第5話
王都演武場の控えの間は、汗と油の匂いでむっとしていた。
仮面をつけた私が槍の握りを確かめていると、重たい足音が近づいてきた。
ユーリシスの父、アレン武功爵だ。
「ユーリシス。どういうつもりだ」
義父は息子の前に立ちはだかり、仮面の私を顎でしゃくった。
「私が用意した騎士を蹴って、どこの馬の骨とも知れん裏試合上がりと組むとはな。まあいい。お前たちが負ければ、それで終わりだ」
「父上」
「侯爵家との話はまとめてある。今日が終われば、あの借金まみれの槍屋の娘とも縁が切れる。三年も置いてやったんだ、ありがたく思ってほしいものだな」
仮面の下で、私は奥歯を噛みしめた。
この人が陰で私をどう呼んでいるかなんて、とっくに知っていた。でも面と向かって聞かされると、やっぱり腹の底が煮えくり返る。
ユーリシスの拳が、白くなるほど握りしめられていた。けれど彼は言い返さず、ただ頭を下げた。
「試合で、お見せします」
「ふん。せいぜい恥をかかんようにな」
義父が去っていくのを見送って、ユーリシスが低くつぶやいた。
「すまない」
「謝らないで。そのかわり、勝つわよ」
◇◇◇
砂煙が、御前の天蓋に向かって巻き上がっていた。
貴賓席の最前列では、義父がふんぞり返っている。その隣には、扇を手にした侯爵とその令嬢。今日が終われば、ユーリシスの新しい縁談相手になるはずの人たちだ。
主従演武、決勝。
向かいに立つのは、義父が送りこんだ近衛の精鋭二人。一人は背丈ほどもある鉄の大盾を構えた大男、もう一人は身の丈を超える両手剣を軽々と肩に担いだ熟練の剣士だった。
「行くぞ、エレノア」
半歩前で、ユーリシスが鋼の長剣を抜き放った。
右腕では、昨夜二人で直した銀の小手が鈍く光っている。柄を握り直すと、締め直した革紐がきしりと鳴った。
「言っておくけど、あなたが先に倒れたら置いていって一人で勝つからね」
「頼もしいな。だが、君より先に膝をつく気はない!」
銅鑼が鳴った瞬間、大剣使いが砂を蹴って突っこんできた。豪快な横なぎ。鉄の塊みたいな刀身が、低くうなりを上げて空気を裂く。
同時に、大盾持ちが身を低くして、槍の間合いを潰しにまっすぐ私へ向かってきた。
「ユーリ!」
「任せろ!」
ユーリシスが前に出た。大剣のなぎ払いから身を引くどころか、わざと懐深くまで飛びこんでいく。
ガキンッ! と耳をつんざく金属音が弾けた。
大剣を受け止めたのは、ユーリシスの剣じゃなかった。右の前腕。裏から鋼板を当てて鋲を打ち直した、あの銀の小手だ。
「小手で大剣を受ける馬鹿がいるか!」
相手が叫ぶ。けれどユーリシスは手首をひねって、小手の丸みで斬撃の軌道を上へと受け流した。昨夜広げた手首の遊びが、衝撃を殺しきったのだ。体勢を崩した大剣使いの鳩尾に、長剣の柄頭が深々とめりこむ。
大剣使いがたまらず体をくの字に折った瞬間、私はもう地を蹴っていた。
大盾持ちが、私を押しつぶそうと鉄の壁を突き出してくる。でも、相棒が崩れたせいで、その背中はがら空きだった。
「そこ、がら空きよ!」
私は長槍の穂先を大盾のふちに引っかけ、全体重を預けて、棒高跳びの要領で宙へ跳ね上がった。
大盾持ちがぎょっとして見上げる。その頭上を飛び越えて背後に着地すると同時に、柄をくるりと反転させた。
遠心力を乗せた石突が、兜の錣を正確に叩き割る。
ずしん、と大男が前のめりに砂の上へ崩れ落ちた。
残った大剣使いが、ふらつきながら立ち上がった。最後の力を振りしぼって、大剣を私へ振り下ろしてくる。
刃の風圧が仮面をかすめて、留め紐を断ち切った。
ぱきん、と乾いた音を立てて、黒漆の仮面が真っ二つに割れ、砂の上に転がった。
あらわになった私の顔に、結い上げていた亜麻色の髪がばさりと落ちかかる。
観客席が、どよめいた。
「女だ!」
