第五話 インターン一日目と刺客
林檎を齧りながら、サムはメグ様を連れて、旧王宮の門のほうへ歩いた。
見回りの順路なら、井戸が先だ。だが今日は、門の角から片づける。
さっき通りの空気が冷えたとき、真っ先に口をつぐんだのは、門の角の荷運びたちだった。この通りで一番口が悪く、一番声のでかい連中だ。あの連中が黙れば、それに倣う奴らも多い。
荷運びの口は、荷と一緒に動く。門の角で昼前に出た話は、日暮れには河岸の荷役の組に届き、明日の朝には倉庫街の端まで回っている。
それに、メグ様は今後、エイブ商会で荷を担ぐ。そのとき隣で樽を転がすのは、あの連中か、その仲間だ。今日のうちに「新市街のお嬢様」で話が固まってしまえば、二週目の荷場は、ただの見世物小屋になる。
「よう、サム。新市街のお嬢様のお守りか。ご苦労なこった」
門の角まで来ると、荷運びたちが、いつもより一段低い声で言った。
「高級コアぶら下げて、俺らの仕事の見物かい」
「見物料でも払ってくれんのかね」
荷運びたちのいつもの軽口とは、温度が違った。サムが口を開くより先に、金髪のお団子が一直線に突っこんでいった。
「見物じゃありません! インターンのメグ・ホッパーです!」
「……あ? なんだって?」
荷運びたちが、面食らった顔をした。それから、そろってサムを見た。ああ、お前らはインターンなんぞ知らんよな。俺だってどんな制度かよくわからんのだ。
「こいつは、見物しに来たんじゃない」
サムは、門の脇の塩樽に目をやった。
「働きに来たんだ。うちの課の下っ端でな。二週目には、エイブ商会で荷も担ぐ」
「サムの部下ってことか?」
「ああ、そうだ。二か月だが、よろしく頼む」
メグ様は、門の脇に積まれた樽の山を見上げていた。
「あの! 皆さんが毎日運んでいる荷の中で、一番重いのって、何ですか?」
「……あ?」
荷運びの一人が、面倒くさそうに顎で樽をしゃくった。……なんか嫌な予感がする。
「冬なら、そいつだ。塩樽だよ。ひと樽で、お嬢様三人ぶんはある」
「三人ぶん……!」
「そのお細い腕じゃ、指一本動かねぇよ。見物だけにしときな」
まずい。青い目が光った。
「メグ様。これは重いので、あちらの林檎箱を――」
言い終わるより早く、メグ様は塩樽の一つに両腕を回していた。背中の双剣の柄で、特二等級のコアがふわりと青く灯る。
「おぅぅらぁぁぁっ!」
お嬢様の口から出たとは思えない掛け声とともに、ずしりと重い樽が、石畳から浮いた。荷運びたちから、どよめきが上がった。
「おお!?」
「持ち上げやがった!」
「おい、今の掛け声、聞いたか」
「……メグ様。そんなことで対抗なさらなくても、よろしいのですが」
「対抗なんてしてません! どうですか主任! 私だって――あっ」
振り向いた拍子に、樽が傾いた。
コアの力で持ち上げてはいても、樽の中の塩は動く。傾いた側へ、ざざっと塩が寄る。樽ごと、メグ様の体が横に持っていかれる。その先には、メグ様自身の爪先がある。
サムは二歩で詰めて、樽の底に自分の靴の甲をねじこんだ。同時に、手甲のコアから力を引き、靴の甲の上に盾を一枚張る。
お嬢様三人ぶん。しかも中で塩が暴れている。手甲の第五等級から一度に引き出せる力には限界がある。いつものように薄く張ったのでは、盾ごと踏み抜かれて、靴の甲が砕ける。盾は広く張れば紙になり、狭く絞れば鉄になる。メグ様の背中に眠らせてある一枚だけを残して、手元の残りをすべて、靴の甲の上の、掌ほどの一枚に押しこんだ。盾が重く、固く締まっていく。手甲の中で、安物のコアが小さく軋んだ。
樽の角が、メグ様の爪先の、指一本ぶん手前で止まった。
靴の甲の上の盾でいったん重みを受け止め、そのまま足先をひねって、樽の底を横へ滑らせる。メグ様の足元から外れたところで、すっと靴を抜いた。
