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第8軍団後記(10年後)  作者: 青山


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第二話 ドロシー・シャノンと情報料


 人事調書は、翌日の昼過ぎに届いた。

 持ってきたのは部長室付きの若い事務官で、封筒を差し出す手つきまで、トルーマンによく似ていた。


「部長から、目を通しておくようにと」

「どうも。お忙しいところありがとうございます」


 事務官は、課の中を一度だけ見回した。窓がひとつの元倉庫。目を閉じた課長。何か言いたそうな顔をして、何も言わずに帰っていった。こちらこそ、とか言ってくれてもいいんじゃないか?


 サムは封を切った。

 メグ・ホッパー。十八歳。情報庁長官テッド・ホッパーの一人娘。四月より最高学府に入学予定。

 入学試験、筆記首席。実技も首席。記載されている得点も満遍なく高い。科目を見ても、俺には何を試験しているのかわからないが、まあ凄いことはわかる。


 使用武装は双剣か。第七軍団の軍団長が双剣使いだ。憧れでもあるのだろう。最近の若者は、各軍団長達が使用していた武器を選ぶことが多い。省内の職員たちから漏れ聞こえてくるところでは、その方が大学での鍛え方の方針が定まっているため、良い成績を取りやすいようだ。効率的ではあると思う。しかし、埋め込み去勢コア、二基とは贅沢な。いずれも特二等級。特二等級だと?


 サムはそこで、しばらく紙をめくる手を止めた。

 二つ以上の去勢コアを扱える者は、現在でも限られている。制御が相当にうまくなければいけない。さすがは元第七軍団の副軍団長の娘だ。いや、今は情報庁長官か。

 実戦経験はなし。まあ当然だろう。あの親バカぶりで一人娘をヴァーレ討伐に出すはずがない。


 備考欄には、几帳面な字で一行だけあった。

 性格、明朗。積極性に富む。

 調書というのは、当たり障りのないことしか書かない。最近は突っ込んだ質問すら、相手を委縮させるからとご法度らしい。それで人間性が分かるなら、今ごろ省内は立派な奴ばかりになっているはずだ。


「どうじゃ」

 目を閉じたまま、スコットが言った。

「書類上では天才と思います。非の打ちどころがありません。装備も一級です」

「戦時なら?」

「もう戦争は終わってますよ。ですが、第七の精鋭に届く才能ではと」

「では、わしらでも鍛えられるレベルじゃな」

「課長、戦争は十年前に終わってますよ。オムラスにもうジェンタはいませんし、流通するコアは去勢されています。それにこの方の目的は市井見学です」

「ではサム坊に任せる」

「いつもと同じじゃないですか。たまには老人の含蓄をですね」


 スコットは、また寝息を立て始めた。

 彼は戦を忘れられないのだろう。戦争は確かに沢山の人を失ったが、俺たちが最も輝いた時期でもある。この人が前を見ることをやめて久しい。

 俺は、どこを向いている? 前か、後ろか。


 サムは調書を封筒に戻し、机上に投げ捨てた。

 紙に載らないことを知るには、それなりの場所へ行くしかない。軽い疲労感を覚えながら、結局その封筒を上着の内側にしまい、ゆっくり部屋を出て伝令室を訪ねた。小間使いに銅貨を一枚握らせ、ドロシーへ言づてを頼んだ。旧市街課の伝令など、裏で金でも握らせないと誰も頼まれてくれない。



 ◇



 ラスト・コールは、旧市街の南のはずれにある。旧市街の中でも外縁に近く、外敵からの攻撃を最初に受ける地域だ。特に最近は、ヴァーレの動きが活発化しているため、境界防衛部や霊災対策課が討ち漏らしたヴァーレの被害を受ける事も多くなった。ここに集まるのは、自分の身を守れるか、その自信のある者たちがほとんどだ。


 看板の文字はとうに剥げていて、長らく改修をしていないため、見すぼらしい。だが、旧市街に酒を提供する場所は限られているため、そこそこ儲かっているはずだ。ヴァーレの襲撃を受けると、家屋にもかなり被害が出るため、修繕代をケチっているのだ。