「待て、あれはアレン家の若奥様じゃないか!?」
貴賓席で、義父が椅子を蹴って立ち上がるのが見えた。顔からみるみる血の気が引いていく。
でも、大剣の刃が私に届くことはなかった。
横から疾風のように割りこんだユーリシスの長剣が、大剣の切っ先を弾き飛ばし、そのまま相手の喉元一寸でぴたりと止まっていた。
「勝負あり!」
審判の声が、演武場を貫いた。
すり鉢状の観客席から、割れんばかりの歓声が降ってくる。
私は穂先を下げて、乱れた髪を乱暴にかき上げた。隣を見ると、ユーリシスは肩で息をしながら、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。泥と汗にまみれた顔で、誇らしげに私を見つめている。
「見たか、エレノア。勝ったぞ」
「見なくてもわかるわよ。あなた、途中で盾の角に頭ぶつけそうになってたでしょ。相変わらず詰めが甘いのよ」
「手厳しいな。命がけで小手を使ったんだが」
歓声がおさまらないうちに、大会の審理官が演武場の中央へ進み出た。手には、昨日私が預けた賞金の受領控えと、裏帳簿の写しがある。
「此度の演武、技量は明白である! だが、闘士エレノア・ヴェルデの非公式試合への参加は、本人の申告どおり罪を免れん!」
審理官の声が朗々と響く。
「裏試合の賞金は没収、罰金として金貨二十枚を科す。指南役の認可は、一年間の条件付きとする。推薦人ユーリシス・アレン副隊長も、非公式戦に関わった責により、俸給を一月停止とする」
「謹んでお受けします」
二人そろって頭を下げた。
審理官の目が、ゆっくりと貴賓席へ向けられた。
「そして、アレン武功爵。近衛会計役の官印を私用し、裏試合の後援枠と賭け金を不正に売り買いした件。帳簿の写しと推薦状の官印により、すでに裏は取れている。本日をもって会計役を解き、身柄を査問院へ移す。武功爵位の扱いは、陛下のご裁可を待つものとする」
演武場が、水を打ったように静まり返った。
義父の顔が、赤から白へ、白から土気色へと変わっていく。
「ば、馬鹿な! 何かの間違いだ! そんな帳簿、私は知らん!」
義父は欄干にしがみついて身を乗り出した。けれど左右に控えていた近衛の騎士たちは、誰一人目を合わせず、すっと半歩ずつ下がっていく。
「侯爵閣下! 閣下からも何とか!」
すがるように振り返った先で、侯爵は扇をぱちりと閉じた。
「アレン殿。娘の縁談の件は、なかったことにしていただこう。不正を働く家と縁を結ぶほど、我が家は落ちぶれてはおらんのでな」
侯爵令嬢も、汚いものから目をそらすように顔を背けた。二人はそのまま、さっさと席を立って去っていく。
観客席のあちこちから、ひそひそ声と冷たい笑いが漏れはじめた。
「裏試合の枠を売ってたんだってさ」
「息子の嫁が仮面の闘士で、しかも自分の悪事を暴いたって?」
「借金まみれの槍屋の娘、だったか。その槍屋の娘に足元をすくわれてりゃ世話ないな」
義父の膝が、がくがくと震えはじめた。
査問院の役人が二人、貴賓席へ上がっていく。両腕をつかまれた瞬間、義父は獣みたいな声を上げて暴れた。
「離せ! 私を誰だと思っている!」
もみ合ううちに、胸元の武功爵の徽章がむしり取られて、砂の上に落ちた。
義父はそれを拾おうと手を伸ばし、ずるりと足を滑らせて、欄干の下の砂地へ無様に転がり落ちた。泥まみれの顔を上げると、目の前に、ちょうど私たちが立っていた。
「ユーリシス……!」
義父は這いつくばったまま、息子の足に手を伸ばした。
「助けてくれ、私はお前の父親だぞ! お前の口から、何かの間違いだと言ってくれ! エレノア、お前もだ! 三年も面倒を見てやった恩を忘れたのか!」
ユーリシスは、黙って一歩下がった。
私は砂の上の徽章を拾い上げて、ほこりを払ってから、義父の前にしゃがみこんだ。
