第三話 メグ・ホッパーと旧市街生活安全課
「……という形で、まずは一か月間の日程を組ませていただきました」
三階の角部屋――日当たりのいい部長室で、サムは机の上に書類の束を置いた。ドロシーの案をもとに、細かい工程表を作成し、スコットに見てもらってから、今トルーマンにプレゼンしているという訳だ。
市民生活部長のトルーマン・チューリングは、眉間を指先で押さえながら、手元の紙面に目を通している。
「ふむ。あなた方にしては、悪くない出来ですね。残るもう一か月はどうするおつもりですか?」
「はっ。最初の月で、旧市街生活安全課の主な巡回や基礎的な雑務はおおむね体験していただけます。後半の一か月につきましては、ホッパー嬢ご本人の希望を伺い、興味のある現場を重点的に組み込む予定です。ご自身の意見が通れば、現場への満足度も上がるものと考えます」
「よろしい。許可しましょう」
トルーマンは満足げに小さく頷いた。目の下の隈は相変わらず濃いが、長官令嬢を受け入れるめどが立ち、どこか安堵の色が混じっている。
「旧市街課からの提案など初めて受けましたが……悪くない。雑用しか能がないと思い込んでおりました」
頭の中でドロシーを拝んだ。
「恐縮です。……ところで部長、その件に関連しまして、一つだけ事前にご相談が」
「何です?」
「二週目に予定しておりますエイブ商会から、インターン受け入れに関わる諸経費の請求書が届いておりまして」
サムは懐から、もう一枚の薄い伝票をそっと取り出した。
「ああ、受け入れの謝礼と、現場での手当ですね。良いでしょう、私の裁量で決裁を通しておきます。貸しなさい。……なるほど、六日間の受け入れで、九――」
トルーマンの声が、そこで途切れた。
日頃は細められた目が、限界まで見開かれる。
「……なっ、きゅう、九百……っ!? 九百ビトですと!?」
「何分、情報庁長官の令嬢をお預かりする現場ということで、問屋の側でも屈強な護衛の増員や、万が一の損害に対する保証など、特別な受け入れ態勢を整える必要がありまして……」
「認めません!!」
トルーマンは悲鳴に近い叫び声を上げ、伝票を机に叩きつけた。あまりの勢いに、高級なインク壺がことりと揺れる。
「……はっ、しかし、……」
「絶対に認められません! 法外にもほどがある! サミュエル主任、あなたという人間は、役所と民間との交渉というものを知らないのですか!?」
「いえ、しかし先方にもご事情が……」
「即刻お断りしなさい! あなたねえ、六日間の職場体験に、あなたの安月給の二か月分を軽く超える額を支払う役所が世界のどこにありますかっ! 少しは頭を働かせなさい、常識で!!」
怒声が、密閉された部長室の壁にびりびりと反響した。
トルーマンが、ここまで取り乱すのは珍しい。感情というものがあったのか、とサムは内心で感心しつつ、しかし絶対に引くわけにはいかなかった。自腹を切る羽目になれば、俺の命に関わるんだ。そうだ、これは戦だ。
「部長、どうかお聞きください。……お耳に入れておきたい情報が」
「下らぬ話であれば、減給です」
トルーマンはこめかみを指で強く揉みながら、忌々しそうにサムを睨みつけた。
サムは声を潜め、わずかに身を乗り出した。
「かのホッパー嬢ですが、実はかなりの『跳ね返り』という情報を手に入れまして」
「私は式典などで何度かお見かけしました。実に明るく快活で、礼儀正しいお嬢さんという印象でしたが」
「ええ。ですがあれは、完璧に作られた表向きの顔だそうです。裏では非常に我が儘で、他人の能力や立ち居振る舞いを極めてシビアに値踏みされるとか」
「……信頼の置ける筋からの情報なのですか?」
「はっ。第三軍団に、いまだに親交のある旧知がおりまして。ほぼ間違いないかと」
「意外ですが、あり得ない話ではない」
