第4話
中庭での手合わせから一夜明けた晩、食卓はもう食事をする場所ではなくなっていた。
並んでいるのは皿じゃなく、油壺と砥石、それにばらした革鎧の留め具。
私は布に油を染みこませて、明日の本戦で使う真鍮巻きの長槍の穂先を磨いていた。きゅっ、きゅっ、と規則正しい音が部屋に響く。
向かいでは、ユーリシスが黙々と手を動かしていた。
あの叩き割られた銀の小手だ。内側から金槌でへこみを叩いてならし、ひびの入ったところに裏から鋼板を当てて、鋲を打ち直している。不器用な男なのに、武具の手入れだけは近衛仕込みでやたらと手際がいい。
「ねえ。それ、明日使う気?」
「ああ。直した。衝撃を逃がせるように、手首の遊びを少し広げてある」
ユーリシスは顔も上げずに、やっとこで革紐を締め直しながら答えた。
その指には、昨夜私の槍で打たれた痣が紫色に残っている。もっとも、私も人のことは言えない。右の肘の内側には、彼の木剣で払われた痕がくっきり浮いていた。
「新しいのを買えばいいじゃない。あなたのお給金なら買えるでしょうに」
「これがいい」
「頑固ね」
「お前に割られた小手だからな。試合中これが目に入るたびに、自分の油断を思い出せる」
さらっと言われて、穂先を拭く手が止まった。
まったく、変なところで執念深いんだから。
「言っておくけど、明日の相手はお義父様が用意した近衛の精鋭二人よ。片方は大盾、もう片方は両手剣。槍の間合いを潰す気まんまんの組み合わせだわ」
「わかっている。盾は俺が崩す。君は大剣の横なぎをかいくぐって、喉を突け」
「それと、昼のうちに審理官の窓口へ、裏試合の賞金を全額預けてきたわ。推薦状の写しと、あなたが書斎から写してきた裏帳簿も添えてね。勝ったところで、私の無認可出場が帳消しになるわけじゃない。あとでたっぷり罰金を言い渡されるわよ」
「親父も同じだ。演武会が終われば査察が入る」
二人そろって泥舟に乗っているようなものだ。ユーリシスは油の布を置いて、金槌を脇へどけた。
それから、テーブルの端に寄せてあったカップを、私の前に押し出してきた。湯気と一緒に、香ばしい番茶の匂いが立ちのぼる。
「飲め。冷めると渋くなる」
私は黙ってカップを受け取った。
「怖くない、と言ったら嘘になるな。明日、俺は親父の期待も、近衛での出世も、全部放り出すことになる」
彼は自分のカップを両手で包んで、窓の外の暗がりを見つめた。
いつもの無表情なのに、その横顔には、三年間一度も見たことのない覚悟が浮かんでいた。
「なあ、エレノア」
「何よ」
「去年の冬、選抜試合でしくじって、肩を痛めて帰った朝があっただろう。あのとき君は何も聞かずに、やけに熱い番茶を一杯だけ置いていった。『冷めると渋いですよ』とだけ言って」
「よく覚えてるわね、そんなこと」
「あれで腹が据わったんだ。言葉で励まされるより、あの一杯のほうがずっと俺を叩き直してくれた」
ユーリシスはテーブル越しに手を伸ばして、私の右手を包みこんだ。タコだらけで、手入れ油の染みた指先を、ためらいもなく。
「俺はずっと、あの茶に救われていたんだ。だから、もう君を手放せない」
真正面から言われて、耳の奥まで一気に熱くなった。
慌てて手を引こうとして、親指の爪で彼の手の甲の痣をひっかいてしまう。
「痛っ。傷にさわるんだが」
「うるさい。油で手が汚れるでしょ」
私は布を取って、手を拭くふりをしてうつむいた。
口の端が勝手に持ち上がるのを、どうしても止められなかった。
「約束しなさいよ。明日、私の背中を守れなかったら、その小手、もう片方も叩き割るから」
「ああ。命に代えても守る」
「命に代えちゃ駄目。勝って、二人で生きて帰るの。いいわね?」
ユーリシスが、ふっとやわらかく笑った。
「了解だ、我らが『銀鴉』殿」




