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毎朝夫が別人になりますので、私は私の朝を選びます。  作者: 九葉(くずは)


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第4話 何も起きなかった日

薄薔薇から銀へ移行。第一鐘直後。赤花回避済。


「午前は財務卿との会談がございます。ただし予定より四半刻遅らせています。昨夜の眠りが浅かったため、先に軽食と服薬を」


「遅らせた判断は誰だ」


「私です」


「理由は」


「青の薬を避け、琥珀に変更したためです。琥珀は効き始めが遅いと侍医から伺いました。会談中の頭痛を避けるには、四半刻必要です」


セドリックは黙った。


ハロルドも黙った。


沈黙は責めているようにも、計っているようにも思えた。


やがてセドリックは短く言った。


「許可する」


許可。


妻が夫の体調を考えて予定をずらし、もらう言葉がそれだった。


リゼットは礼をした。


「ありがとうございます」


記録帳の行が増えていく。


薄薔薇の第一声。


銀への移行。


琥珀の薬。


財務卿との会談を四半刻遅らせる。


赤い花は回避。


硝子杯なし。


朝食、白パン二切れ。蜂蜜なし。肉汁なし。水は常温。


その朝、王弟殿下は財務卿との会談を滞りなく終えた。


頭痛も起こさなかった。


王妃との面会も避けられた。


神官からの訪問も、銀の執政者なら問題ないと判断し、昼前に通した。ただし祈祷文の中から夜明けという語を抜いてもらった。神官は不満げだったが、セドリックは最後まで席を立たなかった。


何も起きなかった。


だから、誰にも分からなかった。


赤い薔薇を下げなければ、薄薔薇の詩人が黙り込んでいたかもしれないこと。


青の薬を飲ませていたら、銀の執政者が会談中に吐き気を訴えたかもしれないこと。


王妃を通していたら、白麦の少年の記憶が残っている部分を刺激していたかもしれないこと。


祈祷文の一語を削らなければ、午後の予定がすべて崩れていたかもしれないこと。


起きなかったことには、名前がつかない。


夕方、リゼットは東棟の小部屋で記録帳を清書した。


朝の急ぎ書きは、インクが乱れている。夫の手の震えを見ながら書いた行は斜めに傾き、マルタへ指示を出しながら書いた薬名は文字が潰れていた。


それを、誰が読んでも分かるように整える。


薄薔薇から銀へ移行した日の注意。


薄薔薇の言葉に反応しすぎないこと。


銀へ移行した直後は予定確認を先に行うこと。


赤い花は、薄薔薇単独の日だけでなく、移行が疑われる日も避けること。


琥珀薬服用時、会談は四半刻以上遅らせること。


硝子杯は全人格共通で不要。理由不明だが安全側で固定。


書いていると、マルタが茶を持ってきた。


「奥様、少しお休みになっては。朝から何も召し上がっておられません」


「あと少しだけ」


「あと少しは、三度目です」


リゼットは顔を上げた。


マルタは盆を置き、心配そうに眉を寄せている。


「申し訳ありません。お茶をいただきます」


「お食事もです」


「はい」


茶は冷めかけていた。だが香りはよかった。リゼットは一口飲み、ようやく自分の喉が渇いていたことに気づいた。


朝から、何も食べていなかった。


朝食の献立は三度考えた。


薬の順は二度変えた。


面会予定は四件組み替えた。


夫の食べ残しは記録した。


だが、自分の皿を用意することは忘れていた。


「マルタ」


「はい」


「王弟殿下は、今日は夕食をどちらで」


「銀の執政者のままでしたら、執務室で軽く、とハロルド様が」


「では、温かいものは避けてください。書類に集中して冷めると、手をつけなくなります。最初から冷製にしたほうがよいかと」


マルタは少し笑った。


「やっぱり、奥様は休めませんね」


「休みます。これを書いたら」


リゼットは記録帳へ戻った。


夕刻、王妃イザベルが東棟を訪れた。


銀の執政者の朝で、午後も安定している。面会は可能。そう判断したのはリゼットだった。


王妃はセドリックと短く会った後、リゼットの部屋へ寄った。


「今日は落ち着いていたそうね」


「はい」


「財務卿も安心していたわ。セドリック殿下はいつも通りご明晰だったと」


王妃は椅子に腰掛け、ほっとした顔で息を吐く。


いつも通り。


リゼットはその言葉を、記録帳の余白に落ちた小さな灰のように見た。


「あなたのおかげね」


王妃は優しく言った。


リゼットは礼をする。


「恐れ入ります」


「でも、あまり難しく考えすぎないで。あなたは妻なのですから。そばにいてくれるだけで、きっと支えになるわ」


そばにいるだけ。


リゼットは、今朝書いた頁の厚みを思った。


起床前の兆候。


薬。


食事。


面会。


禁句。


移行。


会談時刻。


祈祷文。


夕食。


それら全部をまとめても、王妃の言葉の中では「そばにいてくれるだけ」になる。


悪気はない。


王妃は本当に感謝している。目元の疲れも、声の柔らかさも、嘘ではない。


だからリゼットは、何も言えなかった。


「はい、王妃殿下」


「明日もお願いね」


明日。


その言葉が、またリゼットの前に置かれる。


夜になると、東棟はさらに静かになった。


セドリックは執務室で夕食を終え、寝室へ戻った。銀の執政者のまま眠りに入ったと報告があった。明日の朝が同じとは限らない。


リゼットは机に向かい、明日の準備を書き出した。


黒鷹の兆候が出た場合。


薄薔薇の兆候が出た場合。


白麦の兆候が出た場合。


銀のまま継続した場合。


本来のセドリックが黎明前に現れた場合。


それぞれの薬、食事、禁句、面会、服装。


銀の鍵束を机に並べる。執務室の鍵。薬室の鍵。寝室の鍵。衣装室の鍵。応接室の鍵。静養室の鍵。札のない鍵。


最後の鍵だけ、何度見ても意味が分からない。


リゼットはそれに触れず、記録帳を閉じた。


指輪が灯に光る。


婚礼の日から二日しか経っていない。


けれど、妻として夫と語った時間は、どれほどあっただろう。


リゼット様、と呼ばれることは増えた。


奥様、と呼ばれることも増えた。


だがセドリックがリゼットの名を呼んだのは、婚礼の日の夜だけだ。


明日の彼は、リゼットを知らないかもしれない。


明日の彼は、リゼットに甘い言葉を言うかもしれない。


明日の彼は、リゼットを部屋から追い出すかもしれない。


どれであっても、リゼットは朝を整えなければならない。


記録帳の表紙を撫でる。


黒革は、もう少しだけリゼットの手に馴染んでいた。


馴染んでしまったことが、少し怖かった。


翌朝、王宮では予定通りに鐘が鳴るだろう。


厨房では湯が沸き、侍女たちは盆を用意し、衛兵は扉の前に立つ。王妃は少しだけ眠り、財務卿は約束通りの時刻に来る。神官は祈祷文から一語削ったことなど、すぐ忘れる。


王弟殿下は、落ち着いた朝を迎える。


それを皆が喜ぶ。


今日も王宮では、何も起きなかったことだけが褒められた。

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