第6話 神託の原文
東棟では奥様。
記録帳の中では観察者。
白麦の少年には蜂蜜の人。
どの名も、リゼットの輪郭に少しずつ合わない。大きすぎる手袋や、小さすぎる靴のように。
神殿の控え室では、若い神官が待っていた。
「こちらに写しを」
「神殿長猊下へ直接お渡しするよう、ハロルド侍従長より伺っております」
「猊下は祈祷中です。お預かりいたします」
若い神官はにこやかだったが、手はすでに差し出されている。
リゼットは写しを渡した。
そのとき、控え室の奥の扉がわずかに開いた。中から、年配の神官たちの声が漏れる。
「やはり神託の花嫁は安定に寄与している」
「前任の分散管理より効率がよい」
「人格面の揺れも、妻という固定点があれば収束しやすい」
「本人の情緒負荷は」
「神託を受けた者だ。耐性はあると見るべきだろう」
リゼットの手から、手袋の端が滑りかけた。
若い神官が扉を閉める。
何も聞こえなかったような顔で。
「奥様?」
「いいえ」
リゼットは手を下ろした。
情緒負荷。
耐性。
まるで薬瓶に貼られた札のようだった。
白。青。琥珀。緑。黒。
リゼット。
耐性あり。
神託を受けた者。
「写しは、確かにお預かりいたしました」
若い神官が礼をする。
リゼットは頷いた。
そのまま帰ればよかった。
東棟へ戻り、夕食の指示を出し、明日の人格予測を書き、銀の鍵束を机に並べればよかった。
けれど、控え室の壁際に置かれた棚が目に入った。
そこには古い神託記録の写本が並んでいた。背表紙に年代と王家の紋章が刻まれている。婚礼前、神官は言った。神託は白き神殿に記され、王家と神殿により保管される、と。
ならば。
リゼットは静かに尋ねた。
「私の婚礼に関する神託の写しは、こちらで閲覧できますか」
若い神官は瞬きをした。
「奥様が、ですか」
「当事者ですので」
「もちろん、権利はございます。ただ、皆様あまりご覧にはなりません。神託は神殿が読み解いてお伝えいたしますから」
「では、今日は読み解きではなく、原文を」
神官は少し困った顔をしたが、拒む理由はなかった。
しばらくして、薄い箱が運ばれてきた。
白木の箱。銀の留め具。封印はすでに解かれている。
中には、一枚の羊皮紙が入っていた。
婚礼の日に神官が掲げたものより、ずっと短い。
リゼットは手袋を外した。
指先で羊皮紙の端に触れる。乾いた感触がした。
そこには、こう書かれていた。
黎明に砕かれし王弟の朝、名を失わぬ者が傍らに立つとき、閉ざされた扉は選び直される。
神は命じず。
ただ道を示す。
選ぶ者に、鍵を与えよ。
リゼットは、何度も読み返した。
神は命じず。
ただ道を示す。
選ぶ者に、鍵を与えよ。
婚礼の日、神官は言った。
神託により、王弟セドリック・ヴァン・ノクス殿下の花嫁となる者。
ここに、神託は成就した。
だが、原文には花嫁という言葉はなかった。
妻とも、婚姻とも、耐えよとも書かれていない。
名を失わぬ者。
傍らに立つとき。
選び直される。
鍵を与えよ。
リゼットは、自分の腰にある銀の鍵束を見た。
七本の鍵。
そのうち一本には、札がない。
今は覚えなくて結構です。必要な朝が来ましたら、お知らせします。
ハロルドの声が、記憶の底で冷たく響いた。
選ぶ者に、鍵を与えよ。
与えられたのは鍵だった。
けれど選択肢は、誰にも渡されなかった。
「奥様?」
若い神官が声をかける。
リゼットは羊皮紙から目を離した。
「この原文は、婚礼前に私の実家へ送られましたか」
「いえ。神託の原文は、王家と神殿の管理です。ご実家には、解釈文をお送りしたはずです」