「ええ。表向きはどんな対応をされても笑顔で受け流すそうですが、裏に回ればお父君たる情報庁長官に逐一告げ口が入り、影で閑職へ飛ばされた役人が何人もいると」
トルーマンの顔色が、さっと青ざめた。
「よくないですね。ヴァーレの対応だけで手一杯のこの時期に、娘一人のためにつまらぬ政争など無駄です」
「お察しいたします。もしホッパー嬢がこの二か月のインターンでご機嫌を損ねられようものなら、我が市民生活部にどのような火の粉が降りかかるか。相手はあの長官です。何かあれば、部長の輝かしいご経歴にも傷がつきかねないかと」
「……続けなさい」
「はっ。エイブ商会の女主人であるドロシーは、旧市街の隅々にまで顔が利く女将です。あらかじめ話をつけさせておけば、受け入れ先の各所へ事前に根回しが行き届き、粗相のないよう万全の警備と接待態勢を敷くことができます。また、最近は新市街の上流階級とも取引をしておりますので、名家のご令嬢への接遇も申し分ありません」
サムはそこで言葉を切り、トルーマンの目の前に落ちている伝票をそっと指差した。
「……長官の不興を買うリスクを未然に防ぐ『保険料』と考えれば、九百ビトなど、むしろ安いものでは?」
トルーマンは机の上の伝票を見据えた。
先ほどまでの激情は引き、冷徹な計算を刻むようにその目がすっと細まる。
九百ビトの公金支出は確かに痛い。だが、ここで出し渋って万が一にも長官令嬢の機嫌を損ね、情報庁の目が市民生活部に向く事態になれば、失うものは予算どころの話ではない。己の出世の道も、築いてきた地位も灰燼に帰す。
秤にかけるまでもない。リスクヘッジのための経費としては、十分に呑める数字だ。
「……今回に限り、認めます」
トルーマンは重いため息とともに、胸ポケットから万年筆を抜き、伝票の端に素早く承認印代わりのサインを走らせた。
「ただし、万が一にも何か問題が起きた場合、あなた方の来年度の活動予算はその分削ります。よろしいですね」
「はっ。寛大なるご決断に感謝いたします。最善を尽くします」
「……となると、初日の出迎えは部署を挙げて盛大にやったほうが良いですね。すぐに全館に触れを出します。サミュエル主任、もう下がってよろしい」
「はっ。失礼いたします!」
サムは深々と頭を下げ、サインの入った九百ビトの伝票を恭しく懐にしまった。
かなりの嘘を積み重ねたが、俺の命は繋がった。後のことなど知るものか。どのみち、ご機嫌取りには変わりない。せいぜい、おだてて帰ってもらうさ。
サムは廊下に出ると、誰にも見えない角度で口元をわずかに緩め、足取りも軽く会計課に向けて階段を降りていった。
◇
金曜の朝八時。市民生活部の三階フロアには、三十人近い職員が整列した。
大半は、黒い戦闘服を着た霊災対策課の連中だ。本来なら今ごろは外壁沿いの見回りに出ているか、夜勤明けで仮眠を取っている時間である。
「……おい、なんで外壁の交代を遅らせてまで並ばされるんだ」
「情報庁長官のお嬢様よ。今日から二か月、うちでインターンだとか」
「お遊びに付き合わされる身にもなれよ。まあ、おっさんのとこで良かったぜ」
「なんでも私生児らしいぜ。長官の威光がなきゃ、誰がわざわざ……」
「成金の坊ちゃん部長の点数稼ぎじゃない? インターンは軍務省が基本よ……」
前の方から、若い隊員たちのひそひそ声が流れてくる。おっさんで悪かったな。
サムは列の一番後ろ、廊下の柱の陰で、つま先を一度だけ床にトントンと当てた。靴の泥は、今朝のうちにブラシで落としてある。減点はされないはずだ。
ちなみに課長のスコットは、「お前が二人分立っておけ」と言って一階の部屋から出てこなかった。
列の先、中央にトルーマンが進み出た。普段は書類の山に埋もれている姿しか見ないが、大学時代はレイピアで鳴らしたと聞く。こうしてみると、確かに武を修めた者の立ち姿だ。筋骨隆々というわけではないが、足運びに無駄がない。手練れだな。あれだけ書類に囲まれていても、鍛錬は怠っていないらしい。
