第27話 次は隣にいろ
近くの貸し会議室に移動してからも、光秀はしばらく黙っていた。
渋谷の夜は明るかった。
窓の外には広告ビジョンが光り、人が歩き、車が流れている。
世界は、歴史が軋んだことなど知らない。
あ
信長と光秀が同じ会議室にいることも知らない。
それでも、確かにここにいる。
光秀は、最初に椅子を整えた。
全員分の席の位置を確認し、資料を机の中央に置き、ペンをまっすぐ揃える。
佐伯が、その動きを見て小さく感動していた。
「光秀さん、段取りが美しい……」
「佐伯」
信長が低く言う。
「すみません」
光秀は、信長の向かいに座った。
正面ではなく、少しだけ斜め。
真正面に座るのを避けたのだと、宮田は思った。
信長も、それに気づいているようだった。
しばらく、誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、光秀だった。
「信長様」
「何だ」
「私は、また間違えましたか」
あまりにもまっすぐな問いだった。
信長は、すぐには答えなかった。
光秀は続ける。
「私は、自分が裏切り者として置かれることを変えたいと思いました。信長様を終わらせた女としてだけ残ることが、耐えられなかった」
「それで、あやつらに協力したか」
「はい」
「私を止めるための刃として売られていることに、気づかなかったか」
「気づいていました」
光秀の声は震えた。
「少しは」
信長は黙った。
「ですが、少しでも変えられるならと思いました。私の言葉が一行でも入るなら。裏切りではなく、止めるためだったと伝えられるなら。それで、少しは」
「救われると思ったか」
光秀は、唇を結んだ。
「はい」
その返事は、小さかった。
でも、嘘ではなかった。
信長は、しばらく光秀を見ていた。
それから、低く言う。
「馬鹿者」
光秀の肩が震えた。
信長は続ける。
「その程度で救われるなら、貴様はとっくに救われている」
光秀は、何も言わなかった。
「裏切り者ではない。忠義だった。仕方なかった。悪くなかった。そんな言葉で、本能寺が終わるものか」
「……はい」
「貴様が背負ったものは、その程度の言葉で軽くなるものではない」
「はい」
「そして」
信長の声が少しだけ揺れた。
「私が背負ったものもだ」
光秀が顔を上げる。
信長は、目を逸らしていた。
「信長様」
「勘違いするな。許したわけではない」
「はい」
「貴様を責めぬわけでもない」
「はい」
「だが」
信長は、ようやく光秀を見る。
「貴様が、私を終わらせたかったわけではないことくらいは、知っている」
その瞬間、光秀の顔が崩れた。
泣きはしなかった。
この人は、泣くことも段取りに入れていないのだと宮田は思った。
でも、眼鏡の奥の瞳が、確かに揺れた。
「私は」
光秀が言う。
「私は、信長様を止めたかった」
「知っている」
「けれど、止め方を間違えた」
「それも知っている」
「そして、今も」
「今も間違えたな」
「……はい」
信長は、ふっと笑った。
「昔から、真面目すぎるのだ」
光秀は、俯いた。
「申し訳ありません」
「謝るな」
信長の声が少しだけ強くなる。
「謝れば済むと思っている顔が腹立たしい」
「そのつもりは」
「なら、次は隣にいろ」
光秀が、息を止めた。
佐伯が、小さく息を呑む。
宮田も、キーボードに置こうとしていた指を止めた。
信長は、やや不機嫌そうに続ける。
「止めるなら、背後からではなく隣で止めろ。進言するなら、書状ではなくその場で言え。燃えると思うなら、燃える前に耳を引っ張れ」
「耳を」
「比喩だ」
「信長様の場合、耳がありますので」
「そこを拾うな」
光秀は、ほんの少しだけ笑った。
本当にわずかだった。
でも、それはこの夜、初めて彼女が見せた笑みだった。
宮田は、ノートPCを開いた。
今の言葉を忘れないように。
本能寺再提出。
そこに、必要な一文が見えた気がした。
信長を本能寺で終わらせない。
光秀を裏切り者で終わらせない。
でも、二人の傷をなかったことにはしない。
許しでも、断罪でも、免罪でもない。
次は隣にいろ。
それが、たぶんこの章の中心だ。
「宮田」
信長が見る。
「書くなよ」
「もう書いてます」
「貴様」
「大事なところなので」
光秀が驚いたように宮田を見る。
「あなたは、今の会話を物語にするのですか」
「します」
「許可なく?」
「許可は取ります」
「今、書いているのに?」
「仮メモです」
光秀は、少しだけ困った顔をした。
佐伯が穏やかに言う。
「光秀さん、宮田くんはこういう時、止めても書きます」
「問題では」
「でも、ちゃんと聞きます。少なくとも、聞かずに商品にすることはしません」
光秀は、佐伯を見る。
佐伯は胃を押さえながら、まっすぐ言った。
「俺たちも、最初は信長さんを商品として見ていました。今も商品ではあります。ゲームなので。でも、それだけにはしないようにしています」
「それだけにはしない」
「はい。正直、毎回うまくできるとは限りません。売上も、スケジュールも、審査もあります。でも、本人が嫌だと言った言葉を、面倒だから無視する会社にはしない」
その言葉は、佐伯自身に言い聞かせているようでもあった。
光秀は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
信長が鼻を鳴らす。
「礼を言うのはまだ早い。こやつらは水着霊衣を諦めておらぬ」
「水着……?」
光秀が宮田を見る。
宮田は目を逸らした。
「検討段階です」
「信長様の水着を?」
「ユーザー需要が」
「宮田様」
「はい」
「会議が必要です」
佐伯が、なぜか嬉しそうにうなずいた。
「光秀さん、ようこそ」
「佐伯、貴様」
「すみません。でも、助かります」
信長が呆れたようにため息をつく。
会議室に、少しだけ笑いが生まれた。
それは、本能寺という言葉からはほど遠い、現代の小さな会議室の笑いだった。
でも、宮田にはそれが大事に思えた。
本能寺の先にあるものが、もし戦場ではなく、こういう面倒な会議なのだとしたら。
それは、悪くない。
宮田はシナリオファイルに、新しい見出しを打った。
《次は隣にいろ》
そして、その下に書く。
――本能寺は、終わらせる場所ではない。
――戻る場所でもない。
――二人がもう一度、並び直すために提出し直す場所である。
保存。
画面が淡く光った。
管理局の警告は出なかった。
だが、遠くで何かが軋み、少しだけ形を変えた気がした。
ジャンヌが微笑む。
「一歩、進みましたね」
「まだ一歩ですか」
「ええ」
彼女は、信長と光秀を見る。
「でも、本能寺から出るには、大きな一歩です」




