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第29話 誰も「もういい」とは言わない

 信長は何も言わなかった。


 光秀は目を伏せる。


「私は、そこまでして救われたいわけではありませんでした」


 その言葉を聞いた瞬間、俺はキーボードに指を置いた。


 書かずにはいられなかった。


 ――私は、悪くなかったと言われたかった。


 ――でも、その言葉であなたが悪くなるのなら。


 ――私は、その救いを選びたくない。


 入力してから、光秀を見る。


「今の、使っていいですか」


 光秀は一瞬だけ戸惑った。


「……言葉を整えていただけるなら」


「わかりました」


 信長が、ふっと笑う。


「光秀らしい。救われるにも手続きが要るか」


「必要です」


「面倒な女だ」


「承知しております」


 佐伯さんが横で小さく言った。


「でも、すごくいい台詞です」


「ありがとうございます」


「ユーザーにも刺さると思います」


 光秀の表情が少し強張った。


 佐伯さんは、すぐに言い直す。


「あ、すみません。売れるという意味だけじゃなくて」


「いえ」


 光秀は首を横に振った。


「届くなら、届いてほしいです」


 その返事は、昨日までの光秀とは違っていた。


 自分の言葉が利用される怖さを知ったうえで、それでも届いてほしいと言った。


 それは、逃げないということだ。


「黒川さん、ビジュアルはどうですか」


 佐伯さんが聞く。


 黒川さんはタブレットをモニターに接続した。


 新しいキービジュアルが映る。


 炎の中、信長と光秀が並んでいる。


 信長は刀を持ち、前を見ている。


 光秀はその斜め横で、戦況図を片手に持っている。

 もう片方の手は、信長の袖を掴む寸前で止まっていた。


 掴んでいない。


 でも、届く距離にある。


「袖を掴ませないんですね」


 俺が言うと、黒川さんはうなずいた。


「掴むと“止めた”になります。寸前で止めることで、“止めようとしている”にしています」


 光秀が、静かに息を呑んだ。


「そこまで」


「はい」


 黒川さんは淡々と言う。


「ビジュアルも、役割を固定しますので」


 ジャンヌが微笑む。


「黒川さんは、よくわかっていらっしゃいます」


「衣装と構図は情報です」


「聖典の挿絵にも欲しい視点です」


「ありがとうございます」


 信長は画面を見つめていた。


「悪くない」


「修正点はありますか」


 黒川さんが聞く。


「私の方がもう少し前だ」


「信長様」


 光秀が即座に言う。


「その構図では、また私が後ろで止める形になります」


「む」


「隣です」


「……そうであったな」


 信長は少しだけ不満そうに言った。


「では、半歩だけ前だ」


「半歩なら許容します」


「許容されるのか、私は」


 佐伯さんが小さく笑った。


「いいですね。半歩前の信長さんと、半歩後ろではなく隣にいる光秀さん」


「タイトルに合います」


 俺はメモを取る。


 ――信長は半歩前に出る。

 ――光秀は後ろではなく隣にいる。

 ――止めるためではなく、共に進むために。


「その“共に進む”ですが」


 光秀が言う。


「言い過ぎですか」


「少し綺麗すぎます」


「では?」


「“進みすぎないように、隣で歩く”くらいが近いです」


 佐伯さんが思わず手を叩きそうになって止めた。


「光秀さん、言葉が上手い」


「そうでしょうか」


「はい。実務寄りなのに感情が乗ってる」


 信長が顔をしかめる。


「褒めすぎだ」


「信長様も、進みすぎないようにしてください」


「今のはどういう意味だ」


「そのままです」


 会議室にまた笑いが起きる。


 光秀は、少しずつこの場所に馴染み始めていた。


 レーヴァテインでは、赤字だらけになる修正は「扱いづらさ」だった。


 ここでは違う。


 佐伯さんは修正を読み、黒川さんは構図を直し、信長は文句を言いながら最後まで聞く。


 誰も「もういい」とは言わない。


 光秀の表情が少しずつ柔らかくなっていく理由は、その積み重ねだけで十分だった。

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