直後、樽の底に残っていた盾が重みに耐えきれずに弾け、青白い光がひとすじ滲んで消えた。
どごん、と凄まじい音を立てて、塩樽が石畳に転がる。
落ちた樽の影が、盾の光をうまく隠してくれた。メグ様には、俺の足の甲で樽を蹴り出して、そのまま足が潰れたように見えただろう。
「…………」
「しゅ、主任!? 足、大丈夫ですか!?」
「……メグ様。荷運びの体験は、二週目の予定です」
「ご、ごめんなさい!」
荷運びたちが腹を抱えて笑い転げた。
「いいぞお嬢ちゃん! サムの足なら、何樽落としても構わねぇ!」
「どうせ頑丈にできてらあ!」
「やかましいぞ、おめぇら」
サムは片膝を曲げ、痛むふりをして靴の甲をさすりながら悪態をついた。
「サムの足に塩樽落とす下っ端か、こりゃいいや。……おいサム、下っ端ってのは嘘で、ほんとは嫁さんもらったんだろ」
「馬鹿言え、娘だろ」
「いや、あの歳の差なら孫だ、孫」
「嫁でも娘でも孫でもありません! 下っ端です!」
メグ様が胸を張って言い返すと、荷運びたちは、またげらげらと笑った。
さっきまでの低い声は、もうどこにもなかった。荷運びたちが納得したわけではないだろうが、旧市街には独特の仲間意識がある。とりあえずは、俺の顔を立てて、うまく合わせてくれている。あとで何か持っていかないとな。
笑い声の向こう、焼き栗屋の前で、黒いワンピースが籠を提げて立っていた。
ネルは、栗を選ぶふりをしながら、門の角と、東の路地と、メグ様の背中を、順番に見ていた。人混みが流れても、メグ様との距離が変わらない。メグ様が井戸の方へ動けば、ネルもいつのまにか井戸の向こうにいる。
よく仕込んである。ドロシーのところの娘たちは、皆そうだ。
ふと見ると、メグ様が、ネルの方をじっと見ていた。それから、サムの方を見た。またネルを見た。
帳面が出てきた。
……頼むから、何も書かないでくれ。
◇
「あっ、サムだ!」
「サムだ、サムだ!」
井戸の縁石から、番号札の子どもたちがいっせいに飛び降りてきた。あっという間に、外套の裾が五人ぶんの手で引っぱられる。
「サム、言われたとおり道場行ってるよ!」
「ジャックのおっちゃん、めちゃくちゃ怖え!」
「受け身、百回やらされた!」
「そりゃ良かった」
頭を順番に、ぞんざいに撫でてやる。その間にも、子どもたちの目はとっくにメグ様に釘付けだった。
「だれ、このひと!」
「金髪!」
「お団子、でけえ!」
「お姫さま?」
メグ様はしゃがみこみ、子どもたちと目の高さを合わせて、満面の笑みを浮かべた。
「お姫さまじゃありません。今日からサミュエル主任の部下になった、メグです!」
「サムに部下なんかいたのか!」
「ねえ、その剣、本物?」
「本物。だから触っちゃだめ。そのかわり、道場のお話を聞かせて? ジャックさんって、どんな人? どこにある道場なの?」
「えっとね、川のほうの――」
「メグ様」
サムは、一段だけ声を低くした。
「子どもたちは、これから水汲みの仕事です」
「あっ、ごめんなさい! お仕事、頑張ってね!」
子どもたちは「またね、お団子!」と叫んで、四方に散っていった。
井戸へ。門の角へ。路地の奥へ。焼き栗屋の裏へ。走りながら、すれ違う大人に一言ずつ、何か声をかけていく。ほどなく、まだ一言も口をきいていない屋台の女たちが、次々にメグ様に手を振りはじめた。
「あんたがサムのとこの下っ端かい!」
「金髪のお団子だ、ほんとにでっかいねえ!」
さっき籠を抱えて大回りによけていった輪のパンの女まで、籠の向こうで、ぎこちなく手を上げている。子どもたちが運んだのは、「あのお嬢は、サムの部下だ」という一言だった。
