第二話 ドロシー・シャノンと情報料
人事調書は、翌日の昼過ぎに届いた。
持ってきたのは部長室付きの若い事務官で、封筒を差し出す手つきまで、トルーマンによく似ていた。
「部長から、目を通しておくようにと」
「どうも。お忙しいところありがとうございます」
事務官は、課の中を一度だけ見回した。窓がひとつの元倉庫。目を閉じた課長。何か言いたそうな顔をして、何も言わずに帰っていった。こちらこそ、とか言ってくれてもいいんじゃないか?
サムは封を切った。
メグ・ホッパー。十八歳。情報庁長官テッド・ホッパーの一人娘。四月より最高学府に入学予定。
入学試験、筆記首席。実技も首席。記載されている得点も満遍なく高い。科目を見ても、俺には何を試験しているのかわからないが、まあ凄いことはわかる。
使用武装は双剣か。第七軍団の軍団長が双剣使いだ。憧れでもあるのだろう。最近の若者は、各軍団長達が使用していた武器を選ぶことが多い。省内の職員たちから漏れ聞こえてくるところでは、その方が大学での鍛え方の方針が定まっているため、良い成績を取りやすいようだ。効率的ではあると思う。しかし、埋め込み去勢コア、二基とは贅沢な。いずれも特二等級。特二等級だと?
サムはそこで、しばらく紙をめくる手を止めた。
二つ以上の去勢コアを扱える者は、現在でも限られている。制御が相当にうまくなければいけない。さすがは元第七軍団の副軍団長の娘だ。いや、今は情報庁長官か。
実戦経験はなし。まあ当然だろう。あの親バカぶりで一人娘をヴァーレ討伐に出すはずがない。
備考欄には、几帳面な字で一行だけあった。
性格、明朗。積極性に富む。
調書というのは、当たり障りのないことしか書かない。最近は突っ込んだ質問すら、相手を委縮させるからとご法度らしい。それで人間性が分かるなら、今ごろ省内は立派な奴ばかりになっているはずだ。
「どうじゃ」
目を閉じたまま、スコットが言った。
「書類上では天才と思います。非の打ちどころがありません。装備も一級です」
「戦時なら?」
「もう戦争は終わってますよ。ですが、第七の精鋭に届く才能ではと」
「では、わしらでも鍛えられるレベルじゃな」
「課長、戦争は十年前に終わってますよ。オムラスにもうジェンタはいませんし、流通するコアは去勢されています。それにこの方の目的は市井見学です」
「ではサム坊に任せる」
「いつもと同じじゃないですか。たまには老人の含蓄をですね」
スコットは、また寝息を立て始めた。
彼は戦を忘れられないのだろう。戦争は確かに沢山の人を失ったが、俺たちが最も輝いた時期でもある。この人が前を見ることをやめて久しい。
俺は、どこを向いている? 前か、後ろか。
サムは調書を封筒に戻し、机上に投げ捨てた。
紙に載らないことを知るには、それなりの場所へ行くしかない。軽い疲労感を覚えながら、結局その封筒を上着の内側にしまい、ゆっくり部屋を出て伝令室を訪ねた。小間使いに銅貨を一枚握らせ、ドロシーへ言づてを頼んだ。旧市街課の伝令など、裏で金でも握らせないと誰も頼まれてくれない。
◇
ラスト・コールは、旧市街の南のはずれにある。旧市街の中でも外縁に近く、外敵からの攻撃を最初に受ける地域だ。特に最近は、ヴァーレの動きが活発化しているため、境界防衛部や霊災対策課が討ち漏らしたヴァーレの被害を受ける事も多くなった。ここに集まるのは、自分の身を守れるか、その自信のある者たちがほとんどだ。
看板の文字はとうに剥げていて、長らく改修をしていないため、見すぼらしい。だが、旧市街に酒を提供する場所は限られているため、そこそこ儲かっているはずだ。ヴァーレの襲撃を受けると、家屋にもかなり被害が出るため、修繕代をケチっているのだ。
