第一話 サミュエル・カルマンと面倒な仕事の依頼
東区の共同井戸は、三日前から腐った卵のような臭いをさせていた。
苦情を持ち込んだのは、井戸の脇で豆粥の屋台を出しているマーサ婆さんだった。
「サム、今度こそ何とかしておくれよ。粥が臭くちゃ、商売あがったりだ」
「わかってますよ。中を見てみます」
一月も末の朝で、吐く息が白い。サムは石蓋を少しずらし、井戸の口に垂れた鎖をたぐった。引き上げた鉄の籠から、指が痺れるほど冷たい水がしたたる。
籠の中の浄水コアは、拳ほどの白い結晶だ。本来なら水に浸かったまま淡く光り、溜まった濁りを吸い上げてくれる。指先で触れると、ぬるりと藻の感触がした。光はほとんど残っていない。
第五等級。二か月もてばいいほうだ。人の手で去勢されたコアは、傷んでも自分じゃ直らない。
そのとき、蓋の裏で、何かがかりかりと石を掻いた。
サムは籠を縁に置き、手を止めた。屋台の前で粥をすすっていた子どもたちが、何事かと集まってくる。
「下がってて。マーサさん、鍋の火、落としといてください」
石蓋を大きくずらすと、井戸の口に近い内壁に、鼠ほどの大きさのものが張りついていた。
背中を灰色の石の殻が覆い、殻の継ぎ目から青い光がちろちろと漏れている。弱りかけたコアの力を齧りに来たのだろう。ヴァーレの中でも小さな、「石齧り」だ。
昔は、人の気配がすれば逃げていったもんだ。戦争が終わってからは、こういうヴァーレも人を見れば襲いに来る。大人なら棒きれで追い払えるが、子どもの指なら一本くらい平気で持っていくだろう。
「うわ、ヴァーレだ!」
「でけえ!」
「やかましい。下がってって言ったろ」
慌てて子どもたちは下がっていった。素直でよろしい。
サムは左の掌を上に向けた。手甲にはめた安物のコアが、鈍く光る。手のひらの上で、薄い円盤がひとつ、くるりと形を結ぶ。銀貨ほどの大きさで、縁が青白く光っている。
その光に、石齧りが反応した。殻をきしませて内壁を蹴り、まっすぐサムの顔めがけて跳んでくる。
サムは親指で円盤を弾いた。
円盤は、宙を跳んでくる石齧りの、殻の継ぎ目を正面から捉えた。
乾いた音がして、殻が二つに割れ、円盤はそのまま消えた。青い核が、ころりと石畳に転がる。
子どもたちが、わっと声を上げる。
サムは核を拾い、割れた殻と一緒に布にくるんだ。
「すげえ、今のなに!?」
「どうやったの、サム!」
「できるようになりたきゃ、道場へ行きな。……マーサさん、しばらく井戸の水は煮立ててから使ってください。コアの交換は、また申請を出しますから」
「頼むよ、サム。あんたが世話を焼いてくれてることは分かってるさ。まあ食っていきな」
マーサ婆さんは呆れたように笑い、欠けた椀に粥をよそってサムに押しつけた。塩漬けの豚の脂が浮いていて、刻んだ葱がたっぷり散らしてある。
悪くはない味だ。独り身には胃に沁みた。
◇
旧市街生活安全課は、首都治安維持省の庁舎のいちばん奥、もとは備品倉庫だった部屋にある。
窓はひとつ。西向きで、午前中はほとんど日が入らない。机は二つで、課長の机と主任の机。課員はその二人で全部だ。
省内の会議でこの課の名前が出ると、たいてい誰かが少し顔を曇らせる。サムもそれは十分に知っている。まあいいさ、これが今の仕事だ。
戻ると、課長のスコットは椅子の背にもたれて目を閉じていた。この人は、大体一日をこれで過ごす。
「戻りました。東区の井戸、去勢コアの限界です。ついでに石齧りが一匹いたので、片付けておきました」
返事はない。
ため息をついて席に着くと、机の上では、出がけに淹れた葦牙茶がすっかり冷めていた。窓際の給料には見合わない茶だが、どうしてもやめられない。
サムは布の包みをほどき、割れた殻と核を証拠品の箱に入れ、報告書の用紙を引き寄せた。
「サム坊」
目を閉じたまま、スコットが言った。
「部長がお呼びだ」
「課長をお呼びなんじゃないんですか」
「わしは寝とる。お前が行け」
「起きてるじゃないですか」
「寝とる」
スコットはそれ以上何も言わず、口の端だけで笑った。
サムは小さく息をつき、報告書を後回しにして立ち上がった。
扉の前で、踵に井戸の泥がこびりついているのに気づいた。部長は神経質だ。落としていくべきか。
いや、面倒だ。何か言われたら、現場帰りの証拠だと言えばいい。
◇
市民生活部の部長室は、庁舎最上階の三階、日当たりのいい角部屋にある。
「失礼します。旧市街生活安全課のカルマンです」
「どうぞ」
一月だというのに、部長室は相変わらず明るい。
トルーマン・チューリングは、窓を背にした大きな机の向こうで書類に目を落としていた。金のかかった仕立ての上着に、皺ひとつない襟。部屋には塵ひとつ落ちていない。