 扉を押すと、安い麦酒と揚げ油の匂いがした。卓が六つに、長いカウンター。荷役、職人、賭け事の好きな日雇い。いつもの光景だ。変わったのは、マスターの髪に白いものが増えたことくらいだ。


 カウンターの端に座ると、ヘイムは何も聞かずに、奥の棚から小さな缶を下ろした。

 湯を沸かし、茶葉を量り、白い陶器の杯に注ぐ。麦酒の泡が飛び交う店にしては、やけに丁寧な手つきである。


 葦牙(あしかび)。この店でこの茶を頼む客は、ほとんどいないだろう。昔の同僚のために茶を切らさないヘイムに、口には出さないがサムは感謝していた。

 サムは一ビト銅貨を四枚、カウンターに並べた。

 茶は大聊(だいりょう)帝国からの輸入品であり、オムラスでは麦酒の四倍はする。それでもサムは毎日この茶を欠かさず飲んでいる。


「調子はどうだ!? ええ? 坊や」

「うるせえ。俺はお前と同期だ。ってのを何回やらせるんだ? 調子は変わらんよ。面倒な仕事が入った」

「ドロシーはもうすぐ来るぞ! なんだ相変わらずしけた面だなお前」

「実際しけてるんだよ。そっちはどうだ」

「けっ。いつからそんな面白みの無い奴になりやがった、このでかぶつクソ野郎が! おお、来たぞ」

 ヘイムが、顎で入口をしゃくった。


 扉が開いて、一月の夜気が足元を這った。

 入ってきた女は、黒い外套の襟を立てていた。カウンターまでの数歩を、急ぎもせずに歩く。一歩ごとに腰が揺れ、外套の裾が腿にまとわりついては離れた。ヘイムが黙ってグラスを一つ出す。

 女はサムのすぐ隣の丸椅子に滑り込み、黒い外套を肩から滑らせた。


 店の空気が、一拍だけ止まった。


 夜の色をした薄い布が、体の線にそのまま張りついていた。背中は腰のくぼみまで大きく開き、白い肌に背骨の筋が一本、まっすぐ落ちている。前は鎖骨の下から深く割れていて、布に押し上げられた胸の丸みが、呼吸のたびに静かに上下した。きつく絞った腰から、張りのある尻へ。その線を隠す気は、無さそうだ。

