侯爵令息に内緒でコッペパンを楽しみます。
「ん~……いい香り。料理長、オーブンを開けていただいてもよろしいかしら?」
待つこと十五分――
ベアトリーチェは料理長にオーブンを開けてもらおうと声をかけた。
すると、わらわらと遠くで見ていた料理人たちが集まってくる。
「何が始まるんだ!?」
「こんな匂い……今までに嗅いだことがないぞ。」
(ふふっ……興味津々みたいね。)
料理長はミトンをはめた手で、オーブンの取っ手を持つと、深く息を吐いた。
「それでは……開けますぞ。」
料理人の緊張感が周囲にも伝わったのか、厨房内がシーンと静まり返る。
(まるで宝箱を開ける前の静けさね……)
ベアトリーチェは料理長の隣に立つと、にこりと微笑んだ。
「ええ、お願いいたしますわ。」
ガチャ
オーブンの取っ手が回り、ゆっくりと扉が開く。
扉の隙間からは湯気が姿を現している。
ふわり。
オーブンを閉めていた時よりも濃い香りが、厨房内、そして城内へと広がっていく。
料理長は中から天板を取り出すと、調理台の上に次々と置いていく。
三十個近く焼いたのだ。
天板一枚では到底足りない。
一、二、三、四……
次々と出てくる鉄板をみて、厨房内にいた全員が息を呑んだ。
「こ、これが……パン……?」
「いや、パンってあの平べったいか、丸くて硬いパンだろ?これは形すら違うじゃないか……」
調理台に並べられたそれらは綺麗な黄金色に焼きあがっていた。
表面には艶があり、今にも息を吐き出しそうなほどふっくらとしている。
(良かった……ちゃんと膨らんでるわ。)
前もってスコーンで効果は確認していたものの、パンを作るとなるとまた少し違う。
焼き上がるまでは、正直気が気ではなかった。
ベアトリーチェはホッと一息吐くと、天板の上に並んでいるパンに手を伸ばした。
「あつっ……あつっ」
右手、左手とパンを持ち替えながら、冷めるのを待つ。
「ふふっ、触っただけでわかるわ……みて?リネット。このふっくら加減……ふふっ……食べるのが楽しみね?」
「はぁ……お嬢様。言葉遣いが崩れておりますよ」
「こんな時くらいいいじゃない。それよりも……ほら!」
ベアトリーチェは持っていたパンを半分にちぎると、リネットの前に差し出す。
「リネットも食べてみて?あなたが頑張って作ったバターが入っているのよ?」
リネットは湯気の出るパンを受け取ると、目を見開いた。
「や、柔らかい……?これが……パン?」
「そうよ?これがパン。コッペパンって言うの。」
「コッペ、パン……」
リネットは信じられないような目で手の中のパンを見つめると、もう一度指先で軽く押した。
ふにっ
パンがスポンジのように沈み、離すと元の形に戻る。
それを何度か繰り返す。
「すごい……」
「でしょ?でも……驚くのはこれからよ?」
ベアトリーチェは一度そこで区切ると、料理長達にもコッペパンを渡した。
「私達もよろしいんですか?」
「もちろんよ。せっかくだし皆で食べましょ?」
ベアトリーチェは周囲を見渡し、全員にパンが行き渡ったのを確認すると、口を大きく開けた。
「いただきまーす!!」
ぱくり……
ベアトリーチェが一口食べるのを確認してから、恐る恐る口へ運んだ。
「……」
先ほどまでうるさかった厨房が、シーンと静まり返る。
オーブンからパチパチと薪の燃える音が響き渡った。
刹那――
「……んふ……んふ……ふふふふ……」
最初に噴き出したのはベアトリーチェだった。
(やっと……やっとよ……)
(柔らかいパンが食べられるなんて思ってもいなかったわ……)
「柔らかい!?」
「噛み切れるぞ!?」
「手でも簡単に千切れるんだ。当たり前だろ!」
「ふははははは」
「まさか、これがパン!?」
「はははははは」
「今まで食べてたのは一体なんだったんだ。」
「うま……柔らか……美味すぎる……これなら歯が折れないぞ……」
(……あの前歯……硬いパンに負けたのね。)
「ははっ……口の中が痛くない……幸せすぎる。」
パンを食べて涙する者、笑い始める者、大事そうに抱える者、無言で二個目に手を伸ばす者。
誰一人としてパンを天板に戻そうとするものはいない。
たった数分で、厨房内はお祭り騒ぎと化していた。
ベアトリーチェは厨房内を見渡して「ふふっ」と小さく微笑んだ。
「なんだかいいわね……こういうの……」
誰にも聞こえないくらい小さい声で呟く。
「どうかしました……?」
「ううん……なんでもないの。」
「そう、ですか?」
リネットはベアトリーチェを見つめて首を傾げると、天板の上に置いてあるコッペパンに手を伸ばした。
(ふふっ……気に入ったのね。)
いつも一緒にいてくれたリネットには、今まで苦労ばかりかけてきた。
ディオンの婚約者となってからずっと――
初めの出会いなんて脅しに近かったかもしれない。
それでも、ベアトリーチェを信じ、ずっと一緒に付いてきてくれた。
(あんなに笑ってくれるなんて……)
ベアトリーチェからしたらただのコッペパンだ。
しかしこの世界の人たちからしたら違う。
「これは、革命だ!!パン革命だぁぁぁ!!」
料理長が両手にコッペパンを持ち、調理台の上で叫んでいる。
(あーいうのって……ウイスキーを両手に持つものじゃないのかしら。)
「明日から、食卓のパンはこれで行くぞぉぉぉぉ!!」
「「うぉぉぉおおおおお!!」」
料理長の言葉に、料理人たちが雄叫びをあげる。
そんな姿を見て、ベアトリーチェはくすくすと笑った。
「すみませんが、パンにも色々種類がありますの。ですので……毎日同じパンはやめてくださると嬉しいわ?」
「ま、まだあるんですか?」
「はい。中にチョコレートが入っているものや、ジャムが入っているもの。塩パン、クロワッサン……サンドイッチ……色々ありますの……」
「ちょこれぇーとにじゃむ……とは何ですか?」
副料理長はベアトリーチェの言葉を拙いながらに真似ると首を捻った。
「ふふっ……その辺は追々お伝えさせていただきますわ。そのためにも今はこのパン作りに慣れてくださいませ。」
「そ、それもそうだな。」
「何をするでも近道はない。料理も修業も一歩ずつだ。」
料理長の言葉に皆が頷く。
「その意気ですわ!では手始めに……明日からコッペパン百個をノルマとさせていただきますわ。」
これからパンを広げていくには百個では足りないだろう。
そのためにはもっと上達してもらわなければならない。
ベアトリーチェはニコリと微笑むと、最後の一切れを口の中に放り込んだ。
「「ひゃ、ひゃ、百個ぉぉぉ!?!?」」
「ん~……おいしい……」
料理人たちの叫び声は、ベアトリーチェの口の中へと消えていった。