トルーマンは顔を上げ、まずサムの足元を見た。視線はしばらく、そこから動かなかった。
減点だな。言い訳は後で考えよう。
「お呼び立てしてすみません、カルマン主任。どうぞ、お掛けください」
「いえ、このままで。長居をすると、絨毯を汚しますから」
「……そうですか」
トルーマンはようやく視線をサムの顔に移した。そして、机の端の書類を一枚、指先でこちらへ滑らせた。割られた封蝋は青。上からの書類か。
「単刀直入に申し上げます。来週から三月末までの二か月、情報庁長官ホッパー閣下のご令嬢を、市民生活部でインターンとしてお預かりすることになりました」
「大学に入る前のインターンなら、軍務省では?」
「ご本人がどうしても治安維持省の現場を見たいとおっしゃったそうで」
トルーマンは、そこで初めて小さくため息をついた。
若いのに、ひどい隈だ。髪も襟も隙がないのに、目の下だけが三日徹夜したような色をしている。実際、しているのかもしれない。上に立つのも楽じゃない。
「ご存じのとおり、霊災対策課は今、境界防衛部の応援で外壁沿いに駆り出されています。先月から、城壁の内側に入り込むヴァーレが目に見えて増えている。人も足りない、去勢コアも足りない」
トルーマンは指先で机を一度叩いた。
「軍務省に回してくれと頼んでも、派遣部隊が優先だと言われて終わりです。そこへ長官のお嬢さんを連れて、ヴァーレの巣に潜れとでも? 万が一のことがあれば、私の首ひとつでは済みません」
「存じておりますし、理解もできますよ」
「旧市街課でしたら、命の危険はまずありません。市井の暮らしをご覧いただくには、これ以上の場所もない。お嬢さんのご希望にも沿えます」
サムはすぐには答えなかった。
井戸の石齧りが頭をよぎった。増えているのは外だけじゃない。
「部長。旧市街は、部長が思っておられるほど安全な場所じゃありません」
「承知しています。ですから、安全な場所だけをご案内いただければ結構です」
「それに、うちは課長と私の二人きりです。私が長官のお嬢さんに付きっきりになれば、そのあいだ東区の苦情も、北の倉庫街の密売も、誰も見られません」
「スコット課長がいるでしょう。……いや、申し訳ありません。愚問でしたね」
「ご理解痛み入ります。それと――」サムは少し言い淀んだ。「私はもう、いい歳ですから。お嬢さんも、もっとお若い方に案内されたほうが、気が楽なんじゃないかと」
トルーマンは目を細めた。
「あなたが断れば、この話は部長預かりになります。私は書類と戦うのが今の主な仕事です。つまり、お嬢さんは私の隣で書類の山を眺めて二か月を過ごすことになる。どうなると思います?」
「それは、部長のご都合では」
「ええ、私の都合です。しかし、今回は私の都合を通させてもらいたい。切実に」
無理もない。ヴァーレの活性化は今に始まったことではないが、ここ最近は目に見えて増えている。若い部長の仕事も、それに比例して積み上がっているのだろう。
だが、こちらにも事情がある。二人きりの課で、いや実質一人で、何ができる。
もう一歩踏み込んで断ろうと、サムが口を開きかけた時、それを制するようにトルーマンは引き出しを開けた。取り出したのは、薄い紙の束だった。一番上の申請書の余白に、トルーマンの細い字で「審議後、第五等級にて対応」とあり、その下に日付が五つ並んでいる。
「東区共同井戸、浄水コアの第三等級への交換申請。これまでに五回」
サムは思わず、トルーマンの顔を見た。
「五回とも予算超過で第五等級への交換で処理されています」トルーマンは紙の束を机の上でとんと揃え、サムの方へ差し出した。「お嬢さんを引き受けていただけるなら、これを私の権限で通しましょう。第三等級のものを、来月中に」
第三等級。第五等級の安物とは桁の違う代物だ。あれなら東区の井戸は当分臭わない。マーサ婆さんの苦情も、月に一度の恒例行事ではなくなる。
課にとっては、悪くない取引だ。それでも、もう一押しはしておきたい。
「最悪、スコット課長の横で寝てるだけでも良いですね?」
トルーマンの眉が、わずかに動いた。
「……その場合、責任はスコット課長に取っていただきます。それは、あなたの本意ではないでしょう」
「暇な部署とお考えでしょうが、私に出来ることしかできませんよ。それでよろしければお引き受けします」
「いいでしょう。できる限り、私の顔を立ててくれますね? 普段は暇でも給料を差し上げているんですから。今回ばかりは、働いてもらいます」
「いや、私どももきちんと業務はし……」
トルーマンの声の調子が、ふっと緩んだ。
