敵国の空
第二部突入です!
アストラ共和国へ入った瞬間、シオンが最初に感じたのは“臭い”だった。
鉄。
油。
湿った土。
レヴァニアとは違う空気。
国境地下輸送路を抜け、廃棄区域へ出る。
同行していた案内役の男が低い声で言った。
「ここから先はお前一人だ」
男は顔認証用端末をシオンへ渡す。
「偽造市民ID。職業は浄水設備保守員」
「了解」
「任務は分かってるな」
シオンは頷く。
地下水脈制御施設への潜入。
内部情報の収集。
必要であれば破壊工作。
そして最終的には、アストラの送水システムを機能停止へ追い込む。
成功すれば、レヴァニア軍が国境戦線を大きく押し上げられる。
祖国のため。
その言葉を頭の中で繰り返す。
男は最後に言った。
「敵を人間だと思うな」
聞き慣れた言葉だった。
シオンは無言で頷き、廃棄区域を抜ける。
アストラ共和国第七居住区。
そこはレヴァニアの教育映像とはまるで違っていた。
もっと荒廃し、暴力に満ちた場所を想像していた。
だが実際には、人々は普通に生活していた。
市場。
露店。
走り回る子ども。
古びた音楽。
人々の笑い声。
もちろん豊かではない。
建物は古く、配水設備も不安定だ。
それでも、人間が生きていた。
シオンは雑踏を歩く。
視界の端ではスマートコンタクトが周囲情報を解析していた。
《監視カメラ:6基》 《警備ドローン巡回間隔:4分》
無意識に情報整理している自分へ気づく。
訓練が身体へ染みついていた。
広場では移動劇団が公演をしていた。
演目は戦争劇。
レヴァニア兵が悪役として描かれている。
『水を奪った侵略者を許すな!』
観客が拍手する。
シオンは足を止めた。
違和感。
レヴァニアでは、アストラこそ侵略者として教えられていた。
だがここでは逆だ。
皆、本気でレヴァニアを憎んでいる。
自分たちと同じように。
その時だった。
広場の端で、小さな少年が転ぶ。
抱えていた水タンクが地面へ落ちた。
わずかな水が流れ出す。
「あ……」
少年の顔が青ざめる。
周囲の大人たちも息を呑んだ。
水は貴重だった。
シオンは反射的に駆け寄る。
タンクを起こす。
だが中身は半分近く流れてしまっていた。
少年の目に涙が浮かぶ。
「ご、ごめんなさい……」
震える声。
その瞬間、シオンの脳裏へ昔の記憶がよぎる。
幼い頃。
自分も同じように配給水をこぼしたことがあった。
母は怒らなかった。
ただ静かに、少し困ったような顔をした。
『今日は少し我慢しましょうか』
その記憶が妙に鮮明に蘇る。
「大丈夫?」
声がした。
振り向く。
一人の少女が少年へ駆け寄ってきた。
二十歳前後だろうか。
黒髪を後ろで束ねている。
作業服姿。
首元には浄水施設職員証。
少女はしゃがみ込み、少年へ笑いかけた。
「怒られたりしないよ。ね?」
柔らかい声だった。
少年は泣きそうな顔で頷く。
少女はその後、ようやくシオンへ視線を向けた。
「あ、ありがとう」
「別に」
短く返す。
少女は少し不思議そうにシオンを見る。
「新しく来た人?」
一瞬、シオンの神経が緊張した。
だが表情には出さない。
「保守区から来た」
「あー、だから訛り違うんだ」
危なかった。
シオンは内心で冷静に呼吸を整える。
少女は笑った。
「私はミナ。浄水施設で働いてる」
その名前を聞いた瞬間、シオンのコンタクトが小さく反応する。
《施設関係者認識》 《接触推奨》
任務的には好都合だった。
内部関係者
情報源になる。
だがシオンは、なぜか少しだけ戸惑っていた。
目の前の少女が、“敵”に見えなかったからだ。
ミナは立ち上がる。
「あなた、名前は?」
一瞬の間。
シオンは偽名を口にした。
「シド」
「へえ、よろしくシド」
ミナは自然に笑った。
その笑顔へ、シオンは妙な違和感を覚える。
敵国民。
そう教わってきた。
冷酷で野蛮な侵略者。
レヴァニアから水を奪おうとする存在。
だが目の前にいるのは、ただ笑う普通の少女だった。
その時。
空襲警報が鳴り響いた。
甲高いサイレン。
広場の空気が一瞬で変わる。
「地下へ!」
「急げ!」
人々が一斉に走り始める。
子どもを抱える母親。
荷物を放り出す商人。
警備兵の怒鳴り声。
シオンは反射的に空を見上げた。
遠く。
雲の向こう。
小さな光点。
軍用爆撃ドローン。
レヴァニア軍の機体だった。
ミナが叫ぶ。
「シド、早く!」
彼女はシオンの手首を掴む。
温かかった。
一瞬。
シオンの身体が硬直する。
敵国民に触れられた。
そのはずなのに。
なぜか嫌悪感はなかった。
地下シェルターへ駆け込む。
直後。
地上で爆発音が響いた。
空気が揺れる。
子どもが泣き叫ぶ。
照明が点滅する。
シオンは無意識に拳を握っていた。
レヴァニア軍の攻撃。
祖国の爆撃。
今まで何度も映像で見てきた。
だが実際に“爆撃される側”へ立ったのは初めてだった。
シェルターの隅で、小さな少女が震えている。
母親が必死に抱き締めていた。
「大丈夫、大丈夫だから……」
その声を聞きながら、シオンは静かに目を伏せる。
なぜだろう。
胸の奥が、少しだけ重かった。
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