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第8軍団後記(10年後)  作者: 青山


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第四話 メグ・ホッパーとインターンの開始


 私には、人に言えない秘密がいくつかある。


 困ったときにだけ届く、差出人の書いていない手紙が、ひとつめだ。


 誰からなのかは、分からない。


 ふたつめは、寝台の下の木箱。


 中身は本だ。表紙だけは地味な革装に掛け替えてある、非常に大人向けの恋愛小説が三十二冊。『伯爵の白い手袋』『港町の夜は長すぎる』『禁じられた温室』。予科の帰りに新市街の古本屋の奥の棚から、一冊ずつ、店主と目を合わせずに買い集めた。


 お父様は知らない。知ったら、たぶん泣く。私は恥ずかしすぎて、顔を合わせることができなくなるだろう。


 そして、みっつめ。


 人の笑顔の裏を、読んでしまうこと。最初は、身を守るためだった。気づいたら、やめられなくなっていた。


 お父様が笑っても、読んでしまう。鏡の中の自分ですら、疑うときがある。


 いつから、私はこうなったんだろう。


 ◇


 物心ついたころから、私の周りには、いつも二種類の目があった。


 正面から向けられる、愛想のいい目。それから、背中を過ぎたあとで向けられる、もうひとつの目だ。


 情報庁長官テッド・ホッパーの一人娘。母親の欄は空白。父がそれを隠さなかったから、首都の名家で知らない者はいないだろう。


 不思議なことに、大人たちは、それを気にしなかった。父の友人たちは、幼い私を膝に乗せて菓子をくれたし、「戦場じゃあ、誰の子かなんて誰も聞かなかったよ」と笑い飛ばした。


 気にするのは、私と同じ年頃の子たちだった。


 面と向かって「私生児」と口にする子は、一人もいなかった。


 皆、丁寧だった。「ホッパー嬢」と呼び、膝を折る。ただ、その礼が、ほかの家の令嬢に向けるものより、浅い。笑みが、一拍だけ早く引っこむ。私が通り過ぎると、背中のほうで、くすくすと小さな笑い声が起こる。振り向くと、誰も笑っていない。


 軽蔑されてるんだって、すぐに分かった。分からないほうが、どうかしてる。


 それでも、笑うことはやめなかった。やめる理由がなかった。


 笑って、前を向いて、人の倍やる。そうすれば、結果はちゃんとついてきた。陰で誰かが口を動かしているあいだに、自分は一歩先へ進んでいる。首席も、実技も、そうやって取った。明るくしていて損をしたことは、一度もない。


 ただ、友達と呼べる子を、数えてみたことがある。ゼロだった。数えなきゃよかった。


 ◇


 オムラスは、傭兵の国だ。


 名家の娘の進む道は、昔から二つある。


 一つは、社交の道。女学校で礼儀と音楽を修め、夜会と茶会で人の縁を編み、家と家とを結ぶ。もう一つは、武の道。最高学府の予科で剣や砲を修め、軍団や省庁の現場に立つ。戦場で名を上げた者たちが国を動かしてきたこの国では、どちらの令嬢も等しく重んじられる。


 父は、私を社交の道に進ませるつもりだった。


「剣なんてとんでもない! 危ないよ、危ないじゃないか」


 いつもの甲高い声で、そう言った。


 十二の冬、私は父の古い友人が開いた新年の夜会で、社交の場に初めて出た。


 そして、初めて、丁寧さの奥にあるものに気づいた。


 同じ年頃の令嬢が、完璧な笑顔で「まあ、ホッパー嬢。ようこそ」と言った。そしてくるりと隣の子に向き直り、顔を寄せて、ささやいた。

 

「……お母様は、どなたなのかしらね」

 

 それだけのことだった。それだけのことで、帰りの馬車の中、ずっと窓の外を見ていた。


 たぶん、あの晩からだ。人の笑顔の裏を、読むようになったのは。


 それから一年、私は社交の道を歩いた。


 茶会、音楽会、夜会。どこへ行っても、同じ年頃の子たちの丁寧な「ホッパー嬢」と、ほかの令嬢より少しだけ浅い礼が待っていた。笑顔は、一度も崩さなかった。帰れば、父に「楽しかったです!」と言った。