トルーマンが中央に立った瞬間、全ての職員が私語を止め、直立不動となった。いや、彼がそうさせた。
「――栄誉礼」
即座に、トルーマンを起点として職員たちが左右に割れ、いっせいに己の得物を胸の前に捧げた。剣、槍、短い砲身。廊下の奥まで、二列の切っ先と砲口が鈍く光る。これは、軍隊式の儀礼だ。武功を上げた者が叙勲されるとき、軍団員が隊長までの道を作り、敬意をもってその者に礼をする。今は廃れているはずだが、よく知っていたな。それにしても、インターン一人に栄誉礼とは、大きく出たものだ。名家の方は戦史を学ぶそうだから、これを知っていれば最上級の出迎えと喜ぶだろう。すぐに、廊下の奥からヒールの軽い音が、石の床を規則正しく叩いて近づいてきた。
人垣のあいだを、一人の少女が歩いてきた。
急がず、気負わず、まっすぐに。左右から三十の視線を浴びながら、歩幅が少しも乱れない。
窓から差しこむ冬の朝日が、人垣の切れ目ごとに彼女を照らしては、また影に戻す。そのたびに、頭の後ろで高くまとめたお団子の金髪が、きらりと光った。ほどけば背中の半ばまでありそうな量だ。
身長は百六十あるかないか。仕立てのいい濃紺の制服を、着られている様子もなく着こなしている。顔立ちにはまだどこか幼さが残っていて、十八歳というより十四、五に見えた。
ただ、幼いということと、整っているということは別の話だ。大きな青い目に、細く通った鼻筋。陶器のような白い頬が、冬の廊下の冷気で淡く色づいている。作り物めいた顔立ちなのに、表情がくるくると変わるせいで、人形には少しも見えなかった。
背中に負った二振りの双剣だけは、遊びの道具ではなかった。柄の根元に埋め込まれた二つの去勢コアが、澄んだ青白い光を宿している。特二等級、二基。職員達を威圧するには十分だろう。
双剣は相当に重く見えるが、剣の重さに体の軸が少しも引かれていない。結構鍛えている。そう考えるサムの前を通り過ぎたとき、ふわりと石鹸の匂いがした。
少女はトルーマンの前で足を止め、小さく会釈した。それから、くるりと職員たちに向き直る。
廊下が、しんと静まり返った。
少女――メグ・ホッパーは、ぱっと花が咲いたように笑った。
冬の廊下の温度が、ほんの少し上がった気がした。我ながら、柄にもない感想だ。
「おはようございます! 本日から二か月間、市民生活部でお世話になります、メグ・ホッパーです!」
よく通る、明るい声だった。
さっきまで陰口を叩いていた若い隊員たちが、その笑顔に息を呑む。
メグは列の端から端まで、一人ずつ目を合わせるように視線を巡らせた。
その目が、前列の若い隊員のところで止まった。さっき、外壁の交代がどうのと愚痴をこぼしていた男だ。いかにも面白くなさそうに口を曲げていた――はずが、今は口を半開きにして、彼女の顔に見入っている。
メグは、その男にだけ向けるように、にこりと小首を傾げた。
「お忙しい朝に、お時間をいただいてしまって。本当に、ありがとうございます」
男の耳が、みるみる赤くなった。周りの隊員たちから、小さな笑いが漏れる。
「実戦の経験も知識もまだまだ未熟ですが、現場で働く皆様の背中を見て、一つでも多くのことを学ばせていただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします!」
ぺこりと、深く頭が下がる。お団子からこぼれた後れ毛が一筋、白いうなじで揺れた。
どこから見ても、一点の曇りもない挨拶だった。気づけば、陰口を叩いていた連中まで、つられて頭を下げている。
だが、一番後ろに立っていたサムには、見えた気がした。頭を上げるほんの一瞬、彼女の青い目が、さっきの隊員たちの胸の名札と、その立ち姿を、値踏みするようにすっと撫でたのを。
あれ? 俺の嘘、当たってないか?
