第3話 歴史は、正しく平凡であるべきです
「修正史……」
俺は、ついその言葉を読み上げていた。
信長の表情が変わる。
怒りでも、驚きでもない。
胸の奥に押し込めていた古傷へ触れられたような、静かな嫌悪だった。
「知ってるんですか」
俺が尋ねると、信長はゆっくり首を振る。
「その名は知らぬ」
「え?」
「だが、およその意味はわかる」
信長はモニターを見据えたまま言った。
「おそらく、私から私を奪ったものだ」
誰も声を出せなかった。
「私を、人が理解しやすい織田信長という器へ押し込めた」
信長は静かに拳を握る。
「そして、自由も、志も、存在そのものまでもーー」
「……」
「誰が、何のためにそうしたのかは知らぬ」
低い声が続く。
「だが、世界が秩序という名の檻へ作り替えられたことだけは覚えている」
その瞳が細くなる。
「私は、その檻の中で『歴史上の一人物』として眠らされていた」
信長は小さく笑った。
笑っているのに、まったく愉快そうではない。
「面白くもない」
「気に入らぬ」
「だから私は、ここにいるのだろう」
その一言は短かった。
けれど、その意味は重かった。
ここへ顕現したこと自体が、その檻から抜け出したいという意思表示だったのだろうか。
佐伯さんが、乾いた笑いを漏らす。
「戦国武将がそこまで言う役所、嫌すぎるな……」
モニターの本文が進んでいく。
――株式会社アルカディアゲームス御中。
貴社運営タイトル『ヒストリア・ガールズ・サーガ』において実装準備中のキャラクター《獣血天魔・織田信長》は、現行史観の安定性を著しく損なう恐れがあります。
速やかに当該データを削除し、関連シナリオ、イラスト、音声、プロフィール、イベント演出、および担当者の記憶から、該当設定を除去してください。
歴史は、正しく平凡であるべきです。
神話は、歴史にしてはなりません。
英雄は、記録の中で眠るべきです。
信長はメールの差出人欄を見つめた。
「修正史管理局とはな」
信長は鼻で笑った。
「なるほど、檻を守る者か」
その声には嫌悪しかなかった。
「世界を秩序へ押し込み、その秩序から外れた者を元へ戻す、それが役目というわけか」
信長は小さく笑う。
「なるほど、実につまらぬ」
信長は苛立たしげに鼻を鳴らした。
俺は、もう一度メールへ目を落とした。
そこに書かれていた最後の一文に、思わず息を呑む。
なお、本警告に従わない場合、貴社サービスの審査遅延、レビュー低下、データ不整合、炎上誘導、ならびに運営継続困難化措置を実施します。
以上。
しばらく、誰も口を開かなかった。
文面だけなら、怪文書だ。
だが、目の前には信長本人がいる。しかも俺たちはついさっき、一般に知られている信長像が本来の姿ではないという話を聞いたばかりだ。
つまり、この警告は冗談ではない。
少なくとも、相手は冗談でやっていない。
「運営継続困難化措置……」
佐伯さんが、最悪の単語だけを拾ってつぶやいた。
「それって、要するにサ終へ誘導するってこと?」
「だと思います」
「言い方を丁寧にすれば許されると思ってるのかな」
「役所文体なので」
「役所って怖いね」
佐伯さんは胃薬を探した。さっき床に落としたものだ。拾おうとして、手が震えているのに気づいたのか、途中でやめた。
黒川さんは無言でモニターを見つめていた。
いつも淡々としている人だが、さすがに目が少し鋭くなっている。
「記憶から除去、というのは」
黒川さんが言った。
「文字通りでしょうか」
「たぶん」
俺は答えた。
「設定を消すだけじゃなくて、俺たちがこの信長さんを見たこと自体をなかったことにする、という意味だと思います」
「それは困ります」
「ですよね」
「衣装監修が途中です」
「そこなんですね」
「大事です」
信長が低く笑った。
「貴様ら、なかなか肝が太いな」
「たぶん太いんじゃなくて、現実感が追いついてないだけです」
俺は言った。
実際、現実感はなかった。
目の前の信長も、モニターに出た修正史管理局も、どちらも現実から遠すぎる。
ただ一つだけ、やけに現実的なものがあった。
サービス終了。
サ終。
それだけは、現場の人間には具体的すぎた。
「佐伯さん」
「何?」
「この警告、従いますか」
佐伯さんは答えなかった。
プロデューサーとしての正解は、たぶん決まっている。
リスクを避ける。
不確定要素を排除する。
怪文書が来たなら、関係各所に共有し、実装内容を差し替え、炎上の芽を潰す。
まして相手が万一にも“歴史”に干渉できる何かなら、逆らう理由はない。
けれど、佐伯さんは信長を見た。
この会議室に立っている、猫耳の第六天魔王を。
彼女は黙っていた。