 奥の卓で賽を振っていた男たちが手を止め、隣の荷役は口に運びかけた杯を宙に浮かせたまま固まっている。


 女はカウンターに片肘をつき、わざとサムの方へ身を乗り出した。すぐ横で、胸元の深い影と、組んだ脚のスリットから覗く長い素肌がサムの視界の端を塞ぐ。

 艶のある濃い栗色の巻き髪を耳にかけ、細い紙巻きに火を点ける。甘く焦げた葦の匂いが、カウンターに流れてきた。


 サムはため息をつき、努めて視線を茶に戻した。冷めかけた茶を、一口すする。

 女は煙を細く吐き、組んだ脚の爪先で、サムの脛を軽く蹴った。


「相変わらずね、坊や」

「蹴るな。それと、お前な」

 サムはカップを置いた。

「いい加減にしろ。お前、俺より一つ下だろう」

「そうね」

「年下が坊やって呼ぶか、普通」

「ご存じの通り、入隊は同じ日よ」


 ドロシー・シャノンは、灰を小皿に落とした。

「あたしは三か月で斥候長に昇格。あんたはその頃、まだ動かない盾の後ろで震えてたじゃない」

「……震えてねぇよ」

「膝が笑ってた」

「笑ってねぇ!」

「ヘイム、笑ってたわよね」

「おお、確かに笑ってたぜ! でかい図体してなぁ。半年たっても震えてやがった。それを俺たちが笑ってな。懐かしいねぇ」とヘイムが言った。

 過去を知られていると格好も付けられないじゃないか。今更か。こいつらとは、できるだけ昔のままでいたい。もう取り戻せないとしても、出来るだけ。


「歳の話じゃないのよ、坊や」

 ドロシーは煙の向こうで目を細めた。

「もういない人たちの代わりに、あたしが呼んであげてるの。感謝なさい」


 サムは何か言いかけて、やめた。お前も同じ気持ちだろう。分かってるさ。

 あの頃。あの人たち。その先の名前は、オムラスのどこでも口にできない。


「さて、この店であたしを見ないのは、あんたとヘイムだけよ。嘘でも見入ってくれないかしら? 傷つくわ」

「ヘイムは見てたぞ。特に胸をなぁ」

「みっ、見てないぞこの野郎! ふざけんじゃねぇ!」

「もっと見てくれていいのよ、ヘイム。あたしはそれが嬉しいんだから」


 ヘイムは慌てて目をそらした。耳が、少し赤い。二十年近く一緒にいて、まだ慣れないのか。やせ我慢してる俺よりはましか。

 ひとしきりヘイムをからかった後、ドロシーはサムの肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。

「で? わざわざお呼び出しいただいた理由は何でしょうか? 主任さん?」



 ◇



「仕事の話だ」

 サムは上着の内側から封筒を出しかけた。その手を、ドロシーの指が止めた。細い指先が、封筒の上でとんとんと二度跳ねる。


「五十ビト」

「おぃ、高いな」

「テッドの娘よ。安く売ったら、何をされるか。あたしがあんたに話すのも織り込み済みでしょう」

「まだ書類見てないよな。お前らはどれだけ織り込んでんだよ。ええ? しかし、五十はないぜ。この店の麦酒が五十杯飲める」

「恰好つけんじゃないわよ。あんた、飲まないじゃない」

 ぐうの音も出なかった。


 今月はこれでギリギリだな……。サムは財布の底を覗き込んで小さくため息をつき、十ビト銀貨を五枚、カウンターに積んだ。ドロシーはそれを一枚ずつ爪で弾いて音を確かめ、胸元へしまった。隣の阿呆が、ごくりと喉を鳴らした。まあ、分かるが、ちょっとは格好つけろよ。


「毎度。……さて、何から聞きたい?」

「書類に載ってないことを、全部頼むわ」


 ドロシーは、新しい紙巻きに火を移した。

「表の評判は、あんたの持ってる紙のとおり。首席、明るい、物怖じしない。社交の場じゃ、名家の坊ちゃんたちがこぞって声をかけて、片っ端から振られてる」

「おお? 振ってるってのか」

「男との恋愛には興味がないようね。天真爛漫って言えばいいのかしら? 無自覚に振っている感じらしいわ」


 まあ、群がるのも無理はない。長官の娘を射止めれば、家の格も本人の出世も一足飛びだ。国じゅうの秘密を握る男が、義理の父になるんだからな。若い者同士、頑張ってくれよ。名家の坊ちゃんたちには、少し同情した。


「で、ここからが五十ビトの分」

 ドロシーは声を落とした。

「あの子、去年の秋から何度か、護衛をまいて旧市街を歩いてる。それも一人で。東区の市場、倉庫街の裏道、川沿いの古い家並み」

「何だよそれは? ……何をしに」

「何も。ただ歩いて、見て、帰っていく。屋台で食べて、代金を多めに置いていったこともあるそうよ」

「はぁ? 長官は知ってるのか」

「知らないはずがないでしょう。あの人の娘よ」

 知っていて、止めなかった。あるいは、止められなかった。


「なんでまた、そんなことをすんだよ。何不自由ない生活だろ?」

「さあね。私生児なんて、オムラスじゃ珍しくないわ。でも、名家の中じゃ肩身が狭いでしょう。そのストレスかもね。本人は社交の場でも、いつも真ん中で笑ってるそうよ」

 ドロシーは、紙巻きの先を小皿の縁でくるりと回した。

「テッドにもあたしにもわからない。それは、本人しかわからないって事よ」


 性格、明朗。積極性に富む。調書の一行が、急に薄っぺらく見えた。お嬢様、もしや闇を抱えておいでですか?