 けれど、屋敷に帰るたびに、胸の奥に灰が一枚ずつ積もっていくようだった。鏡の前で笑う練習をする時間が、少しずつ長くなった。


 十三の秋。


 朝、目を覚ますと、机の上に封筒が一通置かれていた。


 宛名も、差出人の名前もない。安い白い封蝋に、印章も押されていない。中には便箋が一枚きりで、子どもが書いたみたいな、ひどい字が一行だけあった。大きさも傾きも、一文字ずつばらばらだった。


『武の才あり』


 それだけだった。


 私は便箋を握りしめたまま、しばらく動けなかった。


 お父様、分かってたんだ。夜会から帰るたびに「楽しかった」と笑う私が、ちっとも楽しくなかったこと。


 だから、私のほうから言った。その晩の夕食の席で、フォークを置いて。


「お父様。私、武の道に進みたいです」


 父は、甲高い声で何か言いかけて、やめた。一拍だけ、目を閉じた。


「……そうか」


 一回しか、言わなかった。


 父は席を立って書斎へ行き、細長い木箱を抱えて戻ってきた。


 蓋を開けると、濃紺の革の鞘に収まった、二振りの剣が並んでいた。大人の剣より、ほんの少しだけ短い。柄は、十三の娘の手にちょうど収まる細さだった。


「……いつから、これを」


「僕から渡すつもりはなかったけどね」


 父は、いつもの調子でそう言って笑った。けれど、その笑い方が、ほんの少しだけ、いつもと違う気がした。


 次の春、私は女学校をやめて、最高学府の予科に転校した。


 武の道は、社交の道より、ちょっとだけましだった。


 陰口は、転校先までついてきた。途中から入ってきた、長官の娘で、母親の欄が空白。噂の種には困らない。


 首席を取れば「長官のお嬢様ですもの」。上級生を三人抜けば「相手が遠慮したのよ」。言うのは、たいてい、夜会で見覚えのある顔ぶれだった。同じ学年の、名家の子たち。


 でも、抜かれた当の上級生は、痺れた手首をさすりながら「遠慮なんかするか」と吐き捨ててくれた。教官は何も言わずに、次の稽古の相手を一段上げた。


 あの日は、帰りの馬車で、ちょっとだけ泣いた。うれしくて。


 剣は、いい。


 打ち合っているあいだは、相手の笑顔の裏なんて読まなくていい。読まなくても、全部、剣先に出てくるから。


 人の嘘を読むのと、相手の次の一手を読むのは、たぶん、同じだ。


 私が強くなれたのは、そのせいかもしれない。


 代わりに増えたのは、同じ年頃の殿方からのお誘いだ。会えば皆、私の顔の少し後ろ、お父様の看板を見ていた。同い年の子の「すてきですね」は、どうしても、裏から先に読んでしまう。


 本当に私を見てくれる人なんて、たぶん、いないんだと思う。

 

 ……別にいいけどね! 小説みたいに、いつか私にも、理想の王子様が迎えに来てくれるもの。


 手紙は、それからも、困ったときや迷ったときにだけ届いた。


 言うとおりにすると、たいてい、うまくいった。たいてい、というのは、一度だけ従わなかったことがあるからだ。その話は、しない。思い出すと、今でもお腹のあたりが冷たくなる。


 字は、相変わらずひどかった。お父様の字は、教本みたいにきれいなのに。


 でも、私が困っているときを、こんなにぴったり知っている人は、お父様しかいない。


 ふふん。分かっちゃった。


 照れ屋のお父様が、正体を隠すために、わざと下手に書いているのだ。あのきれいな字をここまで崩すなんて、きっと夜中の書斎で、こっそり何枚も練習したに違いない。想像したら、ちょっと笑ってしまった。


 だったら、気づかないふりをしてあげるのが、娘の優しさというものだ。


 友達はいない。陰口や政治はついてくる。


 でも、剣がある。お父様がいる。困ったときには、手紙が来る。


 うん、大丈夫。これだけあれば、私はやっていける!


