表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毎朝夫が別人になりますので、私は私の朝を選びます。  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話 朝の記録帳

リゼットが最初に覚えたのは、夫の好みではなかった。


白い薬瓶は、銀の執政者の朝。


青い薬瓶は、黒鷹の騎士の朝。


蜂蜜を入れた温い牛乳は、白麦の少年の朝。


薄薔薇の詩人には、硝子の杯を出してはいけない。割れた光を見ると、半刻ほど黙り込む。


本来のセドリックが現れる黎明前には、誰も部屋に入れてはいけない。声をかけていいのは一度だけ。名を呼ぶのではなく、日付を告げる。


リゼットは、それらを夫の口から聞いたのではない。


侍従長ハロルドが読み上げ、侍医が補足し、神官が注意を挟み、王妃の侍女が小声で言い添えた。


「薄薔薇の朝には、赤い花をお避けください」


「黒鷹の朝は背後に立たぬように」


「白麦の朝は王妃殿下に会わせたがりますが、会わせてはなりません」


「銀の執政者の朝は、質問に余計な感情を混ぜないでください。面倒がります」


面倒がります。


その言い方は、あまりにも日常的だった。


雨の日は裾が濡れます、くらいの調子で言われる。廊下の角は滑ります、くらいの顔で注意される。


リゼットは黒革の記録帳を開き、言われたことを一つずつ書いた。


一頁目は、婚礼翌日の黒鷹の朝で埋まった。


二頁目は、その日の昼までの反応。


三頁目は、食事の残量と薬効。


四頁目は、面会の可否。


五頁目は、禁句。


南の戦役。東門。神殿。婚礼。銀の鐘。白い花。夜明け前の祈り。


「禁句が多いのですね」


そう言うと、侍医は困ったように笑った。


「多いのではありません。日によって違うのです」


「では、毎朝変わるのですね」


「はい。ですから奥様がいらしてくださって、本当に助かります」


助かります。


その言葉だけは、何度ももらった。


だが、何を助けているのか、誰もはっきりとは言わなかった。


朝の第一鐘が鳴る前、リゼットは東棟の廊下を歩く。


窓の外はまだ青黒い。空と石壁の境が曖昧で、庭の糸杉が黒い針のように見えた。銀の鍵束が腰元でかすかに鳴る。鍵の音はすぐ絨毯に吸われた。


寝室の前には、衛兵が二人立っている。


彼らはリゼットに礼をしたが、目は扉から離さない。


「昨夜は」


リゼットが尋ねると、右側の衛兵が答えた。


「第三鐘のあと、寝言がございました。意味は取れません。物音は一度だけ。硝子ではなく、木が倒れた音かと」


左側の衛兵が続ける。


「夜明け前に灯りが消えました。殿下ご自身かは不明です」


「分かりました」


記録帳に書き足す。


第三鐘後、寝言。内容不明。


木製品の落下音。


夜明け前、灯火消失。


たった三行。


けれど、この三行で朝食の盆が変わる。


落下音があった日は、黒鷹である可能性が高い。黒鷹の朝に銀の食器を出すと、刃物の反射を嫌う。木の匙を用意し、塩気を強めた肉汁を添える。けれど肉片は大きくしてはいけない。戦場の携行食を思い出すからだと、侍医が言っていた。


リゼットは薬室へ向かった。


鍵束から薬室の鍵を選ぶ。七本のうち、いちばん小さい鍵だ。手袋をした指で回すと、軽い音がした。


薬室には、壁一面に棚がある。


白、青、琥珀、緑、黒。


小瓶には色の札だけがついていて、薬名は書かれていない。盗難を防ぐためだという。だが盗まれて困るものを、花嫁になったばかりのリゼットは、毎朝選ばなければならなかった。


青の瓶を取る。


隣の棚から乾燥したセージを取り、薄布に包む。


侍女のマルタが盆を持って待っていた。リゼットより少し年上の、働き者の娘だった。


「奥様、本日の朝食は厨房が卵粥を用意しております」


「黒鷹の可能性が高いので、卵粥は下げてください。肉汁を薄めず、ただし脂は取って。パンは柔らかいものを半分。果実はなしで」


「果実もですか」


「昨夜、木が倒れた音がしたそうです。黒鷹の朝なら、赤い果実は避けます」


「承知しました」


マルタは小走りで去っていく。


その背中を見送ってから、リゼットは記録帳の端に小さく書いた。


赤い果実。黒鷹には不可。


前任の記録帳が神殿へ預けられたせいで、リゼットは白紙から始めなければならない。王宮にはそれぞれの知識を持つ者がいる。けれど全員が少しずつしか知らない。侍医は薬を知っているが、衣装を知らない。侍女は食事を知っているが、禁句を知らない。衛兵は夜の物音を知っているが、朝の面会予定を知らない。


