第9話 闇深く絶望が踊る
森の奥深く、そのさらに奥深く。獰猛な獣も棲まない静寂がある。湧き水は清く、飲む者の命を奪うという。けして入ってはならぬ森。その入り口に若者が独り立ち尽くしていた。
ごくりと息を飲み若者は一歩踏み出すと暗闇に紛れ込んだ。小枝が割れる音、葉が擦れる音、何かの鳴き声、羽ばたき、水の音。目が暗闇に慣れても、その度に黒は黒く、ひずんでいく。
ふと若者は恐ろしくなって足を止めた。しかし振り返っても来た道は暗く、また前を向いても行く道は暗い。次期に自分が何処にいるのかさえも分からなくなるのだと理解した。
目を開けていても閉じていても何も変わらない。ただそれをしているのかすら分からずに足だけを進めている。パキパキと小さな何かが崩れる音がして視線を落とした。何も見えやしない。暗闇だ。
小さな溜息が少しずつ漏れ出し、荒い呼吸になっていく。恐怖に飲まれている。若者はガチガチ鳴る歯の音を聞き、震える手で拳を握る。
「はっ……」
声に出してみるも、どうしてだか強く大きく響いてくる。自分の出す声すら恐ろしくなって若者は両手を体に巻きつけた。
「……俺じゃ、ない」
そうだ、俺じゃない。若者は細く息を吐く。俺じゃなかったのに。
十日前、若者の村では女が殺された。女は若者の恋人だった。酷く乱暴されてゴミのように棄てられていた。見るに耐えない女の遺体は女の家族がすぐに引き取った。その後だ。犯人探しが始まったのは。まるで魔女狩りのように、女と関係を持った者を公衆の面前に引きずり出した。
十人の男はそれぞれが命乞いのように「自分は関係はあった、しかし殺してはいない」と口々に喚き散らした。若者はそれを見ながら、目の前に横たわる女を見つめていた。綺麗にしてもらったとは言っても、口元は大きく裂かれている。女がどれほどまでに美しかったか、どれほどまでに優しく清らかだったかそればかりが浮かんでは涙と共に落ちていく。
若者の番となり「お前が殺したのか?」と問われ、若者は首を横に振った。しかし若者は昨夜女と会っていた。口付けを交わし、夜を共にしたのだ。嘘はつけず告白した。
それは決め手となった。若者は女を殺した殺人犯として決定された。十人の男の列で若者以外は喜びの声を上げたが、女の遺族は男達の前に立ち、一人ずつ首を落としていった。
若者は真っ青な顔でそれを見つめ、自分の前に立った血塗れの男を見る。男は女の父親で、若者を気に入ってくれていた。
「……最後に残す言葉はあるか?」
父親の目は汚れていた。もう若者の声など聞こえないほどに。だから父親の手に握られた斧が自分に振り下ろされることに絶望して若者は泣いた。その時だ。
「その若者はただ一人、彼女の亡骸を見て泣いていました。森へ追放しましょう」
群集の中から男の透き通った声がして、沸き立つように群衆も「そうだ」と声を上げた。父親は娘の亡骸を一瞥して斧を下ろすと、若者に囁いた。
「お前は娘を愛していた。娘もお前を愛していた。森へ追放する……もう二度とここへ戻るな。お前は娘を殺した」
若者は反論できずに走り出す。森へと走り出していた。
「……俺じゃ、ないんだ」
ぽつりと零す言葉が暗闇に融けていく。そして静寂に羽ばたきが混じると少し向こうに光が見えた。