 鏡の前で、にっこり笑ってみる。


 今日の笑顔は、たぶん五割くらい本物だ。


 ◇


 去年の秋に届いた手紙は、一行だけだった。


『旧市街を歩け』


 護衛をまくのは、拍子抜けするほど簡単だった。裏口の鍵のありかなんて、八つのときから知っている。お父様の部下たちは、長官の娘がそこから抜け出すなんて、夢にも思っていなかったらしい。


 あの人たちが私を守るのは、私のためじゃない。手柄のためだ。それくらい、顔を見れば分かる。


 だったら、少しくらい困ればいい。


 ざまあみろだ。


 裏の路地を曲がったところで、こらえきれずに、ひとりで小さく跳ねた。


 初めて一人で歩いた旧市街は、うるさくて、寒かった。誰も、私をろくに相手にしなかった。上等な靴を一目見れば、それで話は終わり。

 

 でも、背中のほうでくすくす笑う人は、一人もいなかった。


 相手にされないのは同じだけど、胸がすうっとした。


 それから何度か、こっそり通った。もちろん、誰にもバレていない。


 あの街には、絶対に何かある。手紙が言うんだから、間違いない。


 だから、インターンの行き先を聞かれたとき、迷わず答えた。


「首都治安維持省の、現場を希望します」


 面接官の顔が、三秒くらい固まった。長官の娘なら、軍務省でお茶でも飲んでいればいいのに。顔にそう書いてあった。にっこり笑って、もう一度言ってあげた。


「現場を、希望します」


 ――やってやった。


 廊下に二列に並んだ、黒い戦闘服の霊災対策課。ちゃんと礼を尽くして迎えてもらえたのは、正直ちょっと嬉しかった。


 けれど、並んだ顔を見れば、さっきまで何を囁いていたかは、聞かなくても分かる。


 はいはい。「長官のお嬢様のお遊び」、ですよね。知ってます。

 

 笑顔で、一人ずつ目を合わせてあげた。前列の右から三番目、顔が赤い人。さっきまで不満げだったよね。その隣、目が合う直前に、隣の人の袖を引いた人。後ろの列の背の高い人は、最後まで私の顔じゃなくて、胸の徽章を見ていた。

 

 はい、全員覚えました。


 にっこり笑って、深く頭を下げる。頭を上げる一瞬で、名札をもう一度確かめる。


 二か月後には、その顔で拍手させてみせますから。

 

 部長室では、少しだけ、手順が狂った。


 チューリング部長が、ふっと笑ったのだ。


 ――ずるい。それは、ずるい!


 『禁じられた温室』の第三章、冷たい伯爵様が初めて微笑む、あの挿絵そのままだった。額縁から抜け出してきたのかと思った。心臓が、ぴょんと一回跳ねた。


 言っておくけど、あれは観賞だ。恋じゃない。絵を見てどきっとするのと同じ!


 それに、もうひとつ、どきっとしたことがある。


 部長の「ホッパー嬢」からは、何も出てこなかった。


 丁寧で、きっちりしていて、ちょっと堅苦しい。でも、その奥に、軽蔑がない。


 ……へえ。こういう人も、いるんだ。


 その伯爵様――じゃなくて部長が告げた配属先は、旧市街生活安全課だった。


 てっきり霊災対策課だと思っていたのに、旧市街!