「それと、あの子の剣」

「特二等級のコアが二つとはな。特級は一生もんだぜ。高いどころの騒ぎじゃない」

「それ自体が、旧市街じゃ火種になる。あの剣一本で、北の倉庫街の連中が十年は遊んで暮らせる。そうでなくても、高級コア持ちが嫌われるのは、あんたも知ってるでしょう」


 ドロシーは、灰を落とした。

「最近、密売人の動きが活発よ。流れ者も増えてきた。国内での密売はある程度は見逃されても、他国が絡んでたら厄介だわ。粛清対象になる」

「入り込んできてるのは今更だろう? お嬢さんが、狙われる可能性が?」

「可能性じゃない」


 ドロシーは、煙をひとつ吐いた。

「狙われてる。去年だけでも、二度」

 サムは、口に運びかけた杯を止めた。

「去年の春、最高学府の入試の帰り。乗ってた馬車の車軸に事故に見せかけようとした細工があった。夏には、屋敷の敷地内で暗殺者の襲撃も受けてる。どっちも長官の護衛が表に出る前に片づけて、本人は気づいてないわ」

「なんだよ。そんな情報はこっちに一言も来てねぇぞ」

「来るはずないでしょう。馬鹿ね」


 長官の護衛ですら表に出していない話を、この女はどこで拾ってくるのか。現役は怖いねぇ。そうなると、五十ビトは、高くないぞ。


「他国から狙われる動機はあんのか?」

「表向きは、テッドへの揺さぶりってことになってるわね。弱みはあの娘だけだから、国内で狙われる可能性は常にある。ただし、他国の可能性は捨てきれないわ。去勢コアの技術は、オムラスだけのもの。引き出したい国は多い」

「長官を狙ってくんねぇかな?」

「テッドは元第七の副軍団長よ。力はあんたも知ってるでしょ。娘の方ははるかに狙いやすい」


 ドロシーはそれ以上言わず、灰を落とした。

「狙われてる娘が、止めても護衛をまいて旧市街を歩く。テッドも頭が痛いでしょうね。抜け出すくらいなら、いっそ信用できる人間の横で、じっくり見させたほうがいい。そう判断したんでしょう」

「それで俺かよ」

「守りに関しては、あんたのほうが信頼できる。それで、わざわざトルーマンを通してインターンにした。そう考えるのが自然ね。本人の希望とも合ってるわ。誰も損しない」

「俺が損してるだろうが。しかし、そんなもん、直接俺に頼めばいいじゃないか」

「どうやって? テッドがあんたを引き抜こうとしても、スコットが許さない。直接頼んだととしてもトルーマンのメンツがある。 自然にあんたに押し付けられる、しかも本人が望んだインターンなら、自分から離れたりしない。相変わらず上手いわ」


「つまり、片時も気を抜くな、ってことか」

「そういうことよ。スコットもいるし、まあ大丈夫でしょ?」

「やめてくれよ。これ以上なく気の抜けた課の人間だぞ。親父はずっと前から魂まで抜けきってるよ」

「あたしたちは、前のあんたも今のあんたも知っている。おそらくテッドも。自分を下げるのはやめなさい。お姉さんからの忠告よ」

「いつか、はっきりさせようぜ。俺とお前の年齢についてな」

 ドロシーは静かに笑っているが、わずかに憐みの視線があることが分かった。そんな目で見るなよ。俺が坊やと本当に思ってしまうじゃないか。



 ◇



「で、二か月もあの子を連れ回すんでしょう。どうするつもり?」

「何で知って……、いやまあいい、正直どうすればいいかわからない。ドロシーなら相談できるかと思ってね。助けてくれねぇか?」

「最初からそう言いなさいよ」


 ドロシーはヘイムから紙ナプキンを一枚もらい、細い鉛筆を走らせた。迷いのない線で、旧市街の略図ができていく。

「最初の二週は東区。市場、屋台街。商売人は基本的に人当たりがいいし、昼は目が多いから安全。ここで、旧市街の人間の暮らしと、あんたの普段の仕事を体験させることね。つまり町の雑用を」