◇
「素晴らしいご挨拶でした。我が市民生活部としても、ホッパー嬢をお迎えできて光栄の極みです」
出迎えの式が終わり、三階の角部屋――日当たりのいい部長室に入ると、トルーマンは上機嫌で紅茶を勧めた。
メグはソファの真ん中に背筋を伸ばして座り、サムは扉の脇に立っている。
「お気遣いありがとうございます、チューリング部長。大学の先輩でもいらっしゃる部長の元で学べると聞いて、ずっと楽しみにしておりました!」
トルーマンが、ふっと微笑んだ。
眉間に皺を寄せて書類を睨む顔しか知らない者には、別人に見えただろう。切れ長の目元がやわらぎ、薄い唇の端がわずかに上がる。窓からの光が、隙なく撫でつけた髪の縁を淡く縁取った。美術館の肖像画が、気まぐれに笑いかけてきたような顔だった。
メグの頬に、さっと朱が差した。慌てたように、紅茶の杯へ視線を落とす。
へえ、とサムは思った。首席のお嬢様でも、こういう顔には弱いらしい。
しかし、あの部長が。普段は隈を作って書類と心中しかけている男が、ここぞという場面で、きっちりこの顔を出してくる。
「そう言っていただけると鼻が高いですね。本来であれば、私自身が直接ご指導申し上げたいところなのですが……」
トルーマンはそこで、いかにも残念そうに眉を寄せた。
笑ったと思えば、今度はこれだ。目の下の隈は先週よりさらに濃くなっているというのに、表情だけは自在に動く。家の力だけでのし上がった者ができることではない。サムの中で、若き部長の株が上がった。
「ご存じの通り、現在は外壁沿いのヴァーレの対処に霊災対策課の主力を割いておりまして、新市街の防衛だけでも手が回らない状況です。ホッパー嬢がご希望された『市井の現場を肌で知る』という目的、そして何より長官閣下からお預かりしたお身体の安全を考え、我が部で最も地域の事情に精通したベテランを指導役に充てました」
トルーマンが、手でサムの方を示した。そんな事は絶対に思ってないだろうに、上手な奴だ。
「旧市街生活安全課、サミュエル・カルマン主任です」
メグの笑顔が、ほんの一拍だけ、ぴしりと固まった。
旧市街生活安全課。治安維持省に少しでも関わりのある人間なら、そこがどういう部署かは知っている。霊災対策課のような華々しい討伐部隊ではなく、スラムの苦情処理がメインの、まあ、窓際だ。
メグの丸い目が、わずかに細まったが、それも一秒にも満たないうちにかき消えた。俺の目は誤魔化せんぞ。このお嬢様、ちょっと性格が悪いんじゃないか?