それらを繋ぐ者が、誰もいなかった。


だからリゼットが繋いだ。


寝室へ戻ると、夜明けの砂時計が卓上に置かれていた。


まだ返してはいけない。第一鐘の三十呼吸前。ハロルドはそう言った。


リゼットは砂時計を手に取る。透明な硝子の中で、白い砂が上に眠っている。底の銀針はまだ動いていない。


「奥様」


ハロルドが廊下の向こうから現れた。


今日も襟一つ乱れていない。乱れることを自分に許していない人の顔だった。


「寝室へ入られる前に、本日の確認を」


「はい」


「昨夜の兆候は」


「第三鐘後に寝言、内容不明。木製品の落下音。夜明け前に灯火消失」


「想定される朝は」


「黒鷹の騎士、または銀の執政者。ただし灯火消失から、白麦の少年の可能性も残ります」


ハロルドの眉がほんの少し上がった。


「なぜです」


「白麦の朝は、暗い場所を好むと昨日伺いました。ですが落下音が木製品なら、黒鷹のほうが高いと考えます」


「よろしい」


また、よろしい。


褒められているのではない。


確認されたのだ。


砂時計を返す時刻になった。


リゼットは寝室へ入る。


室内は暗い。厚い紗の向こうで、夜明け前の光が薄く滲んでいる。寝台の上で、セドリックは起きていた。


今日は昨日と違って、座ってはいない。


枕に背を預け、右手で自分の左手首を押さえている。暴れた形跡はない。けれど呼吸が浅い。


リゼットは砂時計を静かに返した。


白い砂が、細い喉を通って落ちはじめる。


「本日は、秋暦二十三日です」


そう告げる。


セドリックの睫毛が動いた。


「秋、か」


声は低い。


けれど昨日の黒鷹ほど硬くない。銀の執政者ほど冷たくもない。リゼットは記録帳を開き、第一声を書いた。


秋、か。


「お身体に痛むところはございますか」


「痛まないところを探すほうが早い」


薄く笑った。


その笑い方を、リゼットはまだ知らない。


ハロルドが横で小さく息を止める。


薄薔薇。


リゼットは記録帳の端にそう書いた。


薄薔薇の詩人の朝。


昨日、薄薔薇には硝子の杯を出してはいけないと聞いた。赤い花も避ける。甘い言葉は言うが、信じてはいけない。彼の言葉は好意ではなく、相手の反応を測るものだと神官が言っていた。


リゼットは机の上の銀杯を見た。


銀はよい。硝子ではない。


だが、盆に載っている薬は青の瓶だった。


黒鷹用だ。


リゼットはセドリックに背を向けないよう半歩退き、マルタに小声で告げた。


「薬を琥珀に替えて。食事は粥ではなく白パンを薄く。蜂蜜は添えないで。花瓶を下げて」


「花瓶もですか」


「赤い花です」


マルタの目が丸くなる。


今朝の花瓶には、王妃から届けられた薔薇が一輪挿されていた。


マルタは慌てて花瓶を抱え、部屋を出る。


セドリックはその様子を見ていた。


「花が嫌いだと言った覚えはないが」


「嫌いではなく、今朝は避けたほうがよいと伺っております」


「誰に」


「皆様に」


「皆様」


彼は面白そうにその言葉を繰り返した。


「私のことは、私以外がよく知っているらしい」


リゼットは返事に迷った。


肯定すれば、夫の尊厳を傷つける。


否定すれば、今ここで働いている全員の努力を嘘にする。


「私は、まだ存じ上げません」


結局、そう答えた。


セドリックの目がリゼットに留まる。


「では、君は何をしている」


「覚えております」


「何を」


「今日の殿下に、明日失礼をしないために」


砂時計の砂が落ちきった。


一瞬だけ、部屋の音が遠のく。


セドリックは何か言おうとした。けれどその前に、第一鐘が鳴った。遠い塔から、朝を告げる鐘の音が石壁を伝ってくる。


彼の表情が変わる。


薄い笑みが消え、瞳の奥に冷たい光が戻った。背筋が伸びる。指先の力が抜ける。リゼットを見る目が、急に机や椅子を見るものと同じになる。


「予定を」


銀の執政者。


リゼットは息を吸った。


一日の中で変わることもある。


それを昨日、最後に聞いた。まれだが、夜明けの砂時計が落ちきったあと、第一鐘を境に前面がずれることがある。兆候は、声の高さ、視線の焦点、左手の震え。


リゼットは記録帳に書く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