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毎朝夫が別人になりますので、私は私の朝を選びます。  作者: 九葉(くずは)


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第10話 連れ戻してはなりません

三日目の朝、白麦の少年が王妃に会いたがったとき、彼女は断った。地図を出し、蜂蜜入りの牛乳を出し、砂時計を横にした。


誰にも責められないように。


誰も傷つかないように。


「リゼット様は」


王妃は記録帳を胸に抱いた。


「こんなことを、毎朝」


「三日です」


ハロルドが言った。


「たった三日です、王妃殿下」


だから大したことではない。


そう続けるつもりだったのかもしれない。


けれど言葉は続かなかった。


たった三日で、東棟は彼女なしに朝を始められなくなっている。


その事実が、全員の前に置かれていた。


財務卿との会談は中止になった。


神官の祈祷も中止になった。


王妃との面会も、中止になった。


午前中に残った仕事は、王弟殿下を執務室へ移すことだけだった。


それすら、三度失敗した。


一度目は、剣帯を外したまま歩かせようとして黒鷹の残りが反応した。


二度目は、廊下の窓を開けてしまい、光の角度に薄薔薇が目を閉じた。


三度目は、銀の執政者が「この予定表は信用できない」と言って寝室へ戻った。


昼前には、東棟全体が疲弊していた。


誰も怒鳴っていない。


誰も罰されていない。


ただ、決まらない。


薬を決められない。


食事を決められない。


面会を決められない。


祈祷文を決められない。


夫の名を呼んでよいのかさえ、決められない。


王宮は広く、古く、賢い人間が大勢いる場所だった。


けれど今朝、その全員が一冊の黒革の記録帳を囲んでいた。


午後、神殿長オルガンが到着した。


白い法衣に金の刺繍。穏やかな目。王妃へ深く礼をし、混乱を見ても声を荒げなかった。


「神託の花嫁は、どちらへ」


「それを調べています」


王妃の声は硬い。


オルガンは記録帳を見た。


「持ち出さなかったのですか」


その言葉に、マルタが顔を上げる。


「奥様は、置いていかれました。皆が困らないように、今日の注意まで書いて」


オルガンは微笑んだ。


「ならば、務めは果たされたのでしょう」


「務め?」


マルタが聞き返す。


ハロルドが止めようとしたが、間に合わなかった。


「奥様は、務めを果たしたから出て行かれたのではありません」


マルタの声は震えていたが、消えなかった。


「務めにされたから、出て行かれたのです」


廊下の空気が凍る。


侍女が神殿長に意見するなど、本来なら許されない。


だが王妃は叱らなかった。


セドリックも、扉の奥から何も言わなかった。


オルガンはゆっくりとマルタを見た。


「感情的ですね」


「はい」


マルタは答えた。


「奥様が感情的にならなかった分、私がなっています」


それ以上、誰も言葉を挟まなかった。


夕方近くになって、リゼットの行方について最初の報告が入った。


東門の外で、灰色の外套の女性が乗合馬車に乗ったという。行き先は王都南の宿場町。名は名乗らなかった。だが薬草の刺繍がある外套を着ていた。


王妃は椅子に座り込んだ。


「追いなさい」


言いかけて、唇を閉じる。


追ってどうするのか。


連れ戻すのか。


謝るのか。


命じるのか。


王妃は自分の手の中にある記録帳を見る。


そこには、最後にこう書かれていた。


記録者、リゼット・エルネイス。


彼女は、自分の名を書いて出て行った。


王妃は目を閉じた。


「安全だけ、確認して」


ハロルドが礼をする。


「かしこまりました」


「連れ戻してはなりません」


その言葉に、東棟の何人かが顔を上げた。


王妃の声は弱かった。


しかし、命令だった。


「今朝、わたくしたちは何も決められなかった。けれど、それだけは決めます」


夜になっても、東棟の混乱は完全には収まらなかった。


セドリックは薬を飲まず、夕食も半分残した。祈祷は行われず、財務卿は不機嫌な書状を残して帰った。神官たちは神殿長の指示を待ち、厨房は翌朝の仕込みを四種類用意することになった。


マルタは、冷めた紅茶の盆を下げた。


朝から何度も淹れ直した紅茶だった。


熱すぎると言われ、ぬるいと言われ、香りが強いと言われ、薄すぎると言われた。最後には誰も出す勇気がなくなり、盆の上で冷えていた。


マルタは厨房の入口で立ち止まる。


料理長が訊いた。


「結局、殿下はどれを」


「どれも召し上がりませんでした」


「紅茶もか」


「はい」


料理長は黙った。


それから、低く呟いた。


「奥様は、どうやって決めていたんだ」


マルタは答えられなかった。


観察していた。


覚えていた。


考えていた。


誰も傷つかないように、先回りしていた。


そう言葉にすれば簡単だ。


けれど、その簡単なことを、王宮の誰も代われなかった。


東棟の夜は、朝よりさらに静かだった。


だがそれは、整った静けさではない。


誰も次の音を出せない静けさだった。


机の上には黒革の記録帳が開かれている。


その隣に、冷めた紅茶。


湯気はもうない。


朝からずっと王宮中が考えていた。


薬瓶はどれか。


祈祷文はどうするか。


王妃を通すか。


財務卿を待たせるか。


名を呼ぶか。


鍵を使うか。


追うか。


戻すか。


謝るか。


命じるか。


けれど、最初の問いにすら答えは出ていなかった。


誰も、紅茶の温度ひとつ決められなかった。

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