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牙城崩壊  作者: 生電社
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六 総帥からの密命

2025年11月。


菱型製作所の経営は、表面上は大きな問題もなく動いているように見えた。受注は一定の水準を保ち、工場は日々の生産を続けている。取引先との関係も、すぐに破綻するような兆候はなかった。


しかし、その内側では、組織の疲弊が深刻なところまで進んでいた。


藤原が業務部長として権限を拡大し、さらに総括部長という肩書を得てから、社内の意思決定は次第に藤原の意向を中心に回るようになっていた。製造部門と技術部門の責任者は、藤原の考えに異を唱えることを避け、会議では本音を語らなくなった。現場の社員たちは、何を改善すべきかよりも、誰の機嫌を損ねないようにするかを先に考えるようになっていた。


小木社長も、その状況を知らなかったわけではない。


むしろ、近くで藤原を見てきた小木には、彼の能力に限界があることも、組織が藤原を中心に歪んでいくことも分かっていた。以前から「彼に製造を見ることはできない」と周囲に漏らしていたこともある。


それでも、小木は決断を先送りにしてきた。


藤原を重用したのは小木自身だった。藤原を使えば、面倒な社員管理を任せられる。自分が直接嫌われることなく、社内の不満や対立を藤原に引き受けさせることができる。そう考えていた時期もあった。


だが、いつの間にか藤原は、小木が扱える範囲を超えた存在になっていた。


社内では、藤原の意向に反する者が配置転換され、発言力を失い、やがて会社を去っていった。長年現場を支えてきた中堅社員も、藤原のやり方に嫌気が差して退職していた。十年ほどの間に、会社の中核を担うはずだった中堅社員が六十人以上も辞めている。


残った社員の中には、藤原に従うことで自分の立場を守っている者もいた。しかし、彼らが会社全体の将来を考えて行動しているわけではなかった。藤原の意向を読み、反論せず、与えられた仕事だけをこなす。そうした人間が組織の中に増えていった。


小木は、このままではいけないと感じていた。


その頃、小木のもとに一本の電話が入った。


相手は、グループ全体を束ねる高山オーナー、社内で総帥と呼ばれる人物だった。


「小木さん、今度、川上さんと一緒に食事でもしませんか」


突然の誘いだった。


小木は一瞬、言葉に詰まった。総帥から直接声を掛けられること自体、そう頻繁にあることではない。しかも、川上を同席させてほしいという。


「ありがとうございます。ぜひ、よろしくお願いいたします」


小木は丁寧に返事をした。


電話を切った後、小木はしばらくスマートフォンを持ったまま考え込んでいた。


総帥は、なぜ今になって川上を交えた食事を求めてきたのか。菱型製作所の状況をどこまで把握しているのか。藤原のことを知っているのか。


いくつもの疑問が頭に浮かんだ。


小木は川上に連絡を入れ、総帥から食事の誘いがあったことを伝えた。


川上は、少し驚いた様子だった。


「私も同席するのですか」


「そうです。総帥が川上さんも一緒に、とおっしゃっています」


「分かりました。では、予定を調整します」


電話を終えた川上は、しばらく考え込んだ。


川上は本社に通い始めてから、藤原を中心とする組織の問題を見続けてきた。小木が何を考えているのか、藤原をどうしたいのか、まだ明確には分からない部分も多かった。しかし、小木が自分を総帥との会食に同席させるということは、単なる食事ではない可能性が高い。


数日後、三人は横浜中華街の店で顔を合わせた。


約束の時間より少し早く到着した小木と川上は、店に向かう前に中華街の通りを歩いた。


かつての中華街は、休日ともなれば大勢の観光客であふれていた。店先で買った肉まんや小籠包、串焼きなどを手にした人々が、食べ歩きを楽しみながら通りを練り歩く。歩道は人で埋まり、店の前には長い行列ができていた。観光客を呼び込もうとする店員の声や、呼び込みの声があちこちから聞こえ、街全体が活気に満ちていた。


ところが、今の中華街は、以前とは明らかに様子が違っていた。


コロナ禍を境に観光客は大きく減り、かつてのように人波が途切れず続く光景は見られなくなっていた。店先で食べ物を買い、楽しそうに食べ歩く人々の姿も少なくなっている。通りには人影がまばらな場所もあり、以前の賑わいを知る者にとっては、どこか寂しさを感じさせる風景だった。


