは、死後間もないと錯覚するほど損傷がなかったからだ。

 顔に生気はない。頬も少しばかり痩けているように見えるが、生者だって有り得る程度の痩け方だ。しかし何度も死者を見てきた経験が、ここにいるのが生者ではないとヒューに確信を与える。()()に魂はないと、訴えかけてくる。


「……なんで死んだんだ?」


 見た目からでは原因が分からず、ヒューはハルゼに答えを求めた。眠っているだけだと見間違えそうなくらいにその死体は死体らしさを持っていない。この気温では凍っているはずだが、それらしい特徴も見受けられない。彼に死をもたらしたであろう何かの痕跡さえも。


「ケルニックと殺し合った。多分幻覚でも見たんでしょう。ケルニックは突然襲われたって言ってたわ」

「ケルニックが……」


 ハルゼの言葉を聞いて、ヒューは眉間に力を入れた。ケルニックという仲間は、隊商(キャラバン)に入る前は腕の立つ軍人だったと聞いたことがある。ならば彼がその気になれば、相手に致命傷以外の傷を負わせずに命を奪うことも可能だろう。もしくは、弔いのために綺麗に整えたか。

 ヒューが考えていると、後ろから声がかかった。


「だからって仲間を簡単に殺すのか?」


 その棘のある声はイヒカのものだった。ヒューと同様にこの状況に驚いていたイヒカが突然発したその言葉に、ヒューが「おい」と待ったをかける。

 しかし、イヒカはヒューを見なかった。ただただハルゼだけをその目に映し続ける彼にヒューが再び声をかけようとした時、イヒカに問われたハルゼが「そんなワケないじゃない」と怒りを滲ませて反論した。


「あれは事故よ。ケルニックとアタシと、それからミランの三人でザインを取り押さえて……だけど全員程度は違えど正気じゃなかったから、加減が上手くいかなかった。強く押さえつけすぎて、誰もその先のこと考えられなくて……気付いたら……」

「もういい。言わなくていい」


 ヒューがハルゼを止める。「イヒカももういいだろ」これ以上は思い出させるなと、イヒカに向かって首を振る。そんな彼の仕草にイヒカは小さく息を吐くと、「ならさっさと進めよ」と先を目で示した。


「……木の根はこの近くのはずよ。この件で食べ物が原因かもってなって、なるべく見たことのない植物を探しながら氷以外は食べないようにしてたから」


 気持ちを切り替えるように首を振って、ハルゼが答える。「平気か?」心配そうに尋ねるヒューに「勿論」と短く返し、再び歩き始める。


 その背を見るイヒカの眉間には力が入った。ハルゼの後に続くヒューの心境は彼の後ろ姿が十分に物語っている。ハルゼへの心配と、仲間を失ったことへの悲哀。そして、そうなるに至った経緯に心を痛めているのだろうということは、この死者と面識のないイヒカとて感じ取れている。

 だから先程の自分の態度が良くないものだということも理解していた。しかし駄目だった。抑えきれなかった。それは、ハルゼへの悪感情だけが原因ではない。


「――リタ」


 小声で前を歩くリタに話しかける。ヒューとイヒカの間にいたリタは「ん?」と首を傾げると、イヒカに近付くように少しだけ歩く速度を落とした。

 それはイヒカとの関係を気にしていないとも取れる振る舞いだった。そのことにイヒカは一瞬だけ顔を歪めたが、今は助かるとばかりに表情を元に戻す。リタとの関係がどうであれ、今から聞きたいことは彼でなければ正確なものは答えられないと分かっていたからだ。

 イヒカは意を決すると、前を向いたまま、ここ最近で一番近い距離にいるリタと会話を続けた。


「今まで聞かないようにしてたけど……回復者(スタネイド)は、死んでも氷にはならないのか?」


 聞かなかったのは、知りたくなかったからだ。そして、知る必要なんてないと思っていたから。

 けれどあの光景を見ると、どうしても考えてしまう――自分達は、ここで眠ることすら許されない立場なのではないかと。全てのものが氷に還るはずのこの場所に、死しても尚受け入れられないのではないかと。

