第7話 空白の明日
リゼットは、自分の名がまた一枚剥がれた気がした。
「それで、私なら壊れにくいと」
セドリックの瞼がわずかに揺れる。
「そう判断された」
「殿下も、そう判断なさったのですか」
答えはなかった。
答えないことが、答えだった。
リゼットは礼をした。
「承知いたしました」
「リゼット」
銀の執政者の声ではなかった。
ほんの一瞬だけ、別の誰かの響きが混じった。
婚礼の夜に、君には迷惑をかけると言った男の声。
リゼットは顔を上げない。
「本日の記録を清書いたしますので、失礼いたします」
「待て」
「明朝の準備がございます」
「リゼット」
二度目だった。
だが、もう遅かった。
名を呼ばれたのに、呼び戻された気がしなかった。
部屋を出ると、廊下は冷えていた。
銀の鍵束が重い。
リゼットは自室へ戻り、机の前に座った。
黒革の記録帳を開く。
今日の頁は、いつもより多く埋まっていた。
白麦の少年。
蜂蜜入り牛乳。
砂時計横置き。
地図。
王妃面会回避。
昼前の睡眠。
銀への移行。
神殿写し提出。
夕食、冷製鹿肉。
神託原文。
そこまで書いて、手が止まった。
神託原文。
その下に、リゼットは写し取った言葉を記した。
神は命じず。
ただ道を示す。
選ぶ者に、鍵を与えよ。
何度見ても、そこに「妻なら耐えよ」とは書かれていない。
リゼットは、腰から銀の鍵束を外した。
机に一本ずつ並べる。
執務室。
薬室。
寝室。
衣装室。
応接室。
静養室。
札のない鍵。
最後の鍵を手に取った。冷たい。ほかの鍵より少し古く、持ち手の部分に細い傷がある。
必要な朝が来ましたら、お知らせします。
必要な朝とは、誰にとって必要なのだろう。
王弟殿下にとって。
王宮にとって。
神殿にとって。
それとも、リゼットにとって。
窓の外で風が鳴った。
リゼットは立ち上がり、衣装箱を開けた。
王弟妃として仕立てられた豪奢なドレスが並んでいる。だが、彼女が手に取ったのは、エルネイス家から持ってきた地味な外套だった。灰色で、裾に小さな薬草の刺繍がある。母が婚礼前夜に、旅の道中で冷えないようにと持たせたものだ。
母はきっと知らなかった。
父も知らなかった。
知らなかったから、耐えなさいと言った。
けれど、知らなかったことは、リゼットがこれからも耐える理由にはならない。
机に戻り、記録帳の清書を始めた。
明日の朝、考えられる兆候。
黒鷹の場合。青の薬。木匙。背後に立たない。南の戦役を避ける。
銀の場合。白の薬。予定表を先に。感情的な説明を避ける。温料理を避ける。
薄薔薇の場合。琥珀の薬。硝子不可。赤花不可。言葉に反応しすぎない。
白麦の場合。蜂蜜入り牛乳。陶器杯。地図。砂時計横置き。王妃面会不可。
本来のセドリックの場合。黎明前、日付を一度だけ告げる。名を呼ばない。問いに答えすぎない。扉を閉める。
書いて、書いて、書いて。
王宮が明日困らないだけのことを、すべて書いた。
誰が読んでも分かるように。
誰が間違えても、すぐ戻れるように。
リゼットがいなくても、朝が始まるように。
最後に、表紙の裏へ一文を加えた。
この記録は、殿下を縛るためではなく、殿下と周囲の者を傷つけぬために記したものです。
筆先が震えた。
リゼットはしばらくその文を見つめた。
それから、もう一文を書いた。
記録者、リゼット・エルネイス。
初めて、記録帳の中に自分の名前を書いた。
奥様でも、神託の花嫁でも、王弟妃でも、蜂蜜の人でもない。
リゼット・エルネイス。
その名は、まだ消えていなかった。
夜半、リゼットはマルタを呼ばなかった。
誰も起こさず、自分で荷をまとめた。外套。替えの下着。小さな財布。母からもらった針箱。薬草の乾燥包み。エルネイス領の古い地図。
指輪は、少し迷ってから外した。
机の上に置く。
銀の鍵束は、その隣に。
ただし札のない鍵だけは、記録帳の上に載せた。
神託は、鍵を与えよと書いていた。
ならば、この鍵は返さない。
誰の許可を得るための鍵なのか、リゼットはまだ知らない。けれど少なくとも、王宮が隠したままにしていいものではない。
夜明け前の東棟は、息をひそめていた。
リゼットは最後に寝室の扉の前で立ち止まる。
中に入らない。
今日のセドリックが誰であっても、彼は眠っている。
明日の彼が誰であっても、リゼットはもう、その朝の最初の声を記録しない。
扉の向こうから、かすかな寝息が聞こえた。
リゼットは頭を下げる。
妻としてではない。
記録係としてでもない。
一人の人間として。
「どうか、ご無事で」
それだけを小さく告げた。
東棟の裏口には、古い錠前があった。
リゼットは札のない鍵を差し込む。
かちり、と音がした。
重い扉が、驚くほど素直に開く。
夜明け前の空気が流れ込んだ。冷たく、湿っていて、少しだけ土の匂いがする。王宮の香ではない。神殿の香でもない。
外の匂いだった。
リゼットは外套の前を合わせ、門の外へ出た。
背後で、王宮はまだ眠っている。
第一鐘までは、まだ少し時間がある。
リゼットは記録帳を思った。
机の上に置かれた黒革の帳面。明日の欄。必要な注意事項。自分の名前。
そこまで書いたのだから、もう十分だ。
朝は勝手に来る。
白麦の少年はそう言った。
そう。
リゼットの朝も、本当は勝手に来るはずだった。
誰かの人格を見極め、薬を選び、食事を変え、禁句を避け、面会を断り、祈祷文から一語削らなくても。
彼女の朝は、彼女のものとして来てよかった。
東の空が、わずかに白む。
リゼットは振り返らなかった。
机の上の記録帳には、明日の欄だけが空白のまま残った。