だが、次にメグがしたことは、サムの予想と違った。
ソファから立ち上がると、まずトルーマンの方へ向き直り、深々と頭を下げたのだ。
「旧市街の現場に出していただけるなんて、願ってもないことです。ありがとうございます、チューリング部長!」
顔を上げたメグの目は、さっき細まったのが嘘のように、きらきらと輝いていた。
トルーマンの眉が、かすかに動いた。厄介払いのつもりで回した先に、礼を言われるとは思っていなかったのだろう。
窓際に回されたことには不満がある。だが、旧市街そのものには行きたい。そういう事だろう。
メグは、今度は満面の笑みでサムに向き直った。
「サミュエル主任! 二か月間、どうぞよろしくお願いいたします!」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、ホッパー嬢」
「カルマン主任。それでは、ホッパー嬢を課へご案内して、業務の説明をお願いします。くれぐれも、粗相のないように」
「承知しました。ではホッパー嬢、こちらへ」
◇
日当たりのいい三階から階段を降りるにつれて、庁舎の空気は少しずつ湿り気を帯びていく。
一階の廊下を一番奥まで歩き、突き当たりの古びた木扉の前で、サムは足を止めた。『旧市街生活安全課』と書かれた木の札は、文字が半分かすれている。
「こちらです。どうぞ」
サムが扉を開けると、メグは「失礼します!」と元気よく足を踏み入れ――そのまま、入り口で固まった。
もともと備品倉庫だった部屋である。
西向きの小さな窓がひとつあるだけで、午前の光はほとんど入らない。部屋の真ん中には向かい合わせの事務机が二つ。壁際に、今朝サムが雑巾で拭いておいた小さな折り畳み机がひとつ。奥の隅には、布をかぶせた細長い筒のようなものが無造作に立てかけてある。
そして、奥の机では、白髪混じりの褪せた茶髪の老人が、椅子の背に深くもたれて気持ちよさそうに目を閉じていた。
メグは部屋の中を右から左へ、左から右へと二度見回し、それからサムの顔を見上げた。
「……あの、サミュエル主任」
「はい」
「ほかの課員の皆様は、もう見回りに出られているんですか?」
「いえ、これで全員です」
「……え?」
「奥で寝ているのが、課長のスコットです。それと、主任の私。旧市街生活安全課は、以上二名です」
メグの口が、ぽかんと開いた。
さっきまでの完璧な令嬢の笑顔が剥がれ落ち、年相応の少女の顔になって目を丸くしている。
「ふ、二人!? ええっ、だって旧市街って、首都の西側半分ですよね!? 人口だって何万人もいるのに、たったお二人で回していらっしゃるんですか!?」
「回っているかどうかは微妙なところですが、自警団と協力してますし、場合により、犯罪捜査課の助けもあります」
「騒々しいのう……」
奥の椅子で、スコットが目を閉じたまま口を開いた。
メグが慌てて姿勢を正す。
「あ、お休みのところすみません! 本日からインターンでお世話になります、メグ・ホッパーです!」
「おう。よう来たな、お嬢。……わしは基本的に寝とるから、仕事のことは全部サム坊に聞け」
「は、はいっ! ……え、サム坊?」
スコットはそれきり、また規則正しい寝息を立て始めた。
メグが困惑したようにサムを見る。サムは小さく肩をすくめ、壁際の折り畳み机の椅子を引いた。
「寝てるふりはしてますが、たいてい起きています。気軽に話しかけてください。どうぞ掛けて、ホッパー嬢。武器はそちらに、ああ、置き場は後で用意し……」
「あの、サミュエル主任!」
メグは椅子に座りかけたままで、きゅっと眉を寄せた。
「さっき部長室でも気になっていたんですが、『ホッパー嬢』って呼ぶのはやめていただけませんか!」
「はあ。しかし、皆さんそうお呼びし……」
「ここではただのインターンなんですから、メグと呼び捨てにしてください!」
