第9話 紅茶の温度
マルタが叫ぶように言い、薬室へ走ろうとした。
「不要だ」
セドリックが止めた。
「薬は飲まない」
「殿下、それでは午前のご予定が」
「予定を組んだ者に責任を取らせろ」
その場にいた全員が、いない女の名を思った。
リゼット。
けれど、彼女はもういない。
厨房では、朝食の盆が三度作り直されていた。
料理長は苛立ちを隠さなかった。
「黒鷹なら肉汁、銀なら軽食、薄薔薇なら白パン、白麦なら牛乳。結局どれですか」
マルタは唇を噛んだ。
「銀でいらっしゃいます。ですが薬を拒まれて」
「では白パンと常温水か」
「温料理は避けてください」
「それは昨日の銀でしょう。今日の銀も同じとは限らないと奥様が」
料理長はそこで言葉を切った。
奥様が。
その言葉を出した途端、厨房の空気が少しだけ沈んだ。
リゼットがいた三日間、厨房は妙に忙しかった。花を下げろ、蜂蜜は匙一杯半、肉汁は薄めるな、脂は取れ、硝子杯は不可、陶器杯を温めろ。細かい指示ばかりで、料理長は何度か眉をひそめた。
だが、指示は当たった。
当たり続けた。
王弟殿下の皿は戻ってきても、危険な残し方をしなかった。食べない日は理由が記録され、次の手が出せた。厨房は文句を言いながらも、迷う時間を失っていたことに気づいていなかった。
今日は迷っている。
湯は沸きすぎ、肉汁は冷め、パンは乾き、蜂蜜入りの牛乳には膜が張った。
「紅茶は」
料理長が訊いた。
「銀なら熱すぎないものを。ですが今朝は薬を飲まれていないので、胃に」
「温度は何度だ」
「そこまでは」
マルタは記録帳をめくった。
紅茶に関する記録はある。
薄薔薇、香りの強い茶を避ける。
黒鷹、金属の茶漉しを見せない。
白麦、蜂蜜を加える場合は半匙。
銀、会議前は薄く。冷めても苦味が立たぬもの。
しかし温度は、その日の顔色を見てリゼットが決めていた。
マルタは頁をめくる。
どこにもない。
「奥様は」
料理長が言いかける。
マルタは睨むように顔を上げた。
「いらっしゃいません」
その声は震えていた。
東棟の応接室では、財務卿が待たされていた。
「王弟殿下はまだか」
「まもなく」
若い侍従が答える。
まもなく、と言ってから四半刻が過ぎている。
財務卿は懐中時計を開いた。眉間に皺が寄る。
「王弟殿下は時間に厳しい方だ。遅れるなら理由を」
理由。
若い侍従は、扉の方を見る。
薬を拒まれた。
予定の順が悪いと言われた。
朝食も決まっていない。
王弟妃がいない。
どれを言えばよいのか分からない。
「東棟で確認しております」
「東棟はいつも確認ばかりだな。昨日までは滞りなく進んでいたではないか」
昨日までは。
若い侍従は、返す言葉を持たなかった。
神官もまた、祈祷文を持って廊下に立っていた。
「本日の祈祷に夜明けの文言は入れてよろしいのですか」
誰にともなく問う。
昨日、リゼットは削ってほしいと言った。神官は不満だった。祈祷文は古く、勝手に削るものではない。だが昨日は削った。王弟殿下は席を立たなかった。
今日、誰も指示しない。
「銀の執政者なら問題ないのでは」
別の神官が言う。
「しかし今朝、混ざりがあったと」
「混ざりとは何です」
「私に聞かないでください。王弟妃殿下が記録していたことでしょう」
王弟妃殿下。
その名だけが廊下に残る。
本人はいない。
王妃イザベルが東棟へ着いたのは、第二鐘の少し前だった。
普段より早い。
リゼットがいないという報は、侍女を通じてすでに届いていた。だがイザベルは最初、それを理解できなかった。
いない。
どこに。
少し休んでいるのではなく。
薬室にいるのではなく。
厨房へ指示に行っているのではなく。
いない。
王妃の靴音が廊下に響く。いつもは静かに歩く人だったが、今朝は裾が乱れていた。ハロルドが頭を下げる。
「王妃殿下」
「リゼット様は」
「東棟にはおられません」
「実家へ?」
「確認中です。裏口の鍵が使用されておりました」
イザベルの顔が青ざめる。
「裏口の鍵を、なぜあの子が」
ハロルドは机に置かれていた札のない鍵を思い出した。
「記録帳の上に置かれていました」
「記録帳は」
マルタが両手で差し出した。
イザベルはそれを受け取り、頁を開く。
最初は、文字を追うだけだった。
やがて、その顔が変わっていく。
起床時刻。
第一声。
手の震え。
禁句。
食事。
薬。
面会。
祈祷文。
眠前の注意。
移行の兆候。
砂時計。
硝子杯。
赤い花。
木匙。
陶器杯。
王妃面会不可。
その一行で、イザベルの指が止まった。
白麦の場合。王妃面会不可。
「どうして」
小さな声だった。
「どうして、わたくしに会わせてはいけないの」
誰も答えない。
侍医が気まずそうに視線を下げる。
イザベルは頁をめくる。
リゼットの字は、どの頁も整っていた。急いで書いた痕跡のある頁でさえ、後から誰かが読めるよう清書されている。
そこに怒りは書かれていない。
恨みもない。
ただ、事故を防ぐための記録がある。
だからこそ、イザベルは目を逸らせなかった。
「わたくしは、そばにいてくれるだけでよいと言ったわ」
誰に向けた言葉でもなかった。
ハロルドは沈黙する。
マルタは泣きそうな顔をしている。
「そばにいるだけではなかったのね」
そのとき、寝室の扉が開いた。
セドリックが出てきた。
銀の執政者の顔をしている。だが左手が震えていた。薬を拒んだせいか、それとも朝の混ざりの残りか。
彼は王妃を見た。
「姉上」
イザベルの顔が一瞬だけ明るくなる。
「セドリック」
「予定を乱さないでいただきたい」
明るさはすぐに消えた。
セドリックの視線が、記録帳へ移る。
「読んだのですか」
「ええ」
「では、分かったでしょう。あなたとの面会は、白麦の朝には危険だ」
「なぜ、わたくしに教えなかったの」
「教えれば、あなたは会いたがる」
イザベルの唇が震えた。
「あなたは、わたくしをそんな人間だと思って」
「あなたは優しい。だから危険です」
セドリックの声は冷静だった。
冷静な刃物だった。
「白麦の私は、あなたを母と誤認する。あなたは否定できない。否定できなければ、次の朝に残る。残れば崩れる」
王妃は何も言えなかった。
リゼットは、それを知っていたのだ。