扉を押すと、安い麦酒と揚げ油の匂いがした。卓が六つに、長いカウンター。荷役、職人、賭け事の好きな日雇い。いつもの光景だ。変わったのは、マスターの髪に白いものが増えたことくらいだ。
カウンターの端に座ると、ヘイムは何も聞かずに、奥の棚から小さな缶を下ろした。
湯を沸かし、茶葉を量り、白い陶器の杯に注ぐ。麦酒の泡が飛び交う店にしては、やけに丁寧な手つきである。
葦牙。この店でこの茶を頼む客は、ほとんどいないだろう。昔の同僚のために茶を切らさないヘイムに、口には出さないがサムは感謝していた。
サムは一ビト銅貨を四枚、カウンターに並べた。
茶は大聊帝国からの輸入品であり、オムラスでは麦酒の四倍はする。それでもサムは毎日この茶を欠かさず飲んでいる。
「調子はどうだ!? ええ? 坊や」
「うるせえ。俺はお前と同期だ。ってのを何回やらせるんだ? 調子は変わらんよ。面倒な仕事が入った」
「ドロシーはもうすぐ来るぞ! なんだ相変わらずしけた面だなお前」
「実際しけてるんだよ。そっちはどうだ」
「けっ。いつからそんな面白みの無い奴になりやがった、このでかぶつクソ野郎が! おお、来たぞ」
ヘイムが、顎で入口をしゃくった。
扉が開いて、一月の夜気が足元を這った。
入ってきた女は、黒い外套の襟を立てていた。カウンターまでの数歩を、急ぎもせずに歩く。一歩ごとに腰が揺れ、外套の裾が腿にまとわりついては離れた。ヘイムが黙ってグラスを一つ出す。
女はサムのすぐ隣の丸椅子に滑り込み、黒い外套を肩から滑らせた。
店の空気が、一拍だけ止まった。
夜の色をした薄い布が、体の線にそのまま張りついていた。背中は腰のくぼみまで大きく開き、白い肌に背骨の筋が一本、まっすぐ落ちている。前は鎖骨の下から深く割れていて、布に押し上げられた胸の丸みが、呼吸のたびに静かに上下した。きつく絞った腰から、張りのある尻へ。その線を隠す気は、無さそうだ。
奥の卓で賽を振っていた男たちが手を止め、隣の荷役は口に運びかけた杯を宙に浮かせたまま固まっている。
女はカウンターに片肘をつき、わざとサムの方へ身を乗り出した。すぐ横で、胸元の深い影と、組んだ脚のスリットから覗く長い素肌がサムの視界の端を塞ぐ。
艶のある濃い栗色の巻き髪を耳にかけ、細い紙巻きに火を点ける。甘く焦げた葦の匂いが、カウンターに流れてきた。
サムはため息をつき、努めて視線を茶に戻した。冷めかけた茶を、一口すする。
女は煙を細く吐き、組んだ脚の爪先で、サムの脛を軽く蹴った。
「相変わらずね、坊や」
「蹴るな。それと、お前な」
サムはカップを置いた。
「いい加減にしろ。お前、俺より一つ下だろう」
「そうね」
「年下が坊やって呼ぶか、普通」
「ご存じの通り、入隊は同じ日よ」
ドロシー・シャノンは、灰を小皿に落とした。
「あたしは三か月で斥候長に昇格。あんたはその頃、まだ動かない盾の後ろで震えてたじゃない」
「……震えてねぇよ」
「膝が笑ってた」
「笑ってねぇ!」
「ヘイム、笑ってたわよね」
「おお、確かに笑ってたぜ! でかい図体してなぁ。半年たっても震えてやがった。それを俺たちが笑ってな。懐かしいねぇ」とヘイムが言った。
過去を知られていると格好も付けられないじゃないか。今更か。こいつらとは、できるだけ昔のままでいたい。もう取り戻せないとしても、出来るだけ。
「歳の話じゃないのよ、坊や」
ドロシーは煙の向こうで目を細めた。