「お義父様。借金まみれの槍屋の娘とは、今日で縁が切れるんでしたよね?」
義父の顔が、ひくりと引きつった。
「よかったですね。お望みどおりです」
徽章を役人の手に渡して、私は立ち上がった。
「父上」
ユーリシスが、静かに口を開いた。
「俺はもう、あなたの思い通りに動く跡継ぎではありません。罪は、ご自分で償ってください」
「この親不孝者が! 勘当だ! 二度とアレン家の敷居をまたげると思うな!」
「はい。どうぞお健やかに」
ユーリシスは、きっちりと騎士の礼をとった。
わめき散らす義父が役人に引きずられていくあいだ、彼は一度も顔を上げなかった。
◇◇◇
屋敷に帰りついたころには、すっかり日が暮れていた。
テーブルの真ん中には、二枚の書類が置いてある。三年前の婚姻契約書と、あらかじめ用意してあった離縁届。今日がちょうど、契約の満期日だった。
私は着替えをすませて、いつものように真鍮のフォークを手に取った。
今夜の夕食は、近所の惣菜屋で買ってきた冷たいローストビーフと、硬いパン。祝勝会なんて洒落たものはなくても、今の私には最高のごちそうだった。
「で? 勘当されて、お給金も一月止まるんですって、ユーリ」
「ああ。身軽になった」
「のんきね。私は罰金の二十枚を、道場の稽古代から月々払っていくつもりよ。あなたの家には一銭だって頼らないから」
「当然だ。俺も自分の始末は自分でつける。だから、その、君の道場の隅に居候させてもらえないか」
「居候のくせに図々しいわね。道場の弟子たちに稽古をつけてもらうわよ。朝の素振りで右肩を引いたら、木剣で叩き直すから」
「望むところだ、師範代殿」
ユーリシスはテーブルの上の離縁届を引き寄せた。
そして私の目の前で、迷いなくそれを真っ二つに破った。
「破っちゃっていいの? これで侯爵家のご令嬢と結婚して出世する道は、完全になくなったわよ」
「もともと、いらないと言ったはずだ」
ユーリシスは紙きれを脇へ押しやって、かわりに、あの銀の小手をテーブルの真ん中にことりと置いた。昨夜の補修の痕に、今日の大剣の傷が重なって、もう芸術品みたいに無骨な姿になっている。
「好きな人ができたんだ」
乾いたソースのこびりついた皿の向こうで、ユーリシスが言った。
あの夜と同じように、銀の小手が二人のあいだに置かれている。でも今の彼の目は、逃げ場のない真剣さで、私だけをまっすぐ射抜いていた。
「槍の腕にも惚れている。でもそれ以上に、こうして向かい合って、俺の素振りを叱ってくれる君がいい。エレノア。契約の紙きれじゃなく、俺自身の意思で、改めて君を妻に迎えたい」
私はフォークを置いて、わざとらしくため息をついてみせた。
けれど、口元からこぼれる笑みは、どうしても隠せなかった。
「小手をもぎ取られた男の求婚なんて、受ける槍使いがいると思う?」
「いないか?」
ユーリシスが本気で不安そうに眉を下げたので、私はこらえきれずに吹き出した。
「私以外には、いないでしょうね」
私は小手を引き寄せて、甲の傷を指先でなぞった。
「この小手、返してあげないわよ。私の戦利品なんだから。一生、私の目の届くところに置いておきなさい」
ユーリシスはぽかんとして、それから声を立てて笑った。
テーブル越しに伸びてきた手が、小手ごと私の手を包みこむ。タコだらけの指を持ち上げて、彼はその節にそっと唇を押し当てた。
「ああ。喜んで、一生君の戦利品になろう」
顔から火が出そうだった。
私は小さく鼻を鳴らして、ローストビーフの最後の一切れをフォークで突き刺すと、照れ隠しに彼のパンの上へぽいっと放ってやった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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