「いや、よかった。私が着任してから、旧市街課にお願いする初めての大仕事ですね」
「着任されて、もう二年になりますが」
トルーマンは何度も頷き、肩の力を抜いた。よほど気が重かったのだろう。無理もない。
「お名前は、メグ・ホッパー嬢。来週の金曜に、旧市街課へ直接伺うそうです」
来週の金曜か。少しは対策を練れそうだ。
「承知しました。では、失礼いたします」
「ああ、主任。くれぐれも、その靴では出迎えないでくださいね」
◇
部長室を出て階段を降りかけたところで、呼び止められた。
「カルマン主任でいらっしゃいますか」
黒い制服の若い男だった。胸に情報庁の徽章がついている。
「長官が、お会いしたいと」
サムはさっき減点された踵の泥を見下ろした。まあ、あの長官なら靴のことは気にしないだろう。
情報庁の長官室は、治安維持省の庁舎とは通りを一本隔てた、古い石造りの建物の最上階にあった。
偉い人間は、どうしてこう上の階を好むのか。上る側の身にもなってほしい。
扉が開くなり、甲高い声が飛んできた。
「やあやあ、坊や! 久しぶりだねえ、本当に久しぶり! 座って座って。そこの焼き菓子、食べていいよ。南の国境の向こうから仕入れた蜂蜜の焼き菓子でね、これがまた絶品なんだ。絶品なんだよ、本当に」
テッド・ホッパーは、四十六という歳がとても信じられない顔で笑っていた。金髪に、少年のような丸い目。初めて会った者はたいてい、長官の息子か何かだと勘違いする。長い付き合いの者でさえ、この人は年を取らないのかと、ときどき本気で疑う。
「お久しぶりです、長官。……その呼び方は、そろそろ勘弁してもらえませんか」
「えー、なんでさ。坊やは坊やでしょ? ねえ、坊やでしょ?」
坊や。役立たずの新兵。そう呼んで笑っていた先輩たちは、もうほとんど残っていない。四十になった今でも、その呼び方をやめない人間は、まあ貴重だろうな、とサムは苦笑して座った。
「娘のこと、引き受けてくれたんだってね。いやあ、ありがとう。うちのメグは本当に可愛いんだ。頭もいい。首席だよ、首席。ちょっとばかり無鉄砲なところがあるけど、そこもまた可愛くてね。可愛いと思わない? ねえ、思わない?」
「まだお会いしたこともありませんので」
「会えばわかるよ。会えばわかるって」
「長官。私、まだ部長室を出て十分も経っていないんですが」
「そうだね」
「盗聴してましたか?」
「やだなあ、君に受けさせると確信してただけだよ。凄いでしょ僕」
テッドは悪びれもせずに笑った。
「トルーマン君は、何か条件を出したかい?」
「……浄水コアの予算を」
「旧市街課の予算は限られてるからねぇ。いい交換条件じゃないか? 脅されるよりいいよね? ね? よろしくね?」
「脅された気もしますが。……まあ、いいですよ。それで、わざわざ私を呼び出してまで、念押しされる理由が見当たらないのですが、何か娘さんに特別な問題が?」
テッドは焼き菓子をひとつ摘まんで口に放り込み、指についた蜂蜜を舐めた。それから、ふと窓の外へ目をやった。
「僕は知ってるから。坊やを」
軽い口ぶりだった。窓の外を見たまま、テッドは続けた。
「とにかく、とにかくね、任せたよ。」
サムは返事をしなかった。
「……裏がありますね」
「何を言ってるのさ。君を信頼してるだけだよ。ハハハー」
テッドがぱんと手を叩いた。
「さ、話はおしまい! 焼き菓子、包んであげるよ。スコット様にも持っていってあげて。あの人、ああ見えて甘いものに目がないから。目がないんだよ、本当に」
◇
課に戻ると、日はもう西の窓の低いところまで傾いていた。
スコットは、出ていったときと同じ姿勢で目を閉じていた。サムは焼き菓子の包みを課長の机の端に置き、自分の椅子に腰を下ろした。
机の上には、朝の茶がそのまま残っていた。
冷めきった葦牙茶を、一息に飲み干す。渋い。淹れ直す気にもならなかった。
「菓子か?」
目を閉じたまま、スコットが言った。
毎日寝たふりばかりで、よく何年も飽きませんね、と言いかけて、やめた。代わりに報告書の用紙を引き寄せる。東区共同井戸。石齧り、一体。浄水コア交換申請、六回目。
六、と書いたところで、ペンが止まった。
今度は、通るのか。
……いや、待て。話が美味すぎる。
五回も格下げで済ませてきた部長が、あっさり第三等級を差し出した。情報庁の長官は、焼き菓子まで用意して待っていた。どう考えてもおかしい。
もしや令嬢の再教育か。わざわざ市井を見たいなど、普通の令嬢の発想ではない。長官が無理やり命令しているとしたら? かなり嫌々か、高圧的なタイプかもしれない。高級コア持ちを快く思わない旧市街の連中は多い。
間に入った俺は、生き残れるのか。
精神的に。




