第2話 明日の注意事項
「はい、殿下」
「今夜は眠れ。明日の朝、君は私を知らないかもしれない」
リゼットは、銀の鍵束を握りしめた。
「殿下が、私をお忘れになるということでしょうか」
「違う」
彼はすぐに否定した。
だが、その後の言葉は続かなかった。
ハロルドが一歩前に出る。
「奥様。殿下は夜明けごとに、ご記憶やご気質の前面が変わります。お身体は殿下のものですが、好まれる食事、避けるべき言葉、面会可能な相手、服薬の順序、剣帯の有無、光への反応が異なります」
紙に書かれた規則を読むような声だった。
「明朝は初日ですので、わたくしが横で補佐いたします。奥様には、殿下のお言葉、手の震え、瞳孔、朝食への反応を記録していただきます」
リゼットはセドリックを見た。
彼は横を向いている。窓には夜の色が沈んでいた。硝子に映る彼の顔は、夫というより、処置を待つ病人に近い。
「殿下は、それをお望みですか」
リゼットの問いに、ハロルドが答えようとした。
けれどセドリックが片手を上げて止める。
「望みでどうにかなる話ではない」
その声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、扉を閉める音に似ていた。
「君には迷惑をかける」
初めての謝罪だった。
謝罪なのに、これから迷惑をかけることは変わらない。リゼットは礼をするしかなかった。
「務めを果たします」
セドリックの目が、少し細くなる。
「そう言わされるために来たのなら、気の毒なことだ」
ハロルドが咳払いをした。
「殿下。お休みの時刻です」
セドリックは、それ以上何も言わなかった。
寝室の扉が閉まる。
リゼットに与えられた部屋は、その隣だった。夫婦の寝室ではない。壁一枚隔てた観察者の部屋。白い寝台、机、燭台、洗面台。机の上には羽根ペンが三本と、薬瓶の一覧が置かれている。
王弟殿下の妻になった夜。
リゼットは寝間着に着替える前に、記録帳を開いた。
一頁目は白紙だった。
上部に日付を書く欄がある。次に、起床時刻。表情。第一声。拒否反応。食事。薬。禁句。面会可否。服装。危険兆候。その他。
花嫁に渡される帳面としては、あまりにも実用的だった。
リゼットは羽根ペンを持つ。
今日の日付を書こうとして、手を止めた。
自分の婚礼の日を、夫の観察記録として始めるのか。
窓の外で夜の鳥が鳴いた。東棟の廊下を、誰かの足音が通り過ぎる。止まり、また遠ざかる。見張りの交代だろう。
リゼットは、今日の欄には何も書かなかった。
代わりに、帳面を閉じた。
朝の第一鐘が鳴るより先に、ハロルドが扉を叩いた。
「奥様。お支度を」
空はまだ暗かった。
リゼットは髪を結い、紺色の朝服に袖を通した。華美な飾りは不要だと言われていた。袖口が邪魔にならないもの。インクで汚れても目立たないもの。歩いても音が少ない靴。
花嫁衣装の白絹は、椅子に掛けられたまま冷えていた。
隣の寝室に入ると、セドリックはすでに起きていた。
いや、昨日のセドリックではなかった。
姿は同じだ。髪の色も、目の色も、背の高さも変わらない。けれど椅子に座る姿勢が違う。背筋を硬く伸ばし、右手が寝台脇に置かれた剣帯を探している。昨夜の彼が持っていた静けさは消え、部屋の隅まで敵地として測っている目になっていた。
「ここはどこだ」
低い声。
リゼットは息を整えた。
ハロルドが一歩下がる。答えは奥様が、と目だけで告げている。
「王宮東棟でございます、殿下」
「王宮」
セドリックはリゼットを見る。
「女。所属を名乗れ」
昨日、彼はリゼットの名を呼んだ。
今朝の彼は、リゼットを知らない。
「リゼット・エルネイスでございます」
「エルネイス。北東の小領か」
「はい」
「なぜ私の寝所にいる」
ハロルドの手が、記録帳を示した。
リゼットは机に向かい、羽根ペンを取る。起床時刻。第一声。警戒強。剣帯を探す。王宮の認識あり。妻の認識なし。
妻の認識なし。
その六文字を書いたとき、インクが少し滲んだ。
「リゼット様」
ハロルドが小声で言う。
「黒鷹の朝です。殿下を刺激なさいませんよう。朝食は固いパンを避け、肉汁を薄めてください。薬は白ではなく青の瓶から。王妃殿下との面会は不可。南の戦役、神殿、婚礼の話題は禁句です」
リゼットは顔を上げる。
セドリックがこちらを見ていた。
疑う目だった。頼る目ではない。まして、花嫁を見る目でもない。
ハロルドはさらに続ける。
「奥様、本日の注意事項を復唱してください」
リゼットは記録帳の端を押さえた。
白い頁に、昨日の誓いの言葉は一つも残っていない。指輪の重さだけが、左手にある。
「固いパンを避ける。肉汁を薄める。薬は青の瓶。王妃殿下との面会は不可。南の戦役、神殿、婚礼の話題は避ける」
「よろしい」
よろしい。
婚礼の翌朝に、妻がもらう言葉だった。
セドリックが立ち上がる。椅子が床を擦った。衛兵が扉の外で身じろぎする。リゼットは記録帳を抱え、半歩下がった。
朝の光が窓の紗を白くする。
夫の名前より先に、明日の注意事項を覚えさせられた。