「もういない人たちの代わりに、あたしが呼んであげてるの。感謝なさい」
サムは何か言いかけて、やめた。お前も同じ気持ちだろう。分かってるさ。
あの頃。あの人たち。その先の名前は、オムラスのどこでも口にできない。
「さて、この店であたしを見ないのは、あんたとヘイムだけよ。嘘でも見入ってくれないかしら? 傷つくわ」
「ヘイムは見てたぞ。特に胸をなぁ」
「みっ、見てないぞこの野郎! ふざけんじゃねぇ!」
「もっと見てくれていいのよ、ヘイム。あたしはそれが嬉しいんだから」
ヘイムは慌てて目をそらした。耳が、少し赤い。二十年近く一緒にいて、まだ慣れないのか。やせ我慢してる俺よりはましか。
ひとしきりヘイムをからかった後、ドロシーはサムの肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。
「で? わざわざお呼び出しいただいた理由は何でしょうか? 主任さん?」
◇
「仕事の話だ」
サムは上着の内側から封筒を出しかけた。その手を、ドロシーの指が止めた。細い指先が、封筒の上でとんとんと二度跳ねる。
「五十ビト」
「おぃ、高いな」
「テッドの娘よ。安く売ったら、何をされるか。あたしがあんたに話すのも織り込み済みでしょう」
「まだ書類見てないよな。お前らはどれだけ織り込んでんだよ。ええ? しかし、五十はないぜ。この店の麦酒が五十杯飲める」
「恰好つけんじゃないわよ。あんた、飲まないじゃない」
ぐうの音も出なかった。
今月はこれでギリギリだな……。サムは財布の底を覗き込んで小さくため息をつき、十ビト銀貨を五枚、カウンターに積んだ。ドロシーはそれを一枚ずつ爪で弾いて音を確かめ、胸元へしまった。隣の阿呆が、ごくりと喉を鳴らした。まあ、分かるが、ちょっとは格好つけろよ。
「毎度。……さて、何から聞きたい?」
「書類に載ってないことを、全部頼むわ」
ドロシーは、新しい紙巻きに火を移した。
「表の評判は、あんたの持ってる紙のとおり。首席、明るい、物怖じしない。社交の場じゃ、名家の坊ちゃんたちがこぞって声をかけて、片っ端から振られてる」
「おお? 振ってるってのか」
「男との恋愛には興味がないようね。天真爛漫って言えばいいのかしら? 無自覚に振っている感じらしいわ」
まあ、群がるのも無理はない。長官の娘を射止めれば、家の格も本人の出世も一足飛びだ。国じゅうの秘密を握る男が、義理の父になるんだからな。若い者同士、頑張ってくれよ。名家の坊ちゃんたちには、少し同情した。
「で、ここからが五十ビトの分」
ドロシーは声を落とした。
「あの子、去年の秋から何度か、護衛をまいて旧市街を歩いてる。それも一人で。東区の市場、倉庫街の裏道、川沿いの古い家並み」
「何だよそれは? ……何をしに」
「何も。ただ歩いて、見て、帰っていく。屋台で食べて、代金を多めに置いていったこともあるそうよ」
「はぁ? 長官は知ってるのか」
「知らないはずがないでしょう。あの人の娘よ」
知っていて、止めなかった。あるいは、止められなかった。
「なんでまた、そんなことをすんだよ。何不自由ない生活だろ?」
「さあね。私生児なんて、オムラスじゃ珍しくないわ。でも、名家の中じゃ肩身が狭いでしょう。そのストレスかもね。本人は社交の場でも、いつも真ん中で笑ってるそうよ」
ドロシーは、紙巻きの先を小皿の縁でくるりと回した。
「テッドにもあたしにもわからない。それは、本人しかわからないって事よ」
性格、明朗。積極性に富む。調書の一行が、急に薄っぺらく見えた。お嬢様、もしや闇を抱えておいでですか?
