第1話 神託の花嫁
婚礼の朝、リゼット・エルネイスは名前を三度呼ばれた。
一度目は、白い神殿の扉の前で。
「リゼット・エルネイス。神託により、王弟セドリック・ヴァン・ノクス殿下の花嫁となる者」
神官の声は、磨かれた床に薄く広がった。祭壇へ続く長い通路の左右には、王宮の人々が並んでいる。皆、絹と宝石で飾られていた。小伯爵家から来たリゼットの親族だけが、与えられた席の端で肩を寄せている。
父は誇らしげだった。母は目を潤ませていた。
リゼットは、手袋の内側で指を折る。
エルネイス家にとって、これは栄誉なのだ。
神託で王家に嫁ぐ娘。辺境に近い小さな領地から、王弟殿下の妻になる娘。父が三日前から何度も繰り返した言葉は、婚礼の鐘より重く耳に残っている。
耐えなさい。選ばれたのだから。
祭壇の前に立つ男は、リゼットが想像していたより若かった。
セドリック・ヴァン・ノクス。
肖像画では、冷ややかな美貌ばかりが強調されていた。けれど実物の彼は、冷たいというより、長く眠っていない人のように見えた。黒に近い紺の礼服。銀糸の刺繍。伏せた睫毛の下で、灰青の瞳が静かにこちらを測っている。
リゼットが祭壇の前で膝を折ると、彼の視線が指先に降りた。
「君が、リゼットか」
初めて聞く夫の声だった。
低く、整っていて、温度が少ない。
「はい。リゼット・エルネイスでございます」
「神託は変わらなかったのだな」
その言葉に、神官の眉がわずかに動いた。
セドリックは、誓いの言葉を読み上げた。読み間違いはなかった。指輪を取る手も揺れなかった。王弟殿下として、彼はすべてを正しく行った。
ただ一つ、リゼットを見る目だけが、花嫁を見るものではなかった。
それは役目を確認する目だった。
二度目に名前を呼ばれたのは、誓約書へ署名するときだった。
「リゼット・エルネイス。こちらへ」
王妃イザベルが、薄青の袖を引いて手招いた。
王妃は美しい人だった。白金の髪を結い上げ、笑みも声も柔らかい。けれど近くで見ると、目元に疲れの影がある。眠れない夜を薄化粧で隠した人の顔だった。
「怖がらなくていいのよ。セドリックは、乱暴な人ではありません」
慰めの言葉のはずだった。
リゼットは礼をした。
「承知しております」
王妃は、リゼットの返事を聞いて微笑んだ。けれどその微笑は、ほっとした顔に近い。
「あなたは落ち着いているのね」
「田舎育ちですので、急な雨と獣の足音には慣れております」
王妃の唇が少しだけ緩む。
「なら、朝にも慣れてくれるとよいのだけれど」
朝。
その単語だけ、祭壇の灯の中で色を変えた。
リゼットが聞き返す前に、神官が誓約書を差し出した。厚い羊皮紙には、王家の紋章と神殿の印が並んでいる。花嫁の署名欄は、花婿のものより小さかった。
リゼットは羽根ペンを取る。
インクの匂いがした。濃く、苦い匂い。
名前を書き終えると、神官が誓約書を高く掲げた。
「ここに、神託は成就した」
参列者たちが頭を下げる。
祈りの声が広がった。神の名。王家の名。秩序の名。祝福の名。
リゼットの名は、その中にすぐ溶けた。
婚礼の宴は短かった。
王弟殿下は杯を一口だけつけ、王に礼をして席を立った。誰も引き止めない。予定された動きなのだと、空気が教えていた。
夫婦の部屋へ案内されるものと思っていたリゼットは、王宮の東棟へ連れていかれた。
廊下は長い。
王宮の中心にある華やかな回廊と違い、東棟は音を吸う造りだった。厚い絨毯。二重の扉。窓には薄い紗の内側に、さらに銀色の鎖が掛けられている。廊下の角ごとに衛兵が立っていたが、槍の穂先は外へ向けられていなかった。
内側を見張っている。
案内役の侍従長が、リゼットの少し前を歩いた。細身で、髪をきっちり撫でつけた男だった。名をハロルドという。
「奥様には、本日より東棟の朝務をお引き受けいただきます」
「朝務、でございますか」
「はい。殿下のご体調に関わる、大切なお役目です」
妻の務め、とは言わなかった。
朝務。
紙に書いたら、きっと役職名のように見える。
東棟の奥にある部屋で、ハロルドは銀の鍵束をリゼットに渡した。鍵は七本あった。それぞれに小さな札がついている。
執務室。薬室。寝室。衣装室。応接室。静養室。
最後の一本だけ、札がない。
「この鍵は、どちらのものでしょう」
「今は覚えなくて結構です。必要な朝が来ましたら、お知らせします」
必要な朝。
リゼットは鍵束を両手で受け取る。銀は冷たかった。式で嵌められた指輪より、ずっと重い。
次に渡されたのは、黒革の帳面だった。
表紙には何も書かれていない。端が擦れている。何度も開かれ、閉じられてきたものの手触りがあった。
「こちらが記録帳です」
ハロルドは机に帳面を置き、白い布手袋で表紙を撫でた。
「前任の記録は、神殿預かりとなりました。奥様には明朝より、新しい記録を始めていただきます」
「前任、ですか」
リゼットの声が少しだけ遅れた。
ハロルドは表情を変えない。
「医師、神官、侍従、王妃殿下。複数名が分担しておりました。しかし神託により、奥様がもっとも殿下に近い位置で観察なさることになりました」
もっとも近い位置。
その言葉は甘く聞こえる。けれど、甘さは砂糖壺の外側に塗られただけだった。中身は薬のように苦い。
「観察するのですか。夫を」
「支えるためです」
ハロルドは、そこだけ丁寧に言い直した。
部屋の中央には、小さな砂時計が置かれていた。透明な硝子の中で、白い砂が上に溜まっている。通常の砂時計とは違い、台座に細い銀の針がついていた。
「夜明けの砂時計です。朝の第一鐘が鳴る前に返してください。砂が落ちきるまでのあいだに、殿下の状態を確認します」
「状態」
「お目覚めになった殿下が、どの朝にいらっしゃるかを」
どの朝。
リゼットはその言い方を、聞き間違いだと思いたかった。
そのとき、隣室の扉が開いた。
セドリックが立っていた。
婚礼の礼服は脱いでいる。白いシャツに濃紺の上着を羽織っただけの姿で、昼よりも血の気が薄く見えた。彼はリゼットの手元にある記録帳を見て、かすかに眉を寄せる。
「もう渡したのか」
「王妃殿下のご指示です」
ハロルドが頭を下げた。
セドリックは息を吐いた。ため息ではない。言葉を一つ呑み込んだ音だった。
「リゼット」
三度目の名前だった。
祭壇より近い。けれど、まだ遠い。