 手紙が「歩け」と言った、あの街だ。


 顔が勝手ににやけそうになるのを、私は全力の笑顔でごまかした。


 ◇


 引っかかりは、部長室の中で、もう始まっていた。


 サミュエル・カルマン主任。くたびれた灰色の外套に、四十がらみの顔。外套の下からのぞく濃紺の制服は、色が褪せて、私のと同じものとは思えない。第一印象は、正直に言うと「疲れたおじさん」。


 でも、よく見ると、背がものすごく高い。扉の枠に頭がつきそうなくらい。肩も胸も厚くて、立っているだけで壁みたいだ。髪は、くすんだ灰色。

 

 寝ぐせを直して、背筋を伸ばして、外套を新しくして、あと、その「面倒くさい」って顔をやめたら……。


 ……あれ。この人、若いころは、けっこう格好良かったんじゃない?


 いろいろと、惜しいわね。

 

 そのくせ、座ろうともしない。扉の脇に立ったまま、部長がふっと笑ったあの瞬間も、目だけが、窓と扉のあいだを静かに行き来していた。


 ……え、あの笑顔、見てなかったの? もったいない。


 階段を降りるときも、主任は私の半歩前を歩いた。曲がり角の手前で、いつも一拍だけ歩みを緩める。肩のあたりに、ほんのわずかな張りがある。弓の弦を、緩めきらずにおくみたいに。


 あれ? と思った。


 この感じ、どこかで見たことがある。どこだっけ。喉まで出かかっているのに、出てこない。むずむずする。


 思い出したのは、元倉庫の部屋の扉を開けたときだ。


 窓際で、おじいちゃんの課長が椅子にもたれて眠っていた。部屋の隅には、布をかけた、異様に長い筒。その横の椅子に、主任が、どさりと座った。


 ――うわ。なに、これ。


 二人がそろった途端、部屋の空気が、がらりと変わった。


 五つか六つのころだ。誰かの腕に抱かれて、丘の上から、煙の上がる野原を見下ろしていた。焦げた石の匂いがした。周りに立つ大人たちは、誰も喋らず、誰も前を見ていなかった。皆、少しだけ首を傾けて、耳を澄ますように、周りの気配を聞いていた。

 

 誰も泣いてはいなかった。けれど、皆、何かをなくしたばかりの顔をしていた。


 抱いていた人の顔は、覚えていない。その背中に、剣が二本あったことだけを覚えている。


 お父様に聞いても、笑って「夢だよ」と言うだけだった。


 確かに、あのころ、子どもは決して戦場に近づけなかったそうだ。でも、私は信じていない。あれは、誰かが私を戦場に連れて行ったのだと今でも思っている。何のために?


 その夢の丘の空気が、この狭い部屋に、そっくりそのままあった。


 眠っている老人と、くたびれた主任。どちらも、何も喋らない。けれど二人とも、前ではなく、この部屋の周りじゅうを聞いている。そして、ずっと、何かをなくしたような顔をしている。


 予科の教官や霊災対策課の人たちの戦いの匂いは、武功を語る、前を向いた匂いだ。お父様の客間に来る昔の軍団の人たちも、ときどきこんな顔をするけれど、杯を一つ空ければ、ちゃんと戻ってくる。


 この二人は、戻れてないみたい。絶対に元軍団員だわ。


 それに、主任の目。長官の娘も、私生児も、恐らく私自身への興味も。何ひとつ映っていない。

 

 そんな目で見られたのは、生まれて初めてだった。だから、ホッパー嬢はやめてもらった。


 嬉しかった。……けど、ちょっとだけ怖かった。何も映っていない目は、裏から読みようがない。

 

 手紙が歩けと言った街の、出世の道から外れた課に、戦争の匂いを消せない二人。


 お父様、もしかして、この人たちに会わせたかったの? ……何故?


 カマをかけたつもりで、第何軍団の出身かと聞いてみた。お父様と同じ第七軍団かもしれないと思ったから。にっこり、なんでもない顔で。


 部屋の空気が、ほんの一拍止まった。


 ……あ。やばい。もしかして、これ、この人たちには禁句だった?