メグ様が、ぴたりと動きを止めた。
笑顔のまま、目だけが、散っていった子どもたちの行き先をなぞっている。井戸、門の角、路地の奥、焼き栗屋の裏。それから、帳面に何か書いた。今度は線を引かずに、小さく丸で囲んだ。
サムは、林檎の芯を噛んだ。
走り使いの一番下の層が、ドロシーの網の目と耳になっている。この街で暮らしていても、気づかない者は一生気づかない。初日の、それも一刻目で、それを丸で囲む子がいる。やはり、勘のいい子だ。騒々しいが。
◇
「豆粥、食べたいです!」
井戸の脇の屋台の前で、メグ様は高らかに宣言した。壁際の屋台の中でも、ひときわ大きな鍋だった。白い湯気が庇に当たって渦を巻き、鍋の縁で、荷役の男たちが手を温めている。
「立ち食いになりますが」
「平気です! 立って食べるの、一度やってみたかったんです!」
そう言いながら、メグ様は財布から小銭を出し、椀の預け金を鍋の脇の木皿に、ちゃりん、と置いた。それから、ぴったりの粥代を、その隣に並べた。一度やってみたかった人間は、預け金の作法を知らない。
鍋をかき回していたマーサ婆さんの手が止まった。湯気の向こうから、皺だらけの顔がじいっとメグ様を見る。
「……おや。あんた、去年の秋の、計算のできないお嬢ちゃんじゃないか」
メグ様の笑顔が、顔に貼りついたまま、ぴくりとも動かなくなった。
「ひ……人違いです」
「その金髪のお団子を見間違えるもんかね。少なくとも三回は来たろ。最初は預け金も払わずに椀を持ってこうとして、二回目は粥代の倍を置いてった。……ちゃんと払えるようになったじゃないか。えらいえらい」
鍋の縁の荷役たちが、どっと笑った。
「なんだ、常連かよ!」
「初めて来たってツラしてたぞ、今!」
メグ様の顔が、耳まで真っ赤になった。それから、おそるおそる、サムを見上げた。
サムは、マーサ婆さんから受け取った椀を手に、湯気の向こうで粥を冷ましていた。知っていた。ドロシーから、行き先も、回数も、置いていった小銭の額まで聞いている。
メグ様の顔に、はっきりと書いてあった。お父様にばれる、と。
「あ、あの、主任……! このことは、その……」
サムは粥を一口すすってから、口を開いた。
「勤務時間外のことは、私の管轄外です」
メグ様が、目をぱちくりさせた。
「……ただ、今朝の約束の二つ目は、今日からですよ。メグ様」
一人で歩き回らないこと。
メグ様は、しばらくサムの顔を見ていた。それから、今度は帳面に何も書かずに、小さく頷いた。
「……はい。守ります」
マーサ婆さんが、何も言わずに、メグ様の椀にだけ葱を多めに散らした。
◇
「カルマン主任」
椀を返していると、すぐ後ろで、涼しい声がした。
ネルだった。足音をさせずに寄ってくるのは構わないが、せめて人前ではもう少し普通に歩いてほしい。ネルは、サムとメグ様のあいだに、するりと割って入った。サムには、きれいに背中を向けて。
ネルはメグ様の前で、エプロンの裾をつまんで、きれいに膝を折った。
「はじめまして、ホッパー様。エイブ商会のネルと申します。二週目からの研修では、私どもがお世話いたします。どうぞよろしくお願いいたしますね」
春の日だまりみたいな笑顔だった。
「メグです! あの、さっきからずっと、素敵な制服だなって思ってたんです!」
「まあ、嬉しい」
ネルは一歩横にずれ、メグ様に小さく一礼してから、サムを振り返った。
日だまりが、一瞬で霜の朝になった。
「来週の荷の受け渡し。時刻、覚えてんだろうな」
声が、一段どころか三段は低い。さっきの「まあ、嬉しい」と同じ喉から出ているとは、とても思えない。
「覚えてる」
「どうだか。大事な約束ほど忘れる男だからな、あんたは」
「……何の話だ」