「解釈文」
「王弟殿下の花嫁として選定された、という正式な文書です」
「誰が解釈を」
神官は答えに詰まった。
その沈黙だけで、十分だった。
神殿長オルガン。
王宮。
王妃。
あるいは、その全員。
誰がどこまで知っていたかは分からない。
ただ一つだけ、はっきりした。
リゼットは神に命じられて嫁いだのではない。
誰かの解釈によって、嫁がされたのだ。
手元の羊皮紙が、急に遠いものに見えた。
白い神殿。
祝福の鐘。
父の誇らしげな顔。
母の涙。
耐えなさい。選ばれたのだから。
その言葉が、別の形を帯びる。
耐えなさい。
選ばれたことにされたのだから。
リゼットは羊皮紙を箱に戻した。
蓋を閉める音は小さかった。けれど、その音で自分の中の何かが決まった。
「ありがとうございました」
「奥様、顔色が」
「東棟へ戻ります」
神官は引き止めなかった。
王宮の西回廊は、来たときと同じように明るかった。
女官たちは礼をし、貴族たちは小声で何かを囁いた。王弟妃殿下。神託の花嫁。よくお務めになっているそう。王妃殿下もお喜びだとか。
リゼットは歩いた。
銀の鍵束が腰で鳴る。
その音は、朝には義務の音だった。今は鎖の音に聞こえた。
東棟へ戻ると、マルタが待っていた。
「奥様、お帰りなさいませ。夕食の件ですが、殿下はまだ銀の執政者でいらっしゃるようです。厨房が温かい鹿肉を」
「冷製に替えてください」
リゼットはいつものように答えた。
「ソースは別添えに。書類を汚されるのを嫌います。パンは薄く。水は常温。王妃殿下から届いた花は、今日は執務室へ入れないで」
「はい」
マルタは走っていった。
リゼットは記録帳を開く。
手は、迷わず動いた。
夕食。冷製鹿肉。ソース別添え。薄切りパン。常温水。花なし。
銀の執政者。長時間執務時、温料理を避ける。
この記録は役に立つ。
明日も、明後日も、その先も。
リゼットがいれば、東棟の朝は整う。
王弟殿下は安定し、王宮は安心し、王妃は眠れる。神殿は資料を得る。官僚は会議を進める。厨房は献立を決められる。衛兵は扉の前で槍を握るだけでよくなる。
リゼットがいれば、何も起きない。
その代わり、リゼットの中で起きていることは、誰にも記録されない。
夜、セドリックは一度だけリゼットを呼んだ。
銀の執政者のまま、執務室に座っていた。机には書類が積まれ、夕食の皿は半分ほど空になっている。冷製に替えた鹿肉は、手をつけられていた。
「神殿へ行ったそうだな」
「はい。写しを届けました」
「原文を読んだか」
リゼットの心臓が、一拍だけ遅れた。
「お読みになったことがあるのですか」
「ある」
「では、神託に花嫁という言葉がないことも」
セドリックは、羽根ペンを置いた。
沈黙が部屋に落ちる。
窓の外では、夜の庭が黒く沈んでいる。机の上の燭台だけが、二人の間を照らしていた。
「知っていた」
リゼットは、指先が冷えるのを感じた。
「いつからですか」
「婚礼の前から」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
その問いは、思ったより静かに出た。
セドリックはすぐには答えなかった。
銀の執政者の顔で、書類ではなくリゼットを見ている。計算しているのか、言葉を探しているのか、分からない。
「私が拒めば、別の誰かが選ばれた」
「はい」
「神殿は、名を失わぬ者という文を、精神干渉に耐性のある者と読んだ。君の家系には、古い薬師の血がある。呪詛に鈍い。だから選ばれた」
呪詛に鈍い。
耐性がある。
朝を整える者。