さっきまで怒り、笑い、斬ると言い、マイルームボイスに本気で腹を立てていた彼女が、今はただ、モニターを見ていた。
その横顔に浮かんでいるのは、悔しさだった。
怒りではない。
悔しさだ。
またか、という顔。
また押し込められるのか、という顔。
佐伯さんは、ゆっくり息を吐いた。
「プロデューサーとしては、従った方が安全だと思う」
「はい」
「でも」
佐伯さんは胃を押さえながら言った。
「今ここで『なかったことにしましょう』って言ったら、俺はたぶん、一生このタイトルのプロデューサーを名乗れない」
俺は少しだけ笑った。
「では、方針は」
「まず……」
佐伯さんは考え込んだ。
「法務に相談?」
「相談して通じますかね」
「通じないね。『修正史管理局から記憶除去警告が来ました』って言ったら、俺たちが休職を勧められる」
「ですよね」
「じゃあ、社内共有は最低限。信長さんの存在は、黒川さんのコスプレ仲間ということで」
信長が眉を寄せた。
「なぜ私が私のコスプレ仲間扱いなのだ」
「現代社会で一番説明しやすいからです」
黒川さんが言った。
「資料撮影、衣装確認、本人監修。いずれも業務上の理由として通せます」
「本人監修は本当だな」
「はい」
「ならばよい……よくはないが、今はよい」
信長は不満そうに腕を組んだ。
その耳が、ぴくりと動く。
黒川さんが目を輝かせた。
「すみません、耳の可動確認を後ほど」
「後にしろ」
「承知しました」
少しだけ、空気が戻った。
けれど、モニターの最後の一文は、まだ画面に残っている。
――英雄は、記録の中で眠るべきです。
俺はその文を見ていた。
記録の中で眠る。
たしかに、それが普通だ。
織田信長は教科書の中にいる。歴史小説の中にいる。大河ドラマの中にいる。ゲームの中にも、漫画の中にも、フィギュアの棚にもいる。
でも、そこにいる信長は“本物”ではない。
いや、正確には、本物を削って整えたものだ。
扱いやすく、理解しやすく、消費しやすくしたもの。
俺もその延長にいた。
売れると思って信長を盛った。猫耳をつけた。半妖にした。第六天魔王にした。
けれど、その盛った設定が、偶然にも彼女に近かった。
では、俺がこれから書くものは何だ。
ただの商品か。
それとも。
「宮田」
信長の声で、思考が戻った。
「はい」
「貴様は、私をどうする」
真正面から問われた。
ガチャに出します、という答えでは足りない。
イベントシナリオを書きます、という答えでも足りない。
彼女は、自分が再び記録の中へ押し込まれるかどうかを聞いている。
俺は、手元の資料を見た。
三周年限定SSR《獣血天魔・織田信長》。
プロフィール文。
イベントシナリオ仮タイトル。
《本能寺、炎上再演》。
ひどいタイトルだった。
いや、悪くはない。ソシャゲイベントとしては引きがある。PVにもなる。燃える本能寺を背景に、信長が覚醒する。ユーザーは盛り上がるだろう。
でも今の俺には、そのタイトルが妙に薄く見えた。
信長をまた本能寺で燃やすのか。
信長をまた“そこで終わる人”として出すのか。
それは、違う気がした。
「まだ、わかりません」
俺は正直に言った。
信長の目が細くなる。
「わからぬ?」
「はい。今ここで『本当のあなたを書いてみせます』とは言えないです。あなた自身もなぜここにいるのかわからないと言っていました」
「……」
「だから、あなたから聞いたことをそのまま書くだけでも、多分足りない」
佐伯さんが俺を見る。
黒川さんも手を止めた。
俺は言葉を探しながら続けた。
「俺は歴史学者じゃありません。ゲームのシナリオ担当です。だから、正しい歴史を復元することはできないと思います」
「では、何を書く」
「あなたが、この時代で戦える物語を」
信長の耳が、ほんの少し動いた。
「管理局が、あなたを記録に戻すというなら。俺は、あなたが記録の外で立てる理由を書きます」
言ってから、自分で驚いた。
ずいぶん大きなことを言った気がする。
シナリオ担当の仕事範囲を明らかに超えている。仕様書にもスケジュールにも載っていない。チケットを切るなら、どのタスク名にすればいいのかもわからない。
でも、信長は笑った。
さっきとは違う笑い方だった。
不敵で、強気で、どこか楽しそうな。
「よい」
信長は言った。
「ならば書け、宮田。私がこの時代で戦える歴史を」
「はい」
「ただし」
「はい」
「にゃんにゃん魔王ボイスは消せ」
「消します」
「水着霊衣も却下だ」
「そこは一旦保留で」
「斬るぞ」
「検討から外します」
佐伯さんが、横で小さく言った。
「宮田くん、今のは良い判断」
「命がかかっていたので」
「命と炎上は避けよう」
「はい」