「それと、あの子の剣」
「特二等級のコアが二つとはな。特級は一生もんだぜ。高いどころの騒ぎじゃない」
「それ自体が、旧市街じゃ火種になる。あの剣一本で、北の倉庫街の連中が十年は遊んで暮らせる。そうでなくても、高級コア持ちが嫌われるのは、あんたも知ってるでしょう」
ドロシーは、灰を落とした。
「最近、密売人の動きが活発よ。流れ者も増えてきた。国内での密売はある程度は見逃されても、他国が絡んでたら厄介だわ。粛清対象になる」
「入り込んできてるのは今更だろう? お嬢さんが、狙われる可能性が?」
「可能性じゃない」
ドロシーは、煙をひとつ吐いた。
「狙われてる。去年だけでも、二度」
サムは、口に運びかけた杯を止めた。
「去年の春、最高学府の入試の帰り。乗ってた馬車の車軸に事故に見せかけようとした細工があった。夏には、屋敷の敷地内で暗殺者の襲撃も受けてる。どっちも長官の護衛が表に出る前に片づけて、本人は気づいてないわ」
「なんだよ。そんな情報はこっちに一言も来てねぇぞ」
「来るはずないでしょう。馬鹿ね」
長官の護衛ですら表に出していない話を、この女はどこで拾ってくるのか。現役は怖いねぇ。そうなると、五十ビトは、高くないぞ。
「他国から狙われる動機はあんのか?」
「表向きは、テッドへの揺さぶりってことになってるわね。弱みはあの娘だけだから、国内で狙われる可能性は常にある。ただし、他国の可能性は捨てきれないわ。去勢コアの技術は、オムラスだけのもの。引き出したい国は多い」
「長官を狙ってくんねぇかな?」
「テッドは元第七の副軍団長よ。力はあんたも知ってるでしょ。娘の方ははるかに狙いやすい」
ドロシーはそれ以上言わず、灰を落とした。
「狙われてる娘が、止めても護衛をまいて旧市街を歩く。テッドも頭が痛いでしょうね。抜け出すくらいなら、いっそ信用できる人間の横で、じっくり見させたほうがいい。そう判断したんでしょう」
「それで俺かよ」
「守りに関しては、あんたのほうが信頼できる。それで、わざわざトルーマンを通してインターンにした。そう考えるのが自然ね。本人の希望とも合ってるわ。誰も損しない」
「俺が損してるだろうが。しかし、そんなもん、直接俺に頼めばいいじゃないか」
「どうやって? テッドがあんたを引き抜こうとしても、スコットが許さない。直接頼んだととしてもトルーマンのメンツがある。 自然にあんたに押し付けられる、しかも本人が望んだインターンなら、自分から離れたりしない。相変わらず上手いわ」
「つまり、片時も気を抜くな、ってことか」
「そういうことよ。スコットもいるし、まあ大丈夫でしょ?」
「やめてくれよ。これ以上なく気の抜けた課の人間だぞ。親父はずっと前から魂まで抜けきってるよ」
「あたしたちは、前のあんたも今のあんたも知っている。おそらくテッドも。自分を下げるのはやめなさい。お姉さんからの忠告よ」
「いつか、はっきりさせようぜ。俺とお前の年齢についてな」
ドロシーは静かに笑っているが、わずかに憐みの視線があることが分かった。そんな目で見るなよ。俺が坊やと本当に思ってしまうじゃないか。
◇
「で、二か月もあの子を連れ回すんでしょう。どうするつもり?」
「何で知って……、いやまあいい、正直どうすればいいかわからない。ドロシーなら相談できるかと思ってね。助けてくれねぇか?」
「最初からそう言いなさいよ」
ドロシーはヘイムから紙ナプキンを一枚もらい、細い鉛筆を走らせた。迷いのない線で、旧市街の略図ができていく。
「最初の二週は東区。市場、屋台街。商売人は基本的に人当たりがいいし、昼は目が多いから安全。ここで、旧市街の人間の暮らしと、あんたの普段の仕事を体験させることね。つまり町の雑用を」