 課長が「第三じゃよ」と答え、主任は「後方支援の端くれですよ。華々しい武勲などありません」と、自分の戦歴を一言で畳んだ。


 ……まあ、そうだよね。武功のある人が、こんな窓際の課にいるはずないもの。


 怒ってないみたいで、よかった。セーフ。


 ただ、それはそれとして、帳面は出す。隅に、書き足しておいた。


――課員、二人。少なすぎ。

――課長:ずっと寝てる。変。

――主任:疲れたおじさん。変。

――化石みたい。でも、見下されてない。


 最後の一行に、線を二本、ぐいっと引いた。


 この課、絶対に何かある。


 舌はまだ、さっきのお茶でひりひりしていたけれど、胸のほうは、それ以上にどきどきしていた。


 ――ここ、面白いかも。


 ◇


 庁舎の裏の通用口を開けると、冬の風が吹きこんできた。


「さむっ!」


 声を上げながら、メグ様はもう外へ飛び出している。サムが扉を押さえる暇もなかった。


 お嬢様というのは、扉を開けてもらうのを待つ生き物ではなかったのか。


 治安維持省の裏手から東区までは、歩いて百歩もない。石造りの庁舎の陰を抜けたとたん、焼き栗と、煮込みの湯気と、井戸の水の匂いが鼻に届く。


 その通用口の脇に、ネルが立っていた。


 黒い長袖のワンピースに、白いエプロン。胸元に刺繍された小さなエイブ商会の印は、その大きさで歪んで見える。袖は肘までまくって、足元は履き古した編み上げ靴。片腕に、蓋つきの大きな籠を提げている。


 青い髪は短く切られ、切れ長の瞳には隙が見えない。見えない者にはその美貌と胸元に目が行き、見える者には何らかの訓練を受けた者と映るだろう。


 エイブ商会の職員は、ドロシーが拾って、兵としての訓練を受けさせている。ほとんどが、伝令や斥候、基本的な体術を学んだ者達だ。なぜか美しい女性が多いのは、その方が商売の受けがよいからか。


 商会の女性職員たちは、そろってこの格好をしている。こちらは間違いなくドロシーの趣味だな。そして、何故か俺には全員が冷たい。


 ネルは壁にもたれたまま、まつげをほんのわずかに伏せた。配置についた、の合図だ。


 サムは、まぶたを小さく一度だけ動かして返した。


 ネルはそれきりサムには目もくれず、籠を提げ直して、人混みのほうへ離れていった。

 

 ふと気配を感じて横を見ると、メグ様が、サムとネルの顔を、交互に、穴が開くほど見つめていた。


 青い目が、きらきらと輝いている。何か、ものすごく良くないものを見つけた顔だった。


「えー、メグ様、今の者はエイ……」


「全て承知しています! えへへへ」


 メグ様は懐から帳面を取り出すと、猛然と何かを書きつけ、それから線を、一本、二本、三本と引いた。


 ……何を書いた。


 聞くのが怖かったので、サムは聞かなかった。


 ◇


 通用口の先は、三段だけの石段になっている。


「メグ様。足元、段差になっています」


 帳面に夢中のメグ様の背に、サムは左の掌を軽く添えた。


「は、はいっ!」


 メグ様が段を降りる。その一歩のあいだに、盾を仕掛けた。


 左手の手甲にはめた、第五等級のコア。型紋も刻まれていない、素紋だけの無地だ。そこから、薄い円盤を一枚、形にして背を守らせる。


 光らせない。コアからの力を、ほとんどゼロまで絞る。燃えさしの炭を灰に埋めるように、円盤を眠らせる。


 眠らせた円盤を、掌から離して、メグ様の背中に置いた。双剣の鞘の下、腰のすぐ上。外套の布地の上に、霜が一枚降りたくらいのものだ。メグ様は何も気づかない。気づかれても構わないが、お嬢様のプライドを無駄に刺激したくない。