 立派な仕事だろ、棘のある言い方だな。ドロシーは気にした様子もなく、鉛筆の先を北へ動かした。

「北の倉庫街は、今はだめ。どうしても見たいという希望が出れば、先に話を通すべきね」


「川沿いは」

「三週目から。あそこには、パールの孤児院があるでしょう」

 パール・ヒントン。孤児院の院長で、昔は衛生兵だった仲間だ。彼女なら安心だろう。誰にとっても癒しの存在だ。

「子どもたちと会わせなさい。そして、孤児院に関わる課の仕事を説明する」


「外縁の見回りはどうすれば? あれも一応は俺の仕事だけど、連れて行っていいもんかい?」

「連れて行けばいいわ。出るのは、せいぜい小物でしょう。あんたが横にいるなら、あの子にはいい経験よ。首席様に、一度実戦の空気を吸わせておきなさい」

 簡単に言ってくれる。だが、悪くない。少し怖い思いでもすれば、今後は勝手に護衛をまくような真似も減るかもしれない。


「夜はやはりだめだよな」

「夜は出歩かせない。といっても仕事は十八時まででしょ。暗くなったら、必ず家まで送り届けること」

「護衛は付いているんだろう?」

「推測だけど、インターンに護衛は付けないと思う」

「狙われてるのにか」

「テッドはもう、護衛をあまり信用してないんじゃないかしら。相手は屋敷の内側まで入り込んだ。それに、張りつけたところで、必要であればあの子はまくでしょう。どのみち、坊やなのよ」


「本当に勘弁してくれ。命を守るのは簡単じゃねえ。万が一負傷でもしたら? 俺が長官に殺されないか?」

「必死に命乞いするのね。外堀は埋まってるわ。やるしかないんじゃない?」

「ああ、嫌だ。本当に嫌だ。正直に言って自信がない。若いお嬢さんと今更話したい事もねぇよ」

「本音が混じってるわよ。とはいえ、旧市街にも影響のある話よ。前例もないから、あたしの商会も動かすわ。あらかじめ、手荒い連中にも話を通しておく。市場や屋台街での安全度は上がると思うわよ。たとえ誰かが手を出しても、多分返り討ちでしょうけど、念のためね」


「それは助かるが、おいくら払えばいいんだい?」

「六百ビトってとこね」

「なっ、そんな、それはねぇだろう。高すぎる。俺の給料じゃ破産する」

「坊やの安月給に合わせて、これでも負けてあげてるのよ。それとも実質一人でやれるの?」

「……経費で落ちる。落ちるのか? いや落とそう。トルーマンに相談するから、それらしい請求書をくれないか」


 ドロシーは、煙と一緒に鼻で笑った。

「市民生活部の部長が、裏街の護衛代にハンコを押すと思って? まあいいわ、エイブ商会の名前で、一応は書いてあげる。どうせ最初は屋台街を回るんでしょう。うちが研修を受け入れたことにすればいいわ。じゃあ九百ビトで出すわよ」

「値上げかよ! まあ、俺の金じゃないしいいか。後払いにしてくれるよな?」

「時間的に仕方がないわ。体で払ってくれてもいいのよ?」

「冗談でもよしてくれや。妹よ。商会のやつらに狙われる。俺の命が危ない」


 エイブ商会は、ドロシーの情報組織の表の顔だ。旧市街の市場や屋台の食料流通を担っている。最近は、新市街にも影響力を持ち出しているようだ。研修の受け入れ料なら、インターンの経費として筋は通る。本当に屋台街で荷運びの一つもさせれば、請求書に嘘もなくなる。俺は商会の若い衆に嫌われているので、あまり行きたくはないのだが。


 それにしても、と思う。オムラスのどこでも口にできない名前を、こいつは看板にして、毎日旧市街に掲げている。商会の名前なら、国も文句のつけようがない。意地か未練かは分からない。でも、その在り方を俺は好ましく感じている。ドロシーは、前を向いている、俺には少しそれが眩しかった。

