第3話 朝の記録帳
リゼットが最初に覚えたのは、夫の好みではなかった。
白い薬瓶は、銀の執政者の朝。
青い薬瓶は、黒鷹の騎士の朝。
蜂蜜を入れた温い牛乳は、白麦の少年の朝。
薄薔薇の詩人には、硝子の杯を出してはいけない。割れた光を見ると、半刻ほど黙り込む。
本来のセドリックが現れる黎明前には、誰も部屋に入れてはいけない。声をかけていいのは一度だけ。名を呼ぶのではなく、日付を告げる。
リゼットは、それらを夫の口から聞いたのではない。
侍従長ハロルドが読み上げ、侍医が補足し、神官が注意を挟み、王妃の侍女が小声で言い添えた。
「薄薔薇の朝には、赤い花をお避けください」
「黒鷹の朝は背後に立たぬように」
「白麦の朝は王妃殿下に会わせたがりますが、会わせてはなりません」
「銀の執政者の朝は、質問に余計な感情を混ぜないでください。面倒がります」
面倒がります。
その言い方は、あまりにも日常的だった。
雨の日は裾が濡れます、くらいの調子で言われる。廊下の角は滑ります、くらいの顔で注意される。
リゼットは黒革の記録帳を開き、言われたことを一つずつ書いた。
一頁目は、婚礼翌日の黒鷹の朝で埋まった。
二頁目は、その日の昼までの反応。
三頁目は、食事の残量と薬効。
四頁目は、面会の可否。
五頁目は、禁句。
南の戦役。東門。神殿。婚礼。銀の鐘。白い花。夜明け前の祈り。
「禁句が多いのですね」
そう言うと、侍医は困ったように笑った。
「多いのではありません。日によって違うのです」
「では、毎朝変わるのですね」
「はい。ですから奥様がいらしてくださって、本当に助かります」
助かります。
その言葉だけは、何度ももらった。
だが、何を助けているのか、誰もはっきりとは言わなかった。
朝の第一鐘が鳴る前、リゼットは東棟の廊下を歩く。
窓の外はまだ青黒い。空と石壁の境が曖昧で、庭の糸杉が黒い針のように見えた。銀の鍵束が腰元でかすかに鳴る。鍵の音はすぐ絨毯に吸われた。
寝室の前には、衛兵が二人立っている。
彼らはリゼットに礼をしたが、目は扉から離さない。
「昨夜は」
リゼットが尋ねると、右側の衛兵が答えた。
「第三鐘のあと、寝言がございました。意味は取れません。物音は一度だけ。硝子ではなく、木が倒れた音かと」
左側の衛兵が続ける。
「夜明け前に灯りが消えました。殿下ご自身かは不明です」
「分かりました」
記録帳に書き足す。
第三鐘後、寝言。内容不明。
木製品の落下音。
夜明け前、灯火消失。
たった三行。
けれど、この三行で朝食の盆が変わる。
落下音があった日は、黒鷹である可能性が高い。黒鷹の朝に銀の食器を出すと、刃物の反射を嫌う。木の匙を用意し、塩気を強めた肉汁を添える。けれど肉片は大きくしてはいけない。戦場の携行食を思い出すからだと、侍医が言っていた。
リゼットは薬室へ向かった。
鍵束から薬室の鍵を選ぶ。七本のうち、いちばん小さい鍵だ。手袋をした指で回すと、軽い音がした。
薬室には、壁一面に棚がある。
白、青、琥珀、緑、黒。
小瓶には色の札だけがついていて、薬名は書かれていない。盗難を防ぐためだという。だが盗まれて困るものを、花嫁になったばかりのリゼットは、毎朝選ばなければならなかった。
青の瓶を取る。
隣の棚から乾燥したセージを取り、薄布に包む。
侍女のマルタが盆を持って待っていた。リゼットより少し年上の、働き者の娘だった。
「奥様、本日の朝食は厨房が卵粥を用意しております」
「黒鷹の可能性が高いので、卵粥は下げてください。肉汁を薄めず、ただし脂は取って。パンは柔らかいものを半分。果実はなしで」
「果実もですか」
「昨夜、木が倒れた音がしたそうです。黒鷹の朝なら、赤い果実は避けます」
「承知しました」
マルタは小走りで去っていく。
その背中を見送ってから、リゼットは記録帳の端に小さく書いた。
赤い果実。黒鷹には不可。
前任の記録帳が神殿へ預けられたせいで、リゼットは白紙から始めなければならない。王宮にはそれぞれの知識を持つ者がいる。けれど全員が少しずつしか知らない。侍医は薬を知っているが、衣装を知らない。侍女は食事を知っているが、禁句を知らない。衛兵は夜の物音を知っているが、朝の面会予定を知らない。
