五 牙城に差し込む亀裂
2024年1月。川上は本社工場へ通い始めた。
川崎出張所を任されていた川上にとって、本社工場は決して未知の場所ではなかった。しかし、これまで本社の組織運営に深く関わることはなかった。社内の人間関係や各部門の力関係についても、断片的な情報しか持っていなかった。
実際に本社へ足を運び、工場の中を歩き、社員たちと接するようになって、川上はその実態に驚かされた。
そこで彼が目にしたのは、想像を超える光景だった。
社員たちの士気は著しく低く、職場には長く積み重なった不満と停滞感が漂っていた。現場を支えるべき規律や緊張感は薄れ、組織の隅々にまで、いびつな運営が根を張っているように見えた。
工場の設備は稼働している。作業者はそれぞれの持ち場で仕事をしている。プレス工程では材料が加工され、溶接工程では製品が組み上がり、塗装工程を経て出荷へと向かっていく。
外から見れば、いつもどおりの工場だった。
しかし、川上には、その表面だけでは分からない問題が見えていた。
現場の管理者が、自分の判断で物事を進めようとしない。何か問題が起きても、まず上司の顔色をうかがう。部門間で調整すべきことも、誰かが責任を持って決めることを避けている。
社員たちは、仕事そのものに集中するよりも、誰に報告すればよいのか、誰の許可を得ればよいのかを気にしているようだった。
川上は、何人かの社員と話をした。
最初は、誰も積極的に本音を話そうとはしなかった。
川上が社長に招かれた人物であることは分かっている。しかし、藤原との関係がどうなっているのかは分からない。ここで余計なことを話せば、自分の立場が悪くなるかもしれない。
そんな警戒心が、社員たちの表情に表れていた。
川上は無理に聞き出そうとはしなかった。自分が何をしに来たのか、まずは理解してもらう必要があると考えた。
「私は、現場の状況を知りたいだけです。今すぐ何かを変えるという話ではありません。実際に働いている皆さんがどう感じているのかを聞きたいんです」
そう伝えながら、少しずつ話を聞いていった。
すると、社員たちの口から出てくるのは、藤原に対する不満だった。
人事異動の理由が分からない。現場の事情を考えない生産計画が出される。専門的な説明をしても理解してもらえない。会議では強い口調で責められ、反対意見を出すと面倒な扱いを受ける。
それらは、一度や二度の出来事ではなかった。
長い時間をかけて積み重なった不満だった。
川上は、驚きを隠せなかった。
かつて自動車メーカーの国内外の工場で、立ち上げや再建の修羅場をくぐり抜けてきた彼にとって、本社工場の姿は看過できるものではなかった。
製造業において、現場の人間が自分の仕事に誇りを持てなくなれば、組織は確実に弱くなる。管理職が判断を避け、社員が意見を言わなくなれば、問題は表面化しなくなるだけで、決して解決することはない。
川上には、それが分かっていた。
そして、その原因の中心に藤原がいることも、少しずつ見えてきた。
藤原は、業務部長として人事や総務などを掌握し、総括部長として各部門に指示を出す立場にあった。だが、製造現場の経験は乏しい。にもかかわらず、現場の判断にまで口を出し、自分の考えを優先させていた。
本来であれば、製造部門の管理者が責任を持って判断すべきことも、藤原の意向を確認しなければ進まない。現場の実態を知らない人間が、現場の判断に大きな影響力を持つ。その構造そのものが、組織の歪みを生んでいた。
川上は、すぐに何かを変えようとはしなかった。
本社工場に来たばかりの自分が、いきなり藤原に正面から意見をすれば、かえって組織を混乱させる可能性がある。小木社長との関係もある。川上には、取締役という肩書きこそあったが、本社の人事や業務を直接動かす権限が十分に与えられているわけではなかった。
何より、川上自身の体調にも不安があった。
心臓の手術を経験しており、無理をすれば身体に負担がかかる。長時間の勤務や過度なストレスを避けながら、限られた時間で状況を把握していく必要があった。
それでも、川上は内心で思っていた。
この会社は、どこかで変えなければならない。
小木社長が自分を本社に呼んだ理由も、単に工場の状況を見てほしいというだけではないはずだった。藤原の行き過ぎた権限を抑え、社員たちが本来の仕事に集中できる組織に戻すこと。それが社長の本当の期待なのだろう。
一方で、川上は小木の決断力にも疑問を感じ始めていた。
社長は藤原の問題を認識している。だからこそ、自分を本社に呼んだのだろう。しかし、藤原の権限をどこまで整理するつもりなのか。具体的に何を変えようとしているのか。その方針は、まだ明確には見えていなかった。
川上は、焦らずに状況を見極めることにした。
本社工場の社員たちも、川上の存在を少しずつ意識し始めていた。
これまで、藤原の意向が強く反映される社内では、誰もが自分の立場を守ることを優先していた。意見を述べても変わらない。反対すれば不利益を受ける。そうした空気が長く続いていた。
そこへ、外部の大手自動車メーカーで経験を積んだ川上が現れた。
彼が本当に会社を変えられるのかは、まだ分からない。
しかし、少なくとも、現場の声を聞こうとする人物が本社に来たことは、それまでとは違う変化だった。
藤原を中心に築かれてきた社内の力関係。その均衡に、外から新たな視線が差し込んだ。
長く揺るがないように見えた牙城に、初めて亀裂が走ろうとしていた。
その亀裂が、やがてどこまで広がるのか。
この時点では、まだ誰にも分からなかった。




