第2話
「お前が、『銀鴉』なのか」
ユーリシスは立ったまま、テーブルの上の小手を凝視していた。
幽霊でも見たような顔だ。近衛第一隊の副隊長ともあろう男が、膝をがくがくさせている。昨夜、私の穂先を喉の三寸手前で止められたときのほうが、まだ肝の据わった顔をしていた。
「座りなさいよ。魚が干物になるわ」
冷たく言うと、彼はぎくしゃくと椅子を引いて、浅く腰かけた。
目はまだ、小手のへこみに釘づけだ。
「だが、背丈が違う。あの騎士はもっとこう、肩幅があって、威圧感があってだな」
「晒しで胸を締めて、肩当てに革を二重に仕込んでたの。靴底にも鉄板を入れて、三寸は底上げしたわ。無認可の賭け試合に出るなら、それくらいの下準備は当然でしょうが」
「声は」
「喉に、沈黙草を仕込んだ魔導符を貼ってたのよ。低くかすれた声になるの。終わったら喉がカラカラで、帰ってからあなたが淹れてくれた番茶を三杯も飲んだわ」
「喉が痛いと言って飲んでいた、あれか!」
ユーリシスが頭を抱えた。
それはもう見事な抱えっぷりだった。普段は部下に慕われ、社交界の令嬢たちに「氷の剣士様」なんて黄色い声を浴びている男だと知っているだけに、滑稽で胸がすく。
「待て。じゃあ、あの初手の突きのあと、俺の右脇をえぐるように抜けていった足さばきは」
「あなたの癖よ」
「癖?」
「あなた、上段から斬り下ろす直前に、右肩をほんの少し後ろに引くでしょう。近衛の型稽古で叩きこまれた悪い癖よ。初動がきれいすぎて、次にどこを狙うか看板を立てて教えてるようなものだわ」
「なっ」
「三年見てたのよ。毎朝毎朝、夜明け前から中庭でビュンビュン素振りしてるのを、寝室の窓から何千回見たと思ってるの。直す気がないなら、どうぞ突いてくださいって頼んでるのと同じじゃない」
ユーリシスがぐっと詰まった。
図星だったらしい。無意識に右肩を回してから、信じられないものを見る目で私を見つめる。
「三年、見ていた? 君はいつも、俺が素振りから戻ると、紅茶を淹れて『おはようございます、旦那様』と」
「見てたわよ。紅茶を蒸らしてるあいだに、あなたの踏み込みのぶれを書きとめて、穂先を研いでたの。淑女の優雅な朝の日課だとでも思ってた?」
「思ってた……!」
ユーリシスはうめくように叫んで、額をテーブルに打ちつけた。ごつん、と鈍い音がして、冷めたスープが皿の中でまた揺れる。
「じゃあ何か。俺は昨夜、自分の妻に完膚なきまでに叩きのめされて、その妻にもぎ取られた防具を目の前に置かれながら、『あの方の槍に一目惚れした』と熱弁をふるったのか」
「要約が正確で助かるわ。その通りよ」
私は真鍮のフォークを取って、冷めた魚を切り分けた。口に運ぶ。脂が固まって最悪の味だったけれど、かみしめて飲みこんだ。
「で? 話の続きを聞かせてちょうだい。離縁の件よ」
「そ、それは」
「好きな人ができたから別れてくれ、って言ったわよね。その相手が私だった場合、このお申し出はどうなるのかしら」
ユーリシスは額をテーブルにつけたまま、耳まで赤くして固まっていた。
けれど少しして、ゆっくりと顔を上げた。さっきまでのうろたえは消えて、代わりに重たい影が差している。
「エレノア」
「何よ」
「どうして裏試合なんかに出た。あそこの賞金は表に出せない金だぞ。何か入り用なら、なぜ俺に言わなかった」
「言うわけないでしょ。今月末で縁が切れる相手に、これ以上借りを作れって? うちの道場も弟子も、自分の槍で食べさせるわよ」
私の実家は、街外れで小さな槍術道場をやっている。借金で看板を下ろしかけたのを、この結婚で救ってもらった。でも、指南役の正式な認可がなければ、いずれまた同じことになる。
「裏試合の優勝者には、王都演武会の本戦に出る推薦状がもらえるの。私は『銀鴉』として本戦に出て、勝って、指南役の認可を取る。そうすれば、誰にも頼らずに道場を守れるわ」
それに、と私は続けた。
「あなたのお父様、満期で私を追い出して、あなたを侯爵家のご令嬢と再婚させるおつもりでしょう。知ってるのよ。屋敷の使用人たちが噂してたもの。あなただって、呑むつもりだったくせに」
ユーリシスは拳を握りしめて、目を伏せた。
「俺は、君の時間を奪ったと思っていた」
「は?」
「政略の駒として君を縛りつけて、三年も白い結婚のまま放っておいた。君が槍を好きなことは、部屋から漂ってくる手入れ油の匂いで気づいていたよ。だが、アレン家の嫁でいる限り、君は表の試合には出られない。俺の妻という立場が、君の腕を殺してしまう。だから一日でも早く解放して、持参金をつけて自由にしてやるのが、君のためだと」
不器用にもほどがある。
この人はいつもそうだ。言葉が足りなくて、勝手に一人で抱えこんで、勝手に自分を犠牲にする道を選ぶ。
「馬鹿ね」
心底あきれて、私はため息をついた。
「誰が解放してくれなんて頼んだのよ。離縁したいなら本戦が終わってからにして。それまでは偽装だろうが何だろうが、あなたの妻の座を使わせてもらうわ」
言い切ってやると、ユーリシスはぽかんと私を見つめた。
それから、ふっと口の端を上げた。三年間の結婚生活で一度も見たことのない、挑むような、不敵な笑みだった。
「なるほどな。だが、エレノア」
「何よ」
「その推薦状なら、ここにある」
ユーリシスは懐から、封蝋の押された羊皮紙を取り出した。
「優勝者が名乗り出ずに消えたからな。次点の俺に回ってきた。親父の後援印つきで」
私は眉を吊り上げた。
目の前の男は、もう冷めたスープの前でおろおろしていた気弱な夫じゃない。昨夜、演武場で刃を交えた、あの獰猛な剣士の顔をしていた。
「返してほしければ、手合わせだ」
ユーリシスが言った。
「今夜、中庭で。防具なしの一本勝負。俺から一本取れたら、この推薦状は君のものだ」




