第1話
「エレノア殿。すまないが、好きな人ができた」
焼きすぎた鰈のムニエルにフォークを刺したところで、向かいの席から妙に真面目くさった告白が降ってきた。
私は手を止めて、目だけを上げた。
ユーリシスは背筋をぴんと伸ばし、近衛騎士の礼装用タイを首元まできっちり留めている。三年前、お互いの家の都合で結んだ三年契約の結婚。その満期が今月末だった。干渉しない、寝室も別、波風立てずに同居を終える。今夜の夕食はその最終確認の席で、だから彼が「円満に別れるための理由」を用意してくること自体は想定内だった。
「そうですか」
「本当に申し訳ないと思っている。君に落ち度はない。俺の一方的なわがままだ」
ユーリシスは心底つらそうに眉を寄せている。誠実な男なのだ。契約上の妻が相手でも、嘘の浮気話で泥をかぶるような真似はしたくなかったんだろう。ということは、本当にどこかの令嬢に心を奪われたらしい。
「お相手はどなたですか? 手切れ金や慰謝料の名目を整えないといけません。お義父様への報告に角が立たないよう、辻褄を合わせておきませんと」
事務的にたずねると、ユーリシスは目を泳がせた。鍛えた喉仏が、居心地悪そうに上下する。
「名前も、顔も知らない」
「は?」
「昨夜の、裏演武場でのことだ」
フォークを持つ指が、ぴくりと跳ねた。
「近衛の非公式枠で出ていたんだ。そこで当たった。漆黒の面をつけて、刃のない練習槍一本で予選を勝ち上がってきた、あの『銀鴉』に」
ユーリシスの青い瞳に、この三年間一度も見たことのない熱がこもっていた。
私は黙って息を吸い、心の中で盛大に舌打ちした。
「どんな方でしたの?」
「圧倒的だった」
ユーリシスは皿のことなど忘れたように身を乗り出してきた。
「初手を剣の腹で受け流した瞬間には、もう柄を滑らせて、石突を鳩尾にねじこまれていた。動きにまるで無駄がない。あの切っ先を突きつけられたとき、心臓をわしづかみにされたかと思った」
「へえ」
「もう一度あの槍の前に立ちたい。俺が欲しかったのは義務で守る平穏じゃない、ああいう命のやりとりだったんだ。だからエレノア殿、これ以上君を縛っておくわけにはいかない」
普段は「おはよう」と生活費の封筒くらいしか寄こさない男が、真顔で鼻息を荒くしている。
私はフォークを置いて、ナプキンで口元を拭った。
「ちなみに、その方が男性だったらどうなさるおつもりで?」
「構わない」
「は?」
「槍の冴えに、男も女も家柄も関係ない。俺はただ、あの人と人生を懸けて立ち合いたいんだ。手合わせを申しこんで、断られたら弟子入りでも何でもする。あの突きをもう一度受けられるなら」
頭が痛くなってきた。
たしかに私は、胸を晒しで潰し、声を変える符を喉に貼って、仮面をかぶって出場した。でも三年も同じ屋根の下で暮らしてきた妻の足運びくらい、気づいてもよさそうなものじゃない? 近衛の選抜剣士が聞いてあきれる。
それに、何より。
「ユーリシス様」
「なんだ」
「あなた、昨夜の試合で負けましたよね」
「ああ。完敗だった」
「右の小手をもぎ取られて、喉元に穂先を突きつけられて、降参なさいましたね」
「なぜそれを」
ユーリシスが怪訝そうに眉をひそめた。貴族の非公式な賭け試合のことなんて、貞淑な奥方が知っているはずがない、という顔だ。
私は椅子の背にかけておいた革鞄を引き寄せた。
真鍮の留め具を外し、油布ごと重たい塊を引っぱり出して、テーブルの真ん中へ滑らせる。
ごとん。
磨かれた白木の食卓に、無骨な銀の小手が転がった。
手の甲にはアレン家の家紋、三つ葉の刻印。そのど真ん中に、昨夜、槍の石突で叩き割られた深いへこみが生々しく残っている。
ユーリシスの視線が、小手に落ちた。
固まった。
ぱち、ぱち、と二度まばたきをする。
「え?」
「昨夜、あなたが『参った!』と叫んだあと、記念にいただいてきたものです」
「あ……?」
「手入れがなってませんね。留め金の革紐が汗で傷んでましたよ。あれじゃ下からの跳ね上げに耐えられなくて当然です」
私は、淑女の作り笑いを貼り直すのをやめた。
両肘をテーブルについて、指を組んで顎を乗せる。演武の合間に、控室でいつもしている格好だ。
「三年契約の満了、結構ですよ。もともとアレン家の家名と、うちの実家の借金を帳尻合わせするための政略結婚でしたもの。でもね、ユーリ」
「エ、エレ……?」
「自分の妻に小手をもぎ取られて降参しておいて、翌日その妻に向かって『好きな人ができたから別れてくれ』ですって? どの口が言ってるのよ、この朴念仁!」
ユーリシスの首から耳の先まで、火がついたように真っ赤に染まった。
「お、お前、まさか」
「そうよ、馬鹿」
言い捨てた瞬間、夫は跳ね上がるように立ち上がり、椅子を派手に倒しかけた。テーブルが揺れて、すっかり冷めたスープの皿がかたんと鳴った。