「てめぇの話だ。この甲斐性無しが」
ネルは、メグ様には聞こえないくらいの声で――そのくせ、どう考えても聞こえる距離で――吐き捨てた。
「ふざけんじゃねぇぞ。姐さんの言いつけがなきゃ、誰があんたの面倒なんぞ見るか」
「……すまん。金は払ってある。頼むよ」
「てめぇが頼むんじゃねぇ。姐さんに頼まれたんだよ。だから仕方なく、こうして寒い中突っ立ってんだ。分かったら、せめてお嬢様の足を引っぱるんじゃねぇぞ、ぼんくら」
そこまで言うと、ネルはくるりとメグ様に向き直った。
霜の朝が、一瞬で春の日だまりに戻った。
「それではホッパー様、来週お待ちしておりますね。寒いので、どうぞお風邪など召されませんよう」
「は、はい……!」
メグ様は、ネルとサムの顔を、ものすごい速さで交互に見ていた。
「それと、主任さん」
ネルの声が、また三段下がった。
「今日の東区は、虫が多いですよ。お嬢さんの背中に、悪い虫がつかないようにね」
そう言いながら、ネルの目は、まっすぐサムを見ていた。エプロンの陰で、ネルの指がサムの外套を指し、そして指を二本、ちらりと立てた。
旧市街では珍しくもない、既製品の安物の灰色の外套。だが知らない顔。そいつが、これで二度目。
「……ご忠告どうも」
ネルは踵を返しかけて、ふと足を止め、振り返らずに言った。
「……姐さんは、あたしがもらう。おめぇの世話にはならねぇよ」
返事を待たずに、黒い裾は人混みに溶けた。去り際、すれ違いざまに、ネルのエプロンがサムの袖をかすめた。ネルはわざわざ足を止めて、かすめたところを、二度、手で払っていった。勘弁してくれ、俺はお前の恋敵じゃねぇ。
しばらく、誰も何も言わなかった。鍋の縁の荷役たちが、気の毒そうにサムを見ている。お前らはお前らで、なんか勘違いしてるよな。俺はドロシーの恋人じゃないぞ。
やがて、隣で、ぱたりと帳面を開く音がした。メグ様は、猛然と何かを書きつけていた。頬が、ほんのり赤い。目が、異様に輝いている。
「……主任」
「はい」
「あの方、口ではあんなにおっしゃってるのに、姐さんに言われたからって、ちゃんと寒い中来てくださってるんですよね」
「まあ、そうなりますね」
「『誰があんたの面倒なんぞ見るか』って言いながら、面倒を見てくださってるんですよね」
「……そうなりますね」
メグ様は、帳面を胸に抱きしめた。
「『伯爵の白い手袋』の、侍女のアンナと同じです……! 口では伯爵様を罵ってばかりなのに、伯爵様が熱を出した夜だけ、一晩じゅう枕元を離れなかった、あの……!」
何の話か、まるで分からない。
メグ様は、そこでふと真顔になり、サムを見上げた。純粋な、知的好奇心の目だった。
「それで、主任のほうは」
「はい」
「罵られるのが、お好きなんですね?」
サムは、思いきりむせた。
「ごほっ……いえ、そういうわけでは……」
「だって、あれだけ言われて、一度も言い返さないなんて。ぼんくらとか、甲斐性なしとか。普通は怒ります。……そういうご趣味で?」
「いや、全く違……」
「大丈夫です、私、そういうことには理解がありますので! 小説で読みましたから!」
「違いますから」
「どの小説で読んだのか、聞かないんですか?」
「聞いても、私にはわからないと思いますよ」
鍋の縁の荷役たちが、肩を震わせて背中を向けた。マーサ婆さんは、鍋をかき回す手を止めずに、鼻から長い息を吐いた。横目でそっと覗くと、帳面にはこう書いてあった。
――主任、商会の女性陣に嫌われている。かなり。
――ネルさん、口は悪いが面倒見がいい。(アンナ型)
――※「姐さん」なる人物あり。主任に想いを寄せている?(要調査)
――※主任、甲斐性なし。罵られても怒らない。(そういうご趣味?)