「そういうわけには参りません。情報庁長官のご令嬢を呼び捨てにしたら、私の……」
「ええーっ。じゃあ、インターンからの最初のお願いです! 呼び捨てが無理なら、せめて家の名前はやめてください! さん付けまでなら我慢しますから!」
メグが机に両手をついて身を乗り出してくる。話を最後まで聞いてくんねぇかな。
サムは小さく息をついた。
「……わかりました。では折衷案で、『メグ様』で手を打ちましょう。これ以上は譲れません」
「むう……様がついてるじゃないですか」
「諦めてください。今、お茶を淹れますので」
サムは棚から小さな茶缶を下ろし、湯を沸かして白い陶器の杯に注いだ。
独特の、青く澄んだ香りが狭い部屋にふわりと広がる。メグが杯を受け取り、少しだけ目を大きくした。
「わあぁ! これ、葦牙ですよね? 健康に良いと結構流行ってますよ!」
「よくご存じですね。私が好きで飲んでいるだけです。お口に合うといいんですが」
サムは自分の分のぬるい茶を一口すすり、机の上に一枚の紙を広げた。先週、ラスト・コールでドロシーが紙ナプキンに描いた略図をもとに、清書した行程表である。とにかく業務だ。業務を進めよう。
「まずは、うちの課の業務と、メグ様の二か月の日程をご説明します。旧市街生活安全課の仕事は、一言で言えば『他の課が手を回せない雑務全般』です」
「雑務全般、ですか」
「はい。外壁の境界防衛部や、新市街の霊災対策課が討ち漏らして旧市街に迷い込んだ小型ヴァーレの駆除。共同井戸や去勢コア動力路の点検。違法コアの密売の見張りから、酔っぱらいの喧嘩の仲裁まで、何でもやります」
メグは手元の小さな帳面を取り出し、真剣な顔でペンを走らせ始めた。
「最初の二週間は、この庁舎から一番近い東区の見回りと、南の外縁の巡回に同行していただきます。また、東区の市場に食材を卸している『エイブ商会』という問屋に話を通してありますので、そこで荷運びや流通の現場も体験していただきます」
「エイブ商会……! はい、ぜひやりたいです!」
「三週目からは、川沿いの孤児院や施療院の手伝いに回る予定です。ただし、メグ様には三つだけ、絶対に守っていただきたい約束があります」
サムは指を三本立てた。
「一つ、北の倉庫街には近づかないこと。あそこは柄の悪い密売人や流れ者が溜まっています。二つ、勤務時間外でも、勝手に一人で旧市街を歩き回らないこと。そして三つ、万が一ヴァーレや荒事に遭遇したら、私の指示に従っていただくこと。……よろしいですね?」
二つ目の「一人で歩き回らないこと」を言った瞬間、メグの肩がぴくりと跳ねた。
だが、彼女はすぐに天真爛漫な笑顔を作って、ぶんぶんと頷いた。
「はい! よく分かりました、サミュエル主任!」
本当に分かったのかどうか、甚だ怪しい。
サムがため息を飲み込んだ、その時だった。
帳面を閉じたメグが、杯を両手で包んだまま、ふと小首を傾げた。
きらきらと輝く青い目が、まっすぐにサムを、それから奥で目を閉じているスコットを見つめる。
「ところで、サミュエル主任。それにスコット課長」
「なんでしょうか」
「お二人とも、十年戦争の実戦経験がおありですよね?」
サムの指先が、杯の縁でわずかに止まった。
「……なぜ、そう思われます?」
「やっぱり!」
メグは嬉しそうに身を乗り出した。悪気など微塵もない、純粋な好奇心の顔だった。
「だって、お二人とも立ち姿がとってもきれいなんです! 背筋がまっすぐで、ぴしっとしていて。父のところへ遊びに来る、昔の軍団の方たちとそっくりなんですもの!」
そこでメグは、ぱっと笑顔を咲かせた。
「第何軍団のご出身なんですか?」
狭い元倉庫の空気が、ほんの一拍だけ、ぴたりと止まった。
第何軍団。