もう一つ変わったことがあった。


以前は、店の前に立った店員が通行人に声を掛け、時には半ば強引に店へ誘導するような客引きも目立っていた。観光客が歩いていると、次々に声を掛けられ、落ち着いて通りを歩けないことさえあった。


しかし、今ではそうした強引な客引きもほとんど見られなくなっていた。


店の前に立つ人はいても、以前のように通行人を捕まえるような声掛けはない。通りを歩く人々も、客引きを避けながら進む必要がなくなっていた。街は以前より静かになり、整然とした印象さえあったが、それは同時に、かつての中華街が持っていた独特の熱気が薄れたことも意味していた。


川上は、通りを眺めながら言った。


「以前は、もっと人が多かったですね」


「そうですね。歩くのも大変なくらいでしたからね」


小木は答えた。


「店の前で呼び止められることも、ずいぶん減りましたね」


「ええ。街の様子も変わりました」


二人は、そんな話を交わしながら予約した店へ向かった。


街の変化を見ていると、かつての活気が失われたことがよく分かった。人が減り、客引きもなくなり、通りは歩きやすくなった。しかし、単に静かになっただけでは、以前の賑わいが戻ったとはいえない。


小木は、ふと自分の会社のことを考えた。


菱型製作所も同じではないか。


外から見れば、工場は稼働し、社員は働き、会社は存続している。だが、以前のような活気は失われている。人が減り、社員の意欲が薄れ、組織の中から活力が消えている。


見た目だけを整えても、かつての力は戻らない。


そんな思いが、小木の頭をよぎった。


店に入ると、総帥はすでに到着していた。


三人は挨拶を交わし、席に着いた。


総帥は、終始穏やかな表情だった。世間話を交えながら食事が進み、菱型製作所の業績や取引先の状況について話題が及んだ。


小木は、総帥の出方をうかがっていた。


やがて食事が一段落すると、総帥は少し声の調子を変えた。


「菱型製作所のことですが、今のままではいけませんね」


小木と川上は、黙って総帥の言葉を待った。


「藤原さんのことです。あの人を、いつまでも今の立場に置いておくわけにはいかないでしょう」


小木は、思わず川上の方を見た。


総帥は続けた。


「藤原さんには、菱型製作所から出てもらう方向で考えてください。会社の中に置いたままでは、組織を変えることはできない。別のグループ会社への異動も含めて、受け入れ先を探してほしい」


その言葉は、小木にとって予想していた以上に明確なものだった。


藤原を外す。


それは、これまで小木が自分の判断だけでは踏み切れなかった決断だった。社内で藤原の影響力が強くなりすぎていたこともある。藤原を引き上げてきた経緯を考えれば、本人の反発も予想できる。何より、藤原を外した後に誰が組織を動かすのかという問題があった。


総帥は、その点にも触れた。


「来期からは、川上さんに社長をお願いしたいと思っています」


川上は、すぐには返事をしなかった。


自分が社長になるという話は、これまで具体的に聞かされていなかったわけではない。しかし、総帥本人から直接言われるのは初めてだった。


「私でよろしいのでしょうか」


「川上さんには、これまでの経験があります。今の菱型製作所に必要なのは、そういう経験を持った人です」


総帥は小木にも視線を向けた。


「小木さんには、そこまでの道筋をつけてほしい。藤原さんの処遇を決め、川上さんが社長として会社を動かせるようにする。今の組織をそのまま引き継いでも、何も変わりませんから」


小木は、深くうなずいた。


「承知しました。何とか進めてまいります」


その場で決まったことは、単なる役職の交代ではなかった。


藤原を菱型製作所から外し、川上を新たな社長に据える。藤原が築いてきた社内の権力構造を解体し、会社の運営そのものを変えるという、事実上の経営体制の刷新だった。


帰り道、小木と川上は、すぐには言葉を交わさなかった。


総帥の指示は明確だった。しかし、実行するとなれば簡単ではない。


藤原をどこへ異動させるのか。誰がその受け入れを認めるのか。藤原の側近たちはどう動くのか。そして、藤原がいなくなった後、実際に会社を立て直す人材は残っているのか。


小木は、総帥の前では力強く返事をしたものの、現実の難しさを改めて感じていた。


「これからが大変ですね」


川上が口を開いた。


「そうですね。まずは藤原の行き先を何とかしなければなりません」


「行き先が決まらなければ、社内の人事も動かせませんね」


「ええ。総帥から言われた以上、やらなければならない」


小木はそう答えた。


しかし、その声には、決断を下した者の確信というより、これから始まる難題を前にした不安がにじんでいた。


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