 その明確な答えが欲しくて投げかけた問いに、リタが「ならないよ」と即座に返した。


「……ニムリスだけなるのか?」


 控えめに問いを重ねる。しかしリタはいつもと変わらない様子で、「それは違う」と否定した。


「前に言っただろう? 治療薬はヘルグラータの薬効を半永久的に体内に留まらせることができるって。一方でニムリスを始めとするイースヘルムの生き物は、常にこの土地のものを食べ続けることで氷の毒に打ち勝っている。だから病気なり何なりで食べられなくなると、その力を得られなくなるんだ。それで氷の病に罹ったのと同じような状態になって、最終的には氷になる」

「……じゃァ狩りで仕留めた獲物が氷にならないのは、飢える前に殺されたからってことか」

「そういうこと」


 満足げなリタの返事は、彼の説明をイヒカが正しく理解したことを示していた。


 だからあの時、ティリエリは良い死に方だと笑ったのだ――新たにもたらされた情報に、ティリエリの最期の言葉がイヒカの脳裏に蘇る。

 氷になるだなんて、外の人間にとっては悲惨でしかない死に方だ。氷の女神症候群(スカジシンドローム)に罹り、その治療薬を買う資格が得られないことに絶望し、ただただ己の無力感を見せつけられるかのような、何も残らない死に方。

 しかしニムリスにとっては違うのだ。天寿を全うした者と同じ――つまりニムリスにとって、老いで食う力すら失った者を示す。いや、老いでなくとも同じだ。狩猟をし、自然の摂理の中で生きる彼らにとって、怪我や病気で食うことができるなくなることもまたその者の天命を表す。最後まで生きようと努力し続けた結果が氷になることならば、ティリエリがあんなふうに満足そうな顔をしたことにも納得がいく気がした。


 それに引き換え、先程見たものは――イヒカの顔が、ぐっと険しくなる。


「……気持ち悪いな、回復者(スタネイド)って」


 そう零したイヒカの頭にあったのは、もうティリエリの最期の姿ではなかった。思い出すのはザインの、外の人間の最期の姿だ。

 ニムリスにとって氷になることは、外の人間にとって土に還ることと同じようなものだと考えることができる。だとすると飢えても氷の毒への抵抗力を失わない自分達は、土に還らない死体になるということだ。それもあんな、死体なのに凍っているかどうかも分からないような状態に。

 実際に触れて確かめてみたわけではないが、あれは通常の凍り方とは違うように見えた。人間の死体は凍ってもああはならない。普通は肌の色や質感にもっと()()()()()を持っているものなのに、先程見たものは生きた状態に見せかけるために処理をされた標本のような、薄気味悪いそれだった。

 少なくとも数年は経っているはずなのに、死後間もない姿と変わらないだなんて生き物としておかしい――イヒカが胃に不快感を覚えた時、リタが「回復者(スタネイド)でもヘルグラータが咲けば氷になるよ」と続けた。


「あれは死体の中に残された養分を根こそぎ吸い出すからね。勿論、この肉体にある氷に抗う力も。全く面白い花だよ。回復者(スタネイド)の死体を養分にしたとしても、あの花には治療薬の効果は残らないんだ」


 その事実はイヒカの感じた不快感を和らげなかった。むしろ、強くした。


「……浄化」


 ぽつりとイヒカが零す。聞き逃してしまいそうなほど小さなその声に、リタが驚いたように目を瞬かせる。「そういう捉え方もあるね」苦笑する彼には聞こえていたのだろう。そんな相手を尻目に、イヒカの思考がどんどん沈んでいく。


「……あの死体は、ただ受け入れられなかったってことか」


 命を糧にする氷の花に。そして、この大地に。ニムリスが死者を弔う亀裂にはあれだけたくさんの花が咲いていたのに、彼は避けられたのだ。


 リタが断言するということは、回復者(スタネイド)の身にも間違いなくあの花は咲くということ。そして、回復者(スタネイド)の体質をもたらす効果は花に引き継がれない。

 まるでそれは本来あってはならないものだとでも言うかのように、死んで、あの花に食われた時点で全てが元通りになってこの氷の大地に還る。だとすればヘルグラータという花は、この氷の世界に自浄作用をもたらしている存在と言える。