 眠った円盤は、何も防がない。


 だが、サムが回路を回して起こしてやれば、話は別だ。円盤は、背中に飛んでくるものを、勝手に受け止める。不意打ちだろうが、死角だろうが、関係ない。


 もっとも円盤の耐久力を超えれば、割れてなくなる。サムは、戦後の鍛錬で、一枚の円盤の密度を自在に調整できるまでに回路を鍛え上げてきた。何のためかもわからないまま。


 サムは手甲の具合を確かめるように、指を一度握って、開いた。


 眠らせていても、円盤はわずかに力を食う。インターンは二か月。今年のコアは、春までもたないだろう。


 ◇


「わあっ、ここが東区なんですね! 私、旧市街に来るの、初めてです!」


 メグ様が、両手を胸の前で合わせて、目をきらきらさせた。


 初めて、ね。


 ドロシーの話では、去年の秋から何度か来ているはずだが。


 王の道の東の端、旧王宮の門の前。崩れかけた外壁には、鍵のかかる木の屋台がびっしりとへばりついている。煤けた看板の上に、さらに継ぎ足しの屋根。壁と屋台の裏の細い路地からは、「刃物研ぐよお」「手紙書くよお」と、のんびりした声が漏れてくる。


 通りの真ん中では、押し車の屋台が、朝の場所取りの名残でてんでばらばらの向きに並んでいた。赤い唐辛子の湯気を立てる大鍋の前で、浅黒い肌の女たちが、歌うような売り声を張り上げている。胡麻をまぶした輪のパンを籠に積んだ女が、その間を縫っていく。


 広場の真ん中には、共同井戸。縁石には、番号札を首から下げた走り使いの子どもたちが、雀みたいに並んでいる。門の角では、腕の太い荷運びたちが、通りを行く人間にいちいち何か言っている。


 焼き栗屋の炭が、ぱちんと爆ぜた。


 そして、通りの空気が、すっと冷えた。


 皆が見ているのは、メグ様だった。仕立てのいい濃紺の、治安維持省の制服。支給の既製品ではなく、屋敷の仕立て屋が誂えた一着だ。同じ色でも、生地の張りが違う。金色のお団子。それから、背中の双剣の柄で青白く光る、特二等級のコアが二基。


 あの金色のお団子を、この通りで覚えていない者はいない。去年の秋から、地味な外套でふらふら歩いていた迷子のお嬢さんだ。それが今日は、役所の制服を着ている。庁舎で朝に出た話は、昼前には井戸端に届く。この街は、そういう街だ。


 旧市街で、高い等級のコアをぶら下げて歩く人間は、まずいない。持っていないからだ。


 東区の共同井戸には、五回続けて第五等級の安物しか回ってこなかった。そのあいだに新市街の屋敷では、湯沸かしにまで第三等級が使われている。新市街の役人は、この屋台街を「取り壊すべき混雑」と呼ぶ。


 だから、この街の人間は、金持ちが嫌いだ。とりわけ、新市街の役所の制服を着た金持ちが。


 焼き麦の桶を提げた女が、子どもの肩を黙って引き寄せた。門の角の荷運びたちが、ぴたりと口をつぐんだ。輪のパンを籠に積んだ女が、籠を抱え直して、メグ様の前を大回りによけていく。


「……新市街のお嬢様が、今度は制服でお出ましかね」


 どこかで、聞こえるように誰かが呟いた。


 メグ様の笑顔が、ほんの一瞬、固まった。


 さっきの「初めてです」は、通りじゅうに聞こえていた。


 迷子の小娘への邪険さなら、そのうち笑い話になる。だが、役所の人間が素性を隠して歩き回っていた、となれば話は別だ。新市街の役所は、この屋台街を取り壊したがっている。去年の秋の散歩は、この街の目には、取り壊しの下見に映る。


 今日の俺の仕事は、見回りではない。


 この街に、お嬢様が敵ではないと分からせることだ。


 二か月、毎日ここを歩くのだ。初日にしくじれば、その二か月が丸ごと針の筵になる。そして針の筵に座らされるのは、たぶん俺のほうだ。


 サムは、通りの顔ぶれをひと撫でした。


 知った顔だ。新市街から安い飯を食いに来た木っ端役人。荷を待つ船頭。押し車の列の端に、新顔が二人。先週の船で来た兄弟で、もう河岸の荷役の組に入っていると聞いている。