立派な仕事だろ、棘のある言い方だな。ドロシーは気にした様子もなく、鉛筆の先を北へ動かした。
「北の倉庫街は、今はだめ。どうしても見たいという希望が出れば、先に話を通すべきね」
「川沿いは」
「三週目から。あそこには、パールの孤児院があるでしょう」
パール・ヒントン。孤児院の院長で、昔は衛生兵だった仲間だ。彼女なら安心だろう。誰にとっても癒しの存在だ。
「子どもたちと会わせなさい。そして、孤児院に関わる課の仕事を説明する」
「外縁の見回りはどうすれば? あれも一応は俺の仕事だけど、連れて行っていいもんかい?」
「連れて行けばいいわ。出るのは、せいぜい小物でしょう。あんたが横にいるなら、あの子にはいい経験よ。首席様に、一度実戦の空気を吸わせておきなさい」
簡単に言ってくれる。だが、悪くない。少し怖い思いでもすれば、今後は勝手に護衛をまくような真似も減るかもしれない。
「夜はやはりだめだよな」
「夜は出歩かせない。といっても仕事は十八時まででしょ。暗くなったら、必ず家まで送り届けること」
「護衛は付いているんだろう?」
「推測だけど、インターンに護衛は付けないと思う」
「狙われてるのにか」
「テッドはもう、護衛をあまり信用してないんじゃないかしら。相手は屋敷の内側まで入り込んだ。それに、張りつけたところで、必要であればあの子はまくでしょう。どのみち、坊やなのよ」
「本当に勘弁してくれ。命を守るのは簡単じゃねえ。万が一負傷でもしたら? 俺が長官に殺されないか?」
「必死に命乞いするのね。外堀は埋まってるわ。やるしかないんじゃない?」
「ああ、嫌だ。本当に嫌だ。正直に言って自信がない。若いお嬢さんと今更話したい事もねぇよ」
「本音が混じってるわよ。とはいえ、旧市街にも影響のある話よ。前例もないから、あたしの商会も動かすわ。あらかじめ、手荒い連中にも話を通しておく。市場や屋台街での安全度は上がると思うわよ。たとえ誰かが手を出しても、多分返り討ちでしょうけど、念のためね」
「それは助かるが、おいくら払えばいいんだい?」
「六百ビトってとこね」
「なっ、そんな、それはねぇだろう。高すぎる。俺の給料じゃ破産する」
「坊やの安月給に合わせて、これでも負けてあげてるのよ。それとも実質一人でやれるの?」
「……経費で落ちる。落ちるのか? いや落とそう。トルーマンに相談するから、それらしい請求書をくれないか」
ドロシーは、煙と一緒に鼻で笑った。
「市民生活部の部長が、裏街の護衛代にハンコを押すと思って? まあいいわ、エイブ商会の名前で、一応は書いてあげる。どうせ最初は屋台街を回るんでしょう。うちが研修を受け入れたことにすればいいわ。じゃあ九百ビトで出すわよ」
「値上げかよ! まあ、俺の金じゃないしいいか。後払いにしてくれるよな?」
「時間的に仕方がないわ。体で払ってくれてもいいのよ?」
「冗談でもよしてくれや。妹よ。商会のやつらに狙われる。俺の命が危ない」
エイブ商会は、ドロシーの情報組織の表の顔だ。旧市街の市場や屋台の食料流通を担っている。最近は、新市街にも影響力を持ち出しているようだ。研修の受け入れ料なら、インターンの経費として筋は通る。本当に屋台街で荷運びの一つもさせれば、請求書に嘘もなくなる。俺は商会の若い衆に嫌われているので、あまり行きたくはないのだが。
それにしても、と思う。オムラスのどこでも口にできない名前を、こいつは看板にして、毎日旧市街に掲げている。商会の名前なら、国も文句のつけようがない。意地か未練かは分からない。でも、その在り方を俺は好ましく感じている。ドロシーは、前を向いている、俺には少しそれが眩しかった。
サムはナプキンを受け取り、丁寧に畳んで、調書の封筒にしまった。
「ドロシー・シャノン」
ドロシーから笑みが消え、静かな目がこちらを見据えた。