杯の縁に添えた指先が、冷えていく。薄く広げた盾が、端から割れていく音。名を呼んでも、もう返事のない声。十年かけて底に沈めたものが、少女の無邪気な一言で、ゆっくりと浮き上がってくる。
よりによって、それを聞くか。
四十歳で窓際にいる男が、十年戦争のあいだどこにいたかなど、普段なら誰も気に留めない。だが目の前の少女は、長官の娘で、次期首席だ。
サムがどう言葉を濁すか考えるより早く、奥の椅子から、あくび混じりのしわがれた声が飛んできた。
「……第三じゃよ」
目を閉じたまま、スコットが言った。
「第三軍団! 重砲撃の!?」
「おう。わしは後ろで砲をいじっとった。サム坊は、その前で盾を持って立っとっただけじゃ。なあ、サム坊」
サムは一瞬だけ課長の横顔を見て、それから何事もないように息を吐いた。
嘘ではない。開戦初期のスコットは、実際に第三軍団の副軍団長だった。だが二年ほどで第三を離れ、第八へ移った。俺は入隊から第八だ。新兵の俺が、第八に来たスコットの砲撃隊の前で動かない盾を張っていたのは事実だが、場所が違う。公式の古い名簿を辿っても、スコットの名前が見つかるのは第三にいた二年ぶんだけで、雑兵の俺の名前がどこにも見つからなくても不思議はない。もっとも、メグ様が本気で名簿を漁れば、課長の出自のほうに驚くことになるだろうが。
「……ええ、まあ。後方支援の端くれですよ。前線で剣を振るうような、華々しい武勲などありません」
「第三軍団といえば、今の民間傭兵ギルドのローレンス総長のところですよね! 道理で! あ、じゃあ部屋の隅のあの長い布の下って、当時の砲身ですか!?」
「ただの古いガラクタじゃ。触ると埃が舞うぞ」
スコットが面倒くさそうに手を振ると、メグは「すごいです、本物の戦争の古参兵の方にお会いできるなんて!」と無邪気に声を弾ませた。雑兵にも敬意を払うのは、社交辞令として満点だ。
天真爛漫な、明るい笑顔だった。名家の温室育ちなのも、たぶん本当だ。
旧市街でのトラブルが目に浮かび、サムはまた深いため息をついた。戦時の話など、旧市街のロートル達は話したがらない。誰かの死や、自分の無力さを話すことになるからだ。
だが、姿勢がきれいだから、などという無邪気な理由を、額面どおりに受け取る気にはなれなかった。情報庁長官の血は、しっかり引いている。
俺の嘘は、どうやら本当だ。この子は、人の悪意も嘘も、笑顔のまま量っている。表向きの魅力は飾りか。
適当におだてても、まずバレるな。早く実地に入ったほうがよさそうだ。
「……さて、メグ様。お茶を飲んだら、早速東区を一回りしてきましょうか」
「ふぁいっ! おほもひまふ、ふぁみゅえるひゅひん!」
言い終わるより早く、メグはもう立っていた。
椅子が後ろでがたんと鳴る。帳面を胸に抱え、背筋をぴんと伸ばし、踵まできっちり揃えている。さっき出迎えの廊下で見せた令嬢の立ち姿とは、どこか違う。散歩の紐を見せられた子犬のそれだ。
机の上の杯は、いつの間にか空になっていた。
「……熱くありませんでしたか」
「へいひれふ!」
平気ではなさそうだった。涙目で舌を押さえながら、それでもつま先だけは、しっかり扉の方を向いている。
「メグ様。お茶を飲んだら、と申し上げたのは、ゆっくり飲んでか……」
「だって、東区ですよ! 本物の見回りですよ!」
奥の椅子から、ふご、と寝息とも笑いともつかない音がした。
サムは天井を仰いだ。旧市街の見回りより先に、このお嬢様の手綱のほうが骨が折れそうだ。
サムは冷めきった茶を一息に飲み干し、重い腰を上げた。
◇
扉が閉まり、二つの足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
元倉庫には、西向きの窓のかすかな光と、茶の残り香だけが残った。
椅子の背にもたれたまま、スコットが薄く目を開けた。
「……騒々しいのは、母親の血じゃな」
呟くと、老人はまた目を閉じた。