 サムはナプキンを受け取り、丁寧に畳んで、調書の封筒にしまった。


「ドロシー・シャノン」

 ドロシーから笑みが消え、静かな目がこちらを見据えた。

「私はここに。サミュエル」

「本当にありがとう。俺一人じゃとても無理だった。いつも、助けられてる」


 ドロシーはグラスを持ち上げた。

「戦友に」

「ああ、戦友に」

 茶では気分が出ないだろうが、二人で杯を合わせて、飲み干した。


 しばらく、二人とも黙った。

 ヘイムが、ドロシーのグラスに琥珀色の酒を足した。サムの杯には、茶を足した。

 ドロシーの紙巻きから、甘く焦げた煙が細く立ちのぼる。


「その草、まだやめねぇのか」

「あんたの茶と同じよ」

「草は好きじゃないんだよ」

「どのみち、茶と草はあたしたちの印みたいなもんでしょ。こだわりなさんな」

「そら、分かってるけどよ」

「ふふっ。何よその口調。すねるんじゃないわよ。若いころを思い出した? それともあたしに甘えたい? 今夜だけならつきあうわよ」

「あのなぁ。俺はもうおっさんだ。何度言われても自分を守る」

「あら残念ね、じゃあ今日はヘイムにしとこうかしら」


 ヘイムがこちらを二度見した。阿呆が。後で嫁に言いつけてやる。

「ええっ! いいのか! 俺はいつでも……」

「冗談よ」


 葦火(あしび)の匂いは、あの男の背中を思い出させる。ドロシーはたぶん、葦牙の湯気の向こうに、死んだあの方の横顔を見ている。

 どちらも、その名前を口にしない。隊長は失踪し、副隊長は戦死した。


 国は、俺たちをなかったことにした。

 本来なら隊長の失踪は重罪で、俺たちも連座を免れないはずだった。だが処分は解散だけで終わり、代わりに一枚の紙が突きつけられた。第八軍団の名や情報を口にすれば処刑する、という誓約書だ。署名を拒んで国外へ追われた連中は、たぶんもう生きてはいない。俺たちは署名し、市井に散った。生き続けろ、鍛錬を怠るな――あの男が最後に残した言葉を、何のためかも分からないまま守って。


 生き残った他の軍団の連中は要職に就き、今のオムラスを動かしている。輝かしい戦勝の正史に、俺たちの名はない。名誉のために戦ったわけじゃないが、あの方の名前まで消されたことだけは、今も腹の底につかえている。


 話せるのは、せいぜい誰かの膝が笑っていたとか、くだらない昔話だけだ。最後に何が起きたのか、あの方は本当に死ぬべきだったのか。十年経った今も、誰一人そこに触れられない。同じ場所にいて、同じ人たちを失ったのに、傷の深さを確かめ合う言葉だけが見つからないままだ。


「……ねえ、坊や」

「あ、何だよ?」

「今年で、十年ね」

「……ああ、そうだな」


 それ以上、どちらも続けなかった。

 騒がしいはずの酒場で、ヘイムがグラスを拭く音だけが妙に大きく聞こえた。



 ◇



 サムが立ち上がって外套を取ったとき、ドロシーが言った。

「おまけを一つ。これはタダでいいわ」

「お前がタダで出す話は、大体ろくでもない」

「よくわかってるじゃない」


 ドロシーは、グラスの縁を指でなぞった。

「さっきの話。テッドへの揺さぶりってのは、あたしはどうも違う気がしてる」

「違う?」

「テッドを揺さぶりたいなら、もっと楽な手はいくらでもあるのよ」


 ドロシーは、煙の向こうからサムを見た。さっきまでの艶が、すっと引いていた。斥候の目だった。

「たぶん、母親ね」

「母親?」

「あの子の母親、誰も知らないでしょう」

「ああ。そもそも長官は戦時中から子供について公言してたじゃねぇか。テッドの娘で十分さ。誰も気にしてねぇよ」

「あんたらは能天気すぎるのよ」


 もう少し問い詰めるべきか? サムは、外套の袖に腕を通しながら逡巡した。

 やめた。ドロシーが言わないことは、言えないことだ。


 長官よ、あんたは俺に何を預けたんだ。娘を任せたよ、の一言で済む話じゃないだろう。畜生め。

 外は一月のオムラスらしく凍えるような寒さで、通りはうっすらと雪をかぶっていた。


 頭が痛いのは、寒さのせいだけじゃないな。


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