「私はここに。サミュエル」
「本当にありがとう。俺一人じゃとても無理だった。いつも、助けられてる」
ドロシーはグラスを持ち上げた。
「戦友に」
「ああ、戦友に」
茶では気分が出ないだろうが、二人で杯を合わせて、飲み干した。
しばらく、二人とも黙った。
ヘイムが、ドロシーのグラスに琥珀色の酒を足した。サムの杯には、茶を足した。
ドロシーの紙巻きから、甘く焦げた煙が細く立ちのぼる。
「その草、まだやめねぇのか」
「あんたの茶と同じよ」
「草は好きじゃないんだよ」
「どのみち、茶と草はあたしたちの印みたいなもんでしょ。こだわりなさんな」
「そら、分かってるけどよ」
「ふふっ。何よその口調。すねるんじゃないわよ。若いころを思い出した? それともあたしに甘えたい? 今夜だけならつきあうわよ」
「あのなぁ。俺はもうおっさんだ。何度言われても自分を守る」
「あら残念ね、じゃあ今日はヘイムにしとこうかしら」
ヘイムがこちらを二度見した。阿呆が。後で嫁に言いつけてやる。
「ええっ! いいのか! 俺はいつでも……」
「冗談よ」
葦火の匂いは、あの男の背中を思い出させる。ドロシーはたぶん、葦牙の湯気の向こうに、死んだあの方の横顔を見ている。
どちらも、その名前を口にしない。隊長は失踪し、副隊長は戦死した。
国は、俺たちをなかったことにした。
本来なら隊長の失踪は重罪で、俺たちも連座を免れないはずだった。だが処分は解散だけで終わり、代わりに一枚の紙が突きつけられた。第八軍団の名や情報を口にすれば処刑する、という誓約書だ。署名を拒んで国外へ追われた連中は、たぶんもう生きてはいない。俺たちは署名し、市井に散った。生き続けろ、鍛錬を怠るな――あの男が最後に残した言葉を、何のためかも分からないまま守って。
生き残った他の軍団の連中は要職に就き、今のオムラスを動かしている。輝かしい戦勝の正史に、俺たちの名はない。名誉のために戦ったわけじゃないが、あの方の名前まで消されたことだけは、今も腹の底につかえている。
話せるのは、せいぜい誰かの膝が笑っていたとか、くだらない昔話だけだ。最後に何が起きたのか、あの方は本当に死ぬべきだったのか。十年経った今も、誰一人そこに触れられない。同じ場所にいて、同じ人たちを失ったのに、傷の深さを確かめ合う言葉だけが見つからないままだ。
「……ねえ、坊や」
「あ、何だよ?」
「今年で、十年ね」
「……ああ、そうだな」
それ以上、どちらも続けなかった。
騒がしいはずの酒場で、ヘイムがグラスを拭く音だけが妙に大きく聞こえた。
◇
サムが立ち上がって外套を取ったとき、ドロシーが言った。
「おまけを一つ。これはタダでいいわ」
「お前がタダで出す話は、大体ろくでもない」
「よくわかってるじゃない」
ドロシーは、グラスの縁を指でなぞった。
「さっきの話。テッドへの揺さぶりってのは、あたしはどうも違う気がしてる」
「違う?」
「テッドを揺さぶりたいなら、もっと楽な手はいくらでもあるのよ」
ドロシーは、煙の向こうからサムを見た。さっきまでの艶が、すっと引いていた。斥候の目だった。
「たぶん、母親ね」
「母親?」
「あの子の母親、誰も知らないでしょう」
「ああ。そもそも長官は戦時中から子供について公言してたじゃねぇか。テッドの娘で十分さ。誰も気にしてねぇよ」
「あんたらは能天気すぎるのよ」
もう少し問い詰めるべきか? サムは、外套の袖に腕を通しながら逡巡した。
やめた。ドロシーが言わないことは、言えないことだ。
長官よ、あんたは俺に何を預けたんだ。娘を任せたよ、の一言で済む話じゃないだろう。畜生め。
外は一月のオムラスらしく凍えるような寒さで、通りはうっすらと雪をかぶっていた。
頭が痛いのは、寒さのせいだけじゃないな。




