第5話 蜂蜜の人
三日目の朝、セドリックは少年だった。
目覚めた彼は寝台の上で膝を抱え、リゼットを見るなり、息を止めた。
「誰」
その声は、昨日の銀の執政者より高かった。薄薔薇の詩人の甘さも、黒鷹の騎士の棘もない。ただ、知らない部屋で目を覚ました子どもの警戒だけがあった。
リゼットは記録帳を開いた。
起床時刻。第一声。姿勢。両膝を抱える。瞳孔やや開く。声、幼い。
白麦の少年。
「秋暦二十四日でございます」
名ではなく、日付を告げる。
そう教えられていた。
少年のセドリックは、日付を聞いて唇を結んだ。
「秋」
「はい」
「母上は」
ハロルドが、リゼットの隣でかすかに首を振る。
白麦の少年は王妃に会いたがる。けれど会わせてはならない。
理由は、誰も詳しく教えなかった。
リゼットは記録帳に一行加える。
第一希望、王妃殿下との面会。
「王妃殿下は朝の祈りに出ておられます」
嘘ではない。
王妃は毎朝、祈りの間へ行く。時刻が少しずれているだけだ。
「すぐ戻る?」
「お約束はできません」
少年は、リゼットをじっと見た。
「あなたは誰」
二度目の問いだった。
妻です、と言うには、声が絡まった。
昨日の銀の執政者は、リゼットを予定の管理者として見た。薄薔薇は反応を測る相手として見た。黒鷹は所属不明の女として見た。
今日の白麦は、知らない大人を恐れている。
その恐れの中に、自分の席を無理に置くことが、ひどく乱暴なことに思えた。
「リゼットと申します」
「リゼット」
少年は、舌の上でその名を転がすように言った。
「何をする人?」
リゼットは答えられなかった。
妻。
記録係。
神託の花嫁。
朝務を担う者。
どれも正しいはずなのに、どれも喉を通らない。
ハロルドの視線が横から刺さる。早く安定させろ、と言っている。
リゼットは、机の上の蜂蜜入りの温い牛乳を手に取った。白麦の少年にはこれを出す。熱くしすぎてはいけない。冷たすぎてもいけない。蜂蜜は匙一杯半。二杯では甘すぎて昼食を食べない。
「朝を整える者です」
ようやく出た言葉は、自分でも奇妙だった。
少年は首を傾げる。
「朝は、勝手に来るよ」
「そうですね」
リゼットは微笑んだ。
「けれど、少しだけ迷子になる朝もございます」
少年は牛乳を受け取った。
両手で杯を包む。銀杯ではなく、陶器の小さな杯。昨夜、リゼットがマルタに頼んで用意させたものだった。硝子も銀も避ける。手に温度が残るものがよいと、昨日の記録の端に書いた。
少年は一口飲む。
肩の力が、ほんの少し抜けた。
「甘い」
「蜂蜜を入れております」
「あなたが?」
「はい」
「じゃあ、リゼットは蜂蜜の人だね」
記録帳の上で、リゼットの手が止まった。
蜂蜜の人。
妻でも、奥様でも、神託の花嫁でもない。職名でも務めでもない。
幼いセドリックがつけた、朝の仮の名。
なぜかそれが、今まで呼ばれたどの名よりも柔らかかった。
その朝は、大きな混乱なく過ぎた。
白麦の少年は王妃に会いたがったが、リゼットが古い地図を見せると、半刻ほどそれに夢中になった。東棟の庭を書き写し、噴水の位置が間違っていると指摘した。
昼前、第一鐘から三つ目の鐘が鳴ると、彼は急に眠気を訴えた。
侍医は「よい兆候です」と言った。白麦の朝は、眠ることで銀へ移りやすいらしい。
リゼットは寝台の脇で、砂時計を横に倒した。
眠らせるときは砂を流さない。
流れる砂が、少年に時間の終わりを意識させるから。
これも今朝、リゼットが知ったことだった。誰かに教えられたのではない。少年の視線が砂時計に触れるたび、指が杯の縁を強く握る。それで気づいた。
記録帳に書く。
白麦、砂時計の流れを嫌う可能性。眠前は横置き。
少年は目を閉じる前に、小さく言った。
「蜂蜜の人」
「はい」
「明日もいる?」
