第21話 現代を守っているのです
「その方が、彼女が自分の名前で立てるからです」
俺がそう答えると、御堂真白のペンが止まった。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
彼女は顔を上げる。
「自分の名前で立てる、とは」
「現行の歴史では、織田信長は男性の戦国大名です。革新的で、苛烈で、本能寺で死んだ天下人として記録されています」
「はい。それが現行修正史における安定した認識です」
「でも、その認識の中に、今ここにいる信長さんはいません」
御堂は、信長を見る。
信長は腕を組み、椅子に深く座っていた。
まるで自分の城の広間にでもいるような態度だ。
会議室Bなのに。
「この人は、女性で、半妖で、猫耳があって」
「猫耳は重要か?」
信長が聞く。
「重要です」
黒川さんが即答した。
「シルエットに関わります」
「そこか」
御堂は表情を変えなかった。
ただ、淡々と記録する。
「猫耳。シルエット上重要」
「記録するんですね」
「監査ですので」
俺は咳払いして続けた。
「とにかく、俺たちが猫耳半妖の信長を書いたのは、最初は売れると思ったからです」
「認めるのですね」
「認めます」
御堂の視線が少し鋭くなる。
「では、貴社の表現は、歴史的真実の探究ではなく、商業的価値を優先した創作物であると」
「最初は、そうです」
「最初は」
「はい」
俺は、信長を見た。
「でも、信長さんが現れて、俺たちが作ったものがただの盛った設定じゃないとわかった。少なくとも、彼女の本来の姿や、彼女が奪われたものに触れていた」
御堂は、すぐには答えなかった。
黒いファイルに視線を落とす。
「宮田春樹様。あなたは“本来の姿”という言葉を使いましたが、本来史の完全復元を目的としているのですか」
「いいえ」
俺は即答した。
これは、何度も考えたところだった。
「本来史をそのまま戻したいわけじゃありません」
「なぜですか」
「危ないからです」
御堂の目が、ほんの少し細くなる。
「理解しているのですね」
「ジャンヌさんから聞きました。本来史は、現代人が思っているような合理的な歴史じゃない。神話や異能や妖魔や偉人の力が混ざった、かなり危険な世界だった」
「はい」
御堂は、初めて明確に頷いた。
「本来史は、あなた方が想像している以上に危険です」
その声は、責めるものではなかった。
説明する声だった。
「本来史において、英雄は記録上の人物ではありません。国家を超え、時代を超え、神話と接続し、現実の因果に干渉する存在です。彼らの認識が現代に流れ込めば、社会制度、宗教、科学、家系、国家史、教育、法体系、そのすべてが揺らぎます」
佐伯さんの顔が、少し青くなった。
「法体系まで」
「はい」
「それは、まあ、困りますね」
「困ります」
御堂は淡々と続ける。
「信長様が女性であったと大衆認識が定着した場合、歴史教育が変わるだけではありません。織田家、戦国大名間の婚姻関係、血統、同時代記録、肖像、史料、研究、観光、地方自治体の文化事業、関連作品、すべてに波及します」
「地方自治体まで」
佐伯さんが胃を押さえた。
「関係者が多い」
「歴史は関係者が多いのです」
御堂は、まるで当たり前のことのように言った。
「さらに、信長様が半妖であったと認識されれば、人類史における異種存在の扱いが発生します。猫耳が本物であったと認識されれば、生物学および民俗学の体系にも影響します」
信長が不満そうに言う。
「私の耳で学問が揺らぐのか」
「揺らぎます」
「弱い学問だな」
「学問ではなく、前提が変わるのです」
光秀が静かに補足した。
「信長様」
「何だ」
「現代社会は、信長様が思うよりも、記録と前提の積み重ねで成立しています」
「だから私を記録に戻せと?」
御堂は信長をまっすぐ見た。
「はい」
即答だった。
会議室の空気が止まる。
「織田信長様。あなたが記録の中に戻れば、現代社会は安定します」
御堂の声には、怒りも嘲りもない。
「あなたが男性の戦国大名として記録され、本能寺でその生涯を終えた存在として扱われ続ければ、歴史は平穏です。多くの人々が学び、語り、消費し、観光し、研究し、創作し、安心して扱える歴史であり続けます」
信長の目が細くなる。
「私が消えれば、か」
「はい」
「正直だな」
「監査ですので」
佐伯さんが、小さくつぶやいた。
「怖いくらい正直だな……」
御堂は続けた。
「管理局は、織田信長様を憎んでいません。明智光秀様を憎んでいません。ジャンヌ・ダルク様も同じです」
ジャンヌが静かに御堂を見る。
「ならば、なぜ私たちを記録へ戻そうとするのですか」
「現代を守るためです」
その答えは、すぐに返ってきた。
「歴史は、正しく平凡であるべきです。神話は歴史にしてはならない。英雄は記録の中で眠るべきです」
聞き覚えのある言葉だった。
最初に管理局が警告を出した時と同じ。
だが、今こうして目の前で言われると、印象が違う。
それは悪役の脅しではなかった。
役所の理念だった。
もっと言えば、世界を壊さないための祈りに近かった。
「我々は、歴史を殺しているのではありません」
御堂は言った。
「現代を守っているのです」