最後の一行にだけ、二重丸がついていた。
「メグ様。何を書いておられるんです」
「業務記録です!」
お前の業務は、インターンだろうが。
◇
「お団子ー!」
通りの向こうから、さっきの子どもの一人が駆けてきた。番号札は七番。小さな手に、焼き栗屋の長い鉄串を握っている。焼き網の栗を返す道具だ。使いの途中らしい。
「あっ、走ったら危ないよー!」
メグ様が笑って手を振り、自分から子どもの方へ駆け出した。五歩、六歩。鍋の前に残ったサムとの間が、みるみる開く。
その先の人混みに、灰色の外套の男がいた。人の流れに乗って、ゆっくり歩いている。子どもの進む道と、男の道が、斜めに交わる。
男の右肩が、ほんのわずかに落ちた。ぶつかる前に、肩を入れる構えだった。
――あぶねぇ!
子どもの体が、男の肩に弾かれて横へ泳いだ。メグ様が、それを抱きとめようと体をひねる。握った鉄串の先が、ひねった背中へまっすぐ向く。背中が、がら空きだった。
くそっ。遠い。直では間に合わない。
サムは左手の手甲を握りこんだ。コアから力を引きずり出す。
火は胸じゃなく、踵から点けろ。昔、そう教わった。踵で火を点けて、回路に回す。点けた火を、体の中を通る細い道に乗せて、一気に送り返す。第五等級のコアが、手甲の中で悲鳴を上げるように熱くなる。
眠った円盤まで、十二歩。人混みの向こう。ざわめき越しに遠くの誰かを呼ぶように、力を飛ばす。
がちんっ。
鈍く、硬い音がした。
メグ様の背中、双剣の鞘のすぐ下で、青白い光が一瞬だけ閃いた。瞬きひとつより短い。円盤は鉄串の先を正面から受け止め、ぴしりと音を立てて割れ、そのまま消えた。
弾かれた反動で、子どもの手から鉄串がすっぽ抜け、からん、と石畳に転がる。子どもは勢い余って尻もちをつき、しびれた両手をぱちぱちと握り直しながら、目を白黒させた。
サムの心臓が、うるさい。
「……っ、大丈夫!?」
メグ様が慌ててしゃがみこむ。子どもはきょとんとして、それから石畳に転がった鉄串を見て、顔をくしゃくしゃにした。鉄串の先が、くの字に曲がっていた。
「く、串、曲がっちゃったあ……っ。おやかたに、おこられる……」
「怪我は? 手、痛くない?」
子どもが、じんじんと赤くなった手のひらを見ながら首を振る。
メグ様は、ふと自分の背中に手をやった。制服は、どこも破れていない。それどころか、背中にも何も触れていない。
「……今の、誰?」
小さく落ちた声から、あらゆる温度が消えていた。
そのままメグ様の目が、サムの左手の手甲に落ちた。
サムの背筋を、冷たいものが撫でた。
表情が、なかった。笑ってもいない。訝ってもいない。さっきまで林檎売りの婆さんを笑わせ、荷運びに胸を張っていた娘の顔から、あらゆる色が抜け落ちていた。
青い目が、手甲から指へ、指から肩へ、肩から顔へと、静かに上ってくる。値踏みではない。一枚ずつ、剥がしにかかる目だ。戦場で、何度か見たことがある。斬り合いの最中、相手の次の一手を読みにかかる剣士の目だった。
目が、合った。
サムは努めて平静を装い、柔らかな表情を作って目を合わせた。
隠して守るという手は、早めに捨てたほうがよさそうだ。
