第8話 記録帳のない朝
第一鐘の前、東棟はいつも通り静かだった。
静かすぎるほどだった。
侍従長ハロルドは、廊下の角で立ち止まった。厚い絨毯は足音を吸い、壁に掛けられた燭台の火だけが細く揺れている。寝室の前には衛兵が二人。薬室の扉は閉まっている。厨房からは湯の匂いが上がっていた。
すべて、いつもの朝に見えた。
ただ一つだけ違う。
王弟妃の部屋の扉が、少し開いていた。
「奥様」
ハロルドは扉を叩いた。
返事はない。
「リゼット様」
声を少しだけ強くする。
それでも返事はなかった。
嫌な予感は、音を立てずに首筋を撫でた。
ハロルドは扉を押し開ける。
部屋は整っていた。
寝台は使われた形跡がある。けれど、掛布はきれいに畳まれている。机の上には黒革の記録帳。銀の鍵束。王弟妃の指輪。
花嫁が婚礼の日に着ていた白絹の衣装は、椅子の背に掛けられたまま。
灰色の外套だけが消えていた。
「マルタを呼べ」
ハロルドの声に、衛兵が走った。
机へ近づく。
記録帳の表紙には、札のない鍵が載っていた。
それを見た瞬間、ハロルドは息を止めた。
東棟裏口の鍵。
彼は、その鍵の用途をリゼットへ教えていなかった。必要な朝が来るまで伏せておくよう、神殿長からも王妃からも言われていた。王弟殿下の異変が激しい朝、外へ逃がすためではない。
外から誰も入れないための鍵だった。
それが、記録帳の上に置かれている。
まるで、あなた方が隠したものは知っています、と告げるように。
マルタが駆け込んできた。
「奥様は」
「いない」
マルタの顔から血の気が引いた。
「そんな。まだ第一鐘前です。奥様はいつも、もう薬室に」
「記録帳を開け」
ハロルドは短く命じた。
自分で開こうとして、指が一瞬止まった。黒革の表紙が、いつもより重く見えた。マルタが恐る恐る手を伸ばす。
一頁目ではない。
昨夜清書された明日の欄。
つまり、今日の朝の欄が開かれる。
そこには、リゼットの整った字で注意事項が並んでいた。
黒鷹の場合。青の薬。木匙。背後に立たない。南の戦役を避ける。
銀の場合。白の薬。予定表を先に。感情的な説明を避ける。温料理を避ける。
薄薔薇の場合。琥珀の薬。硝子不可。赤花不可。言葉に反応しすぎない。
白麦の場合。蜂蜜入り牛乳。陶器杯。地図。砂時計横置き。王妃面会不可。
本来のセドリックの場合。黎明前、日付を一度だけ告げる。名を呼ばない。問いに答えすぎない。扉を閉める。
下に、一文。
この記録は、殿下を縛るためではなく、殿下と周囲の者を傷つけぬために記したものです。
そして、その下。
記録者、リゼット・エルネイス。
ハロルドは、その名を見た。
王弟妃殿下でも、奥様でも、神託の花嫁でもない。
リゼット・エルネイス。
「奥様は、出て行かれたのですか」
マルタの声が震える。
ハロルドは答えなかった。
答えなかったのではない。答えられなかった。
寝室の中から、物音がした。
椅子が倒れる音。
衛兵が身構える。
ハロルドは反射で記録帳を見る。
昨夜の兆候。
第三鐘後、寝言なし。
木製品の落下音なし。
灯火、夜明け前まで継続。
手がかりがない。
「砂時計は」
「寝室です」
マルタが答えた。
「返す時刻です」
「分かっている」
ハロルドは記録帳を持った。
その重さに、今さら気づいた。
黒革の帳面一冊など、片手で持てるはずだった。だが中身を知れば知るほど、指に食い込むようだった。
寝室へ入る。
セドリックは窓際に立っていた。
髪は乱れ、白い夜着の襟元が開いている。右手には燭台。炎は消えていた。彼はそれを、武器のように握っている。
黒鷹か。
ハロルドは判断しかけた。
だが次の瞬間、セドリックは微笑んだ。
「ずいぶん大人数で、私の朝を覗きに来る」
薄薔薇。
いや、燭台の握り方は黒鷹。
視線の冷たさは銀。
声の柔らかさは薄薔薇。
混ざっている。
ハロルドの背に汗がにじんだ。
これまでなら、リゼットが第一声を書き、呼吸を見て、指の力を見て、杯を変え、薬を選んでいた。彼女はその判断を声高に言わなかった。ただ、朝が崩れる前に手を動かしていた。
「本日は、秋暦二十五日でございます」
ハロルドは、記録に従って日付を告げた。
セドリックは首を傾げる。
「私の名は?」
名を呼ばない。
本来のセドリックの場合、名を呼ぶな。
しかし今が本来かどうか分からない。
ハロルドは逡巡した。
「殿下」
「それは役職だ」
セドリックの笑みが少し深くなる。
「私の名は?」
黒鷹なら、名乗りの確認が必要だ。
銀なら、無駄な会話は嫌う。
薄薔薇なら、反応を測っている。
白麦なら、名を教えないと不安がる。
本来なら、名を呼んではならない。
答えが、五つある。
正解は一つとは限らない。
ハロルドは、はじめてリゼットが毎朝立っていた場所の広さを知った。
「セドリック殿下です」
そう答えた瞬間、セドリックの指が燭台を強く握った。
「違う」
低い声。
部屋の温度が下がる。
「その名で呼ぶな」
本来のセドリックだった。
いや、本来の響きが混じっている。
ハロルドは胃が縮むのを感じた。
「失礼いたしました」
「リゼットは」
問いは短かった。
誰も答えない。
マルタが記録帳を抱きしめる。
セドリックの視線がそこへ落ちた。
「それを持っているのに、なぜ彼女がいない」
誰も答えない。
沈黙は、答えよりも残酷だった。
第一鐘が鳴った。
塔から響く鐘の音が、東棟の石壁を震わせる。
その瞬間、セドリックの表情が抜け落ちた。
甘い笑みも、警戒も、痛みも消えた。灰青の瞳が冷たく澄む。銀の執政者が前面に出たのだと、ハロルドは知っている。
知っているのに、安心できなかった。
「予定を」
セドリックが言った。
いつもの言葉。
いつもなら、リゼットが答える。
午前は財務卿。四半刻遅らせています。薬は琥珀。祈祷文から夜明けの語を抜いています。王妃殿下との面会は午後へ。
ハロルドは記録帳を見た。
今日の予定表は、まだ清書されていなかった。
リゼットは明日の注意事項を書いていた。だが、今日の実際の人格が確定する前に組み替える予定までは書けない。
それは、朝に彼女が判断する仕事だった。
「午前は財務卿との会談、その後、神官の祈祷、王妃殿下のご面会が」
「順が悪い」
セドリックは即座に言った。
「理由は」
「王妃殿下が昨夜よりご心配を」
「私情を予定に入れるな」
銀の執政者の声は静かだった。
静かなだけに、周囲の者は言葉を失う。
「薬は」
ハロルドはマルタを見た。
マルタは青い瓶を持っていた。
昨夜の兆候が読めず、厨房で迷った末、黒鷹の可能性を考えて青を用意したのだ。
銀の場合は白。
記録帳には、そう書いてある。
セドリックの視線が青い瓶に移る。
「私を戦場に戻す気か」
「すぐ白を」