 灰色の外套の男が一人、蒸し饅頭屋の前で、湯気越しにこちらを見ていた。

 

 見ない顔だった。どの船で来たのか、どこで寝ているのか。


 東区の者ではないな。西区の口入れ屋が回した流れ者にしては、目が落ち着きすぎている。


 男は、サムと目が合う前に、饅頭の包みを受け取って人混みに消えた。


 蒸し饅頭屋は東区の東の端、境界のすぐ手前にある。東区の目は、あの先には届かない。


 視線を戻すと、メグ様は、すぐそばの林檎売りの籠の前にしゃがみこんでいた。


 意外に動きが速い。


「わあ、真っ赤な林檎! これ、どちらの林檎ですか?」


 林檎売りのモリーは、籠に手を置いたまま、にこりともしなかった。


「……お屋敷のお嬢様のお口に合うような林檎じゃ、ございませんよ」


 丁寧な言葉だった。丁寧で、冷たかった。


 メグ様の肩が、ほんのわずかに強張ったのが、後ろからでも分かった。


 それでもメグ様は、笑顔のまま財布を出した。


「四ついただけますか? お代は、これで」


 白い指先に挟まれていたのは、大きな硬貨だった。新市街の店なら、何の不思議もない。


 モリーの目が、すっと細くなった。


「……釣りなんか、出せやしませんよ。こんな婆さんの籠じゃあね」


「え……あ、あの……」


 メグ様が、硬貨を持ったまま固まった。


 サムは、メグ様の横にしゃがんだ。


「モリー。こいつは、釣りの要らない金の使い方しか教わってこなかっただけだ。悪気はない」


 それから、メグ様に向き直る。


「メグ様。ここでその大きいのを出すのは、籠ごと全部よこせと言うのと同じです。小銭で、四つ分を」


「あっ……ご、ごめんなさい!」


 メグ様が、慌てて財布の底をかき回しはじめた。


 サムは、モリーのほうへ顔を戻した。少しだけ、声を大きくする。門の角まで届くくらいに。


「それと、こいつは今日から二か月、うちの課の部下だ。俺の下で、この通りを毎日歩く。何かやらかしたら、俺に言ってくれ」


 部下、と言ったところで、隣のメグ様の目が、一瞬まん丸になった。


 モリーは、サムを見た。それからメグ様を見て、背中の双剣のコアを見て、もう一度サムを見た。


「……サムの部下かい」


「ああ」


「そういうことなら、まあ」


 モリーは鼻を鳴らして、籠の林檎を四つ、メグ様の腕に押しつけた。


「ほら、お嬢ちゃん。小銭ってのは、こうやって数えて出すんだよ。……なんだい、ちゃんと持ってるじゃないか」


「は、はいっ! ……あの、これ、北の船で来た林檎ですか? 川の上流の果樹園から?」


「おや、よく知ってるね。上流のさらに上、霜の降りる谷の林檎さ。寒いほど甘くなるんだよ」


「霜で甘くなるんですか! じゃあ今年は当たり年ですね、ずっと寒かったですもの! あの、もうひとつください! 主任の分と、課長の分と、私の分と、あとおばさまの分!」


「あたしに?」


「売るばっかりで、食べてないでしょう? 寒いほど甘いなら、一番寒いところに立ってるおばさまが、一番おいしく食べられるはずです!」


 モリーが目を丸くして、それから大口を開けて笑った。


 十年この通りで林檎を売っている婆さんを、さっきまで「お屋敷のお嬢様」と呼ばれていた娘が笑わせた。少なくとも俺に出来る芸当じゃない。狙ってやっているとしたら、相当の切れ者ということになる。


「メグ様、見回りが――」


「主任、林檎どうぞ!」


 口に、林檎が押しこまれた。サムは林檎をくわえたまま、通りの東を見た。


 俺の目では限界がある。後は、ネルに任せよう。


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