メグ様が、瞬きをひとつした。それだけで、顔に色が戻った。にこり、と笑って、帳面の隅に何か書きつける。
メグ様は、ぱっと向き直ると、泣いている子どもの頬を両手でむにっと挟んだ。
「よし! 串のことは、お姉さんが一緒に謝りに行ってあげる! あなたのせいじゃないもの。それより怪我がなくて本当によかった。ほら、もう泣き止めたね。えらい! 焼き栗、半分こしよっか!」
子どもが、しゃくり上げながら、こくりと頷いた。
焼き栗屋の親父は、曲がった串を受け取って苦笑いし、「なに、叩けば直る」と、メグ様の差し出した小銭を押し返した。通りのあちこちで、見ている目があった。籠の向こうのモリー。腕を組んだ門の角の荷運びたち。鍋の向こうで、マーサ婆さんが、黙って小さく頷いた。
「……いいお嬢じゃねぇか」
門の角で、誰かがぼそりと言った。メグ様には、聞こえなかったらしい。子どもと手をつないで、焼き栗の袋を選んでいる。
サムは、人混みに目を戻した。
灰色の外套は、急ぎもせず、人の流れから遅れもせず、東区の東の端へ抜けていくところだった。押したあとで、一度も振り返らない。転んだ子どもを見ようともしない。事故を起こした人間の歩き方では、なかった。
門の角の手前で、黒いワンピースの裾が、男の後ろへすっと流れていった。ネルが追っている。あいつの足なら、まず見失わない。
サムは半歩、立ち位置をずらした。通りの東の端と、メグ様の背中が、一度に目に入る位置だ。それから、焼き栗屋の前のメグ様の横に並んだ。
「メグ様。肩に、灰が」
「えっ、本当ですか? ありがとうございます!」
肩を払う指先で、新しい円盤を一枚、背中に置き直す。手甲の中で、無地のコアが、まだ熱を持っていた。
「……事故、ねえ」
「主任、何か言いました?」
「いえ。栗が焦げていないかと」
「主任! 次はあっちの、赤いお鍋のもつ煮です! おばさまたちが歌ってます!」
子どもの手を引いたまま、メグ様がもう通りの真ん中へ駆け出していた。
「メグ様、走らないでください。それと、もつ煮は相当辛いですよ」
「辛いの、大好きです!」
サムは深くため息をつき、塩樽の乗った足を引きずってみせながら、金色のお団子を追いかけた。
歩きながら、左手を一度握って、開いた。手甲の熱は、まだ引いていない。
十二歩。人混み越し。ぎりぎりだった。もし、届かなかったら。鉄串の先が、あの細い背中に――。考えかけて、やめた。心臓が、まだうるさい。
背中に何があるのか知っていれば、あの子も動き方を変えられるだろう。しかしそれは、俺が守ることを宣言することでもある。守るということは、深くかかわるということだ。もし守れなかったら? 死んでいった戦友たちの笑顔が目に浮かんだ。俺は、卑怯者だな。自分の自信の無さを、お嬢様のプライドのせいにしているのか。
お嬢様と会ってから、少し昔を思い出しすぎている。若さにあてられたか。ああ、そうだな、畜生。多少、裏はありそうだが、確かにこの子は前を向いていて、眩しいよ。もっと、嫌な感じの子が来てくれれば、割り切れたのにな。
ネルにはドロシーの「目」がついているはずだ。
今夜は、荒事になるだろう。もちろん、役所の仕事の範疇ではない。