リゼットは答えに詰まった。
ハロルドが後ろにいる。
侍医もいる。
衛兵もいる。
リゼットは王弟殿下の妻で、神託の花嫁で、東棟の朝を任された者だ。
明日もいる。
それが正解だった。
「明日の朝も、東棟におります」
少年は安心したように息を吐いた。
「よかった」
その一言は、リゼットの胸に小さな針を残した。
よかった。
必要とされた。
役に立った。
喜ばれた。
それなのに、なぜ痛むのだろう。
少年が眠ると、侍医が薄い布を掛けた。
「奥様、今朝は見事でした」
「見事、でしょうか」
「ええ。白麦の朝をここまで穏やかに昼へ渡せたのは久しぶりです」
侍医は本心から言っているようだった。
ハロルドも珍しく頷く。
「砂時計を横にされた判断も適切です。記録に残してください」
記録に残す。
リゼットは寝台の上のセドリックを見る。
眠る顔は、もう少年ではなかった。少しだけ眉間に影が戻っている。本来の年齢に近づいていく途中の、曖昧な顔だった。
「はい」
そう答えた声は、自分のものではないように平らだった。
午後、セドリックは銀の執政者として目覚めた。
白麦の朝の記憶は、ほとんど残っていないらしい。リゼットが朝の報告を読み上げると、彼は机に肘をつき、淡々と聞いた。
「王妃との面会を回避。地図で注意を逸らす。蜂蜜入り牛乳を半量。眠前に砂時計を横置き」
「はい」
「砂時計を横にしたのは誰の指示だ」
「私です」
「根拠は」
「殿下の視線と指の動きです。砂が落ちるたび、杯を握る力が強くなりました」
セドリックは黙った。
リゼットは次の報告へ移ろうとしたが、彼が先に言った。
「観察に向いている」
褒め言葉の形をしていた。
だが、そこに妻への親しみはない。道具の切れ味を確かめる職人のような声だった。
リゼットは礼をした。
「恐れ入ります」
「その記録を清書し、神官にも写しを渡せ」
「神官に、ですか」
「神殿は状態推移を求めている。今朝のような白麦から銀への移行は、資料価値がある」
資料価値。
リゼットは記録帳を閉じる指に力を入れた。
「承知いたしました」
セドリックはリゼットを見た。
何かを読み取ろうとする目だった。銀の執政者の目は鋭い。相手の感情を不要な飾りとして退けるようでいて、変化そのものは見逃さない。
「不満か」
「いいえ」
「嘘は下手だな」
リゼットは返事をしなかった。
銀の執政者は、ほんのわずかに目を伏せた。
「いや。問い方が悪かった。君が不満を持つ権利はある」
思いがけない言葉だった。
リゼットが顔を上げると、彼はすでに書類へ視線を戻していた。
「ただし、今この部屋でそれを処理する能力が私にはない。必要なら王妃に申し立てろ」
正しい。
正しくて、遠い。
リゼットは思った。
この人は謝罪も配慮も、手続きの棚に置くのだ。
落ちないように。壊れないように。だが、触れられることもないように。
「申し立てるほどのことではございません」
そう言った瞬間、自分の中で何かが薄く削れた。
申し立てるほどのことではない。
朝食を食べ忘れたことも。
自分の婚礼の日を記録帳の白紙で終えたことも。
夫に妻と認識されないことも。
神官へ渡す写しに、自分の気づきが資料として綴じられることも。
一つずつは、申し立てるほどのことではない。
だから積み上がる。
音もなく。
夕方、リゼットは神殿へ写しを届けるため、王宮の西回廊を歩いた。
東棟から出るのは、婚礼以来ほとんど初めてだった。
王宮の中央は、同じ建物とは思えないほど明るい。赤い絨毯。金の燭台。磨かれた大理石。香水と焼き菓子の匂い。笑い声。
女官たちがリゼットを見て、慌てて礼をする。
「王弟妃殿下」
その呼び名に、リゼットは一瞬だけ足を止めそうになった。
王弟妃。
外へ出れば、自分はそう呼ばれる。