 そんな花にあの死体が避けられたのは偶然かもしれない。本当にたまたま、花の種が届かない場所で死んでしまったというだけかもしれない。

 しかしイヒカは〝そうではない〟という考えが捨てられなかった。自分の感情のせいでそう考えてしまうだけだと分かっているのに、どうしても頭から離れない。


 ――自分達回復者(スタネイド)は、この氷の大地には決して受け入れられることのない存在なのだと。


「ヒルデルでも回復者(スタネイド)は失敗作だって言われてる。ニムリスの体質を安全に得るために作られたけど、実際はだいぶ違うからね。結局はニムリスの言うとおり、回復者(スタネイド)は擬い物でしかない。相似であって同一ではないんだよ。死ぬ直前の状態で無理矢理止めた、不自然な人工物……それが回復者(スタネイド)だ」


 リタのその答えは、意外にもイヒカの考えを肯定するかのようなものだった。彼には珍しいその発言を聞いて、イヒカの目が思わず相手の方に向く。「何?」不思議そうにしているリタに、「……いや、お前でも理屈っぽくないこと言うんだと思って」と返せば、リタは今気付いたとばかりの表情を浮かべた。


「……本当だ。失敗作は事実だけど、別にヘルグラータが咲かないわけじゃないのにね」


 その声にもまた僅かながら驚きがあった。リタ自身も意図した発言ではなかったのだ。これまでの彼とは違うその姿に、イヒカはさっと目を逸らした。このままでは彼を人間だと思ってしまう、憎い仇と考えられなくなってしまうと、まるで逃げるかのように。


 すると目線を動かしたことで、進行方向の先が分かれ道になっていることに気が付いた。しかし先頭を行くハルゼが迷う様子はない。もう片方の道には目もくれずに右へと進んだ彼女に、イヒカではなく彼女の後ろを歩いていたヒューが「ハルゼ」と声を上げた。


「お前、こっちは見たのか?」

「いつもの花畑があるだけよ」

「花畑って……そういうことか」


 ヒューが足を止める。この土地で花畑と言えば、自然とその光景が頭に浮かぶ。それは彼らの会話を聞いていたイヒカにも同じで、気付けば「……全部氷なのか?」とハルゼに向かって尋ねていた。


「ほとんどはね。稀に元の形のままの死体もあるけど」


 少し離れたイヒカの声が聞こえたらしく、ハルゼが選ばなかった道を見ながら答える。その内容におかしなところはない。最初から氷なのはニムリスでも動物でも天寿を全うした者だけだ。それ以外は元の形を保ったまま氷の花の苗床になって、徐々にその色を奪われていく。


 ただ今にして思うと、納得できないこともあった。


「前に死体だらけの場所もあるって言ってたよな。本当にあるのか?」


 死体が多く集まる場所と言えばニムリスの墓場だ。しかしここまでの道中、近くに大きな亀裂は見かけなかった。それにニムリスの中にそう頻繁に死者は出ない。だとしたら死体だらけの場所があるとはイヒカには思えなかった。


「別の場所にね。そこはヘルグラータの種が来ないみたい」


 ハルゼが平然と答える。彼女の答えにはやはり矛盾はないが、イヒカの疑問は解決していない。


「ニムリスか?」

「いいえ。多分ヒルデルの探索隊ね。って言っても持ってた装備が明らかに古かったから、何十年も昔の話でしょうけど……。何、見たいの? 根っこはもうすぐなんだけど」

「……いや、見なくていい」


 そういうことかと、イヒカの視線が落ちる。ここを目指してきたのか、それとも途中で亀裂に落ちて彷徨い歩いたかは定かではないが、ヒルデルの探索隊ならばここまで来ることはできるだろう。そして、命を落とした彼らはこの氷の大地に受け入れられなかった。


「…………」


 イヒカの口元が歪む。その口角が、歪に持ち上がる。しかしイヒカが己の表情を自覚するより先に、止まっていたハルゼが歩みを再開した。イヒカが見なくていいと答えた以上、もう止まっている理由もないからだ。


 そうして、一〇分ほど歩き続けた頃だろうか。不意にハルゼが足を止めた。


「――あった。これよ」


 そこは他と変わらない、狭く冷たい空間だった。割れた巨大な氷が偶然作った自然のトンネルだ。

 だがハルゼが指差すその先の氷の中に、今いる場所よりも大きな何かの影があった。

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