第15話 彼女たちが、ここにいていい理由
閉会後の会場に、少し遅れて撤収作業の音が戻ってきた。
誰かが台車を押す音。
紙袋が擦れる音。
遠くでスタッフが呼びかける声。
そのすべてが、急に遠く感じた。
信長が一歩前に出る。
光秀が、隣から袖を掴む寸前で止める。
ジャンヌが小さく祈る。
黒川さんが、御堂のスーツを見てつぶやいた。
「仕立てが良いですね」
「今そこですか」
俺が思わず言うと、黒川さんは真顔で答えた。
「敵の情報です」
佐伯さんが、胃薬を取り出した。
「監査編、始まるのかあ」
信長が笑った。
「よい。迎え撃つ」
光秀が即座に言う。
「まずは監査対応資料を作成します」
「ここでか?」
「ここでです」
御堂真白は、ほんのわずかに目を細めた。
たぶん、笑ったのではない。
記録したのだ。
俺たちが、どういう連中なのかを。
俺は息を吸った。
コミケは終わった。
閑話も、ここまでだ。
ここから先は、修正史管理局との正面衝突になる。
でも、不思議と怖さだけではなかった。
信長がいる。
光秀がいる。
ジャンヌがいる。
黒川さんがいる。
佐伯さんは胃薬を持っている。
そして俺は、たぶんまた書くことになる。
正しく平凡な歴史に押し戻されそうな彼女たちが、もう一度、自分の位置を選べるように。
御堂真白は、名刺を差し出したまま言った。
「後日、正式な監査通知を送付いたします」
光秀が反射的に聞いた。
「監査日時は」
「三営業日以内にご連絡します」
「承知しました」
「承知するのか」
信長が呆れる。
光秀は真顔で答えた。
「監査対応ですので」
御堂は、そのやり取りを見て、初めてほんの少しだけ眉を動かした。
「……興味深いですね」
「何がですか」
俺が聞くと、御堂は俺を見た。
「歴史から逸脱した存在ほど、書類を整えたがる」
光秀が静かに言う。
「逸脱しているからこそ、整えるのです」
御堂は答えなかった。
ただ、名刺を俺に渡す。
冷たい紙の感触が、指先に残った。
そこには黒い文字で、こう書かれている。
修正史管理局 史観監査課
御堂真白
その下に、小さな一文。
歴史は、正しく平凡であるべきです。
俺は名刺を見つめた。
さっきまで、同人誌とグッズとコスプレで埋め尽くされていた一日が、最後の最後で一枚の名刺に塗り替えられていく。
いや。
塗り替えさせてたまるか。
俺は名刺をしまい、顔を上げた。
「わかりました」
御堂が静かに見る。
「監査、受けます」
信長が笑う。
光秀が頷く。
ジャンヌが目を伏せる。
佐伯さんが胃薬を飲む。
黒川さんが御堂のスーツをまだ見ている。
俺は続けた。
「ただし、こちらも相応のものを出します」
「何をですか」
御堂が聞く。
俺は、今日一日を思い返した。
信長が楽しんでいけと言ったこと。
光秀が裏切りではなく隣に来たと言われたこと。
ジャンヌが火刑台本に静かに怒ったこと。
黒川さんが布面積を分析したこと。
ユーザーが、好きだと言ってくれたこと。
この光秀を消さないでください、と言ってくれたこと。
「彼女たちが、ここにいていい理由です」
御堂は、何も言わなかった。
ただ、事務的に一礼する。
「では、監査で確認します」
そう言って、彼女は人の流れの中へ消えた。
いや、正確には、人の流れが彼女を隠した。
さっきまで誰も見ていなかった黒いスーツの女は、あっという間に会場の雑踏に紛れて見えなくなった。
信長が言った。
「宮田」
「はい」
「次は監査か」
「みたいです」
「面倒だな」
「はい」
光秀が言う。
「ですが、準備はできます」
佐伯さんがうなずく。
「三営業日以内だしね」
「佐伯さん、そこ拾うんですね」
「Pなので」
ジャンヌは静かに微笑んだ。
「コミケの次に監査。現代の戦場は多彩ですね」
「イベントです」
光秀が訂正する。
「いえ」
ジャンヌは微笑んだまま言った。
「今度は、戦かもしれません」
その言葉に、誰も笑わなかった。
閉会後の会場に、撤収の音だけが響いている。
俺は、名刺を入れたポケットに手を当てた。
夏コミは終わった。
でも、ヒスガルの物語は、また次の章へ進んでしまった。
次章。
史観監査官、来社。
俺はまだ書いてもいないそのタイトルを、頭の中で確かに見た。