それらを繋ぐ者が、誰もいなかった。
だからリゼットが繋いだ。
寝室へ戻ると、夜明けの砂時計が卓上に置かれていた。
まだ返してはいけない。第一鐘の三十呼吸前。ハロルドはそう言った。
リゼットは砂時計を手に取る。透明な硝子の中で、白い砂が上に眠っている。底の銀針はまだ動いていない。
「奥様」
ハロルドが廊下の向こうから現れた。
今日も襟一つ乱れていない。乱れることを自分に許していない人の顔だった。
「寝室へ入られる前に、本日の確認を」
「はい」
「昨夜の兆候は」
「第三鐘後に寝言、内容不明。木製品の落下音。夜明け前に灯火消失」
「想定される朝は」
「黒鷹の騎士、または銀の執政者。ただし灯火消失から、白麦の少年の可能性も残ります」
ハロルドの眉がほんの少し上がった。
「なぜです」
「白麦の朝は、暗い場所を好むと昨日伺いました。ですが落下音が木製品なら、黒鷹のほうが高いと考えます」
「よろしい」
また、よろしい。
褒められているのではない。
確認されたのだ。
砂時計を返す時刻になった。
リゼットは寝室へ入る。
室内は暗い。厚い紗の向こうで、夜明け前の光が薄く滲んでいる。寝台の上で、セドリックは起きていた。
今日は昨日と違って、座ってはいない。
枕に背を預け、右手で自分の左手首を押さえている。暴れた形跡はない。けれど呼吸が浅い。
リゼットは砂時計を静かに返した。
白い砂が、細い喉を通って落ちはじめる。
「本日は、秋暦二十三日です」
そう告げる。
セドリックの睫毛が動いた。
「秋、か」
声は低い。
けれど昨日の黒鷹ほど硬くない。銀の執政者ほど冷たくもない。リゼットは記録帳を開き、第一声を書いた。
秋、か。
「お身体に痛むところはございますか」
「痛まないところを探すほうが早い」
薄く笑った。
その笑い方を、リゼットはまだ知らない。
ハロルドが横で小さく息を止める。
薄薔薇。
リゼットは記録帳の端にそう書いた。
薄薔薇の詩人の朝。
昨日、薄薔薇には硝子の杯を出してはいけないと聞いた。赤い花も避ける。甘い言葉は言うが、信じてはいけない。彼の言葉は好意ではなく、相手の反応を測るものだと神官が言っていた。
リゼットは机の上の銀杯を見た。
銀はよい。硝子ではない。
だが、盆に載っている薬は青の瓶だった。
黒鷹用だ。
リゼットはセドリックに背を向けないよう半歩退き、マルタに小声で告げた。
「薬を琥珀に替えて。食事は粥ではなく白パンを薄く。蜂蜜は添えないで。花瓶を下げて」
「花瓶もですか」
「赤い花です」
マルタの目が丸くなる。
今朝の花瓶には、王妃から届けられた薔薇が一輪挿されていた。
マルタは慌てて花瓶を抱え、部屋を出る。
セドリックはその様子を見ていた。
「花が嫌いだと言った覚えはないが」
「嫌いではなく、今朝は避けたほうがよいと伺っております」
「誰に」
「皆様に」
「皆様」
彼は面白そうにその言葉を繰り返した。
「私のことは、私以外がよく知っているらしい」
リゼットは返事に迷った。
肯定すれば、夫の尊厳を傷つける。
否定すれば、今ここで働いている全員の努力を嘘にする。
「私は、まだ存じ上げません」
結局、そう答えた。
セドリックの目がリゼットに留まる。
「では、君は何をしている」
「覚えております」
「何を」
「今日の殿下に、明日失礼をしないために」
砂時計の砂が落ちきった。
一瞬だけ、部屋の音が遠のく。
セドリックは何か言おうとした。けれどその前に、第一鐘が鳴った。遠い塔から、朝を告げる鐘の音が石壁を伝ってくる。
彼の表情が変わる。
薄い笑みが消え、瞳の奥に冷たい光が戻った。背筋が伸びる。指先の力が抜ける。リゼットを見る目が、急に机や椅子を見るものと同じになる。
「予定を」
銀の執政者。
リゼットは息を吸った。
一日の中で変わることもある。
それを昨日、最後に聞いた。まれだが、夜明けの砂時計が落ちきったあと、第一鐘を境に前面がずれることがある。兆候は、声の高さ、視線の焦点、左手の震え。
リゼットは記録帳に書く。




