リネットは今日も公爵令嬢を見守ります。
「ねぇ、リネット。」
「なんでしょうか。お嬢様……」
「ここはいい所ね。侍女や従者も、ギルバート様やファルクナー侯爵のことを尊敬しているのがよくわかったわ……」
(……またか……)
リネットは、オーブンの前で淡々と話すベアトリーチェを見つめた。
その表情は穏やかなのに、どこか感情が抜け落ちているようにも見える。
厨房内は、ベアトリーチェの表情とは似ても似つかわしくない、甘く香ばしい香りが漂っている。
「勝手に動かないよう、いつも申し上げているではありませんか。」
ベアトリーチェは肩の力をふっと抜くと、リネットの方へ振り返った。
「ふふ……仕方ないじゃない。これは一種の……職業病のようなものだわ。それに……」
ベアトリーチェはそこで一旦区切ると、ふわりと微笑んだ。
「リネットも知っているはずよ?情報が大切なこと……」
ベアトリーチェは「それ以上話すことはない」とでも言うように、再び焼き上がりを待つオーブンへ視線を戻した。
「はぁ……」
(……昔から変わらないわね……)
リネットがセイレート公爵家に仕えて八年――
ベアトリーチェと初めて顔を合わせた頃、彼女はまだ十歳だった。
(小さかった頃が懐かしいわ……)
そんな幼いベアトリーチェに目をつけたのが、リネットの父だった。
王家に取り入るために、婚約が決まったばかりのベアトリーチェの侍女としてリネットを送り込んだのだ。
(……あの時も助けられたのよね……)
『リネット。あなた、ご両親と縁を切るべきだと思うの。もしよければ……わたくしの本当の侍女になってくださらない?』
『遅かれ早かれ、あなたの父は投獄されるわ。いえ、よくて投獄、悪ければ処刑ってところかしら。』
まだ婚約したばかりの少女が――
王城の裏側を、まるで最初から知っていたかのように口にしたのだから……。
『それは……どういう……?』
幼い少女はきょとんとした顔でこちらを見つめると、小さく微笑んだ。
そして――
『そのままの意味よ。でもこれ以上は話せないわ。だって、あなたがまだわたくしの味方かどうか分からないのですもの。』
一枚の紙とペンを取り出し、リネットの前に置く。
『これは、誓約書。』
『わたくしと、リネットのね。』
ベアトリーチェは自分とリネットを交互に指さすと、最後に誓約書へと視線を戻す。
『きちんと読んでから、この先を聞くか、このままでいるかを決めてちょうだい。別にあなたがこのままがいいと言っても怒らないわ。ただ……』
ベアトリーチェはそこで一度区切ると、リネットをじっと見つめた。
獲物を捉えたようなその目にリネットは動けなくなった。
目の前にいるのが八歳の少女とは思えなかった。
『わざわざ婚約者をあなたの義妹に渡し、自分の欲望のために実の娘を家から追い出すような家族……』
王城へきた時、リネットは全てを捨ててきた。
実母が無くなってすぐ、外で囲っていた愛人を父は家の中へと入れた。
義妹と言っても年齢は同じ。たった数日、誕生日が早いだけ。
なのに姉なのだからと我慢を強いられる毎日。
だが――
その話を知っているものはほんのわずかだ。
それを、目の前にいる八歳の少女は知っていて当然とでも言うように淡々と話す。
『縁を切った方がわたくしはいいと思いますの。』
『それに……わたくしといれば……』
まるで今までの話など最初から存在しなかったかのように、ベアトリーチェは楽しそうに笑った。
『ふふっ、美味しいお茶と、お菓子をご用意いたしますわ。』
『どうかしら。魅力的でしょ?』
(あれから八年……早かったわね……)
リネットは十八歳となったベアトリーチェに目を向けた。
オーブンの前で膝を抱え、鼻歌を歌いながらスコーンとやらが焼けるのを待っている。
「ベアトリーチェお嬢様。」
「ん?なぁに……リネット?」
その姿は見た目こそ侍女だが、どこからどう見てもただの公爵令嬢だ。
「いえ……なんでもございません。」
「あっ、もしかして早くスコーンが食べたいのね?もう少し待っていてちょうだい。あと少しで焼けるから。あっ、あなたにミッションを与えるわ!」
ミッションと聞いてベアトリーチェに初めて頼まれたことを思い出す。
『リネット!あなたに初めてのミッションを与えるわ。』
『……ミッションですか……?』
ベアトリーチェは満面の笑みを浮かべると、近くにあったカップとポットを取り出した。
『そうよ!このお菓子に似合う紅茶を淹れてちょうだい!もちろん……』
「あなたの分もね!」
そう言ってウインクするベアトリーチェに、リネットはくすりと笑った。
あの日より少し大人びた声が、リネットの耳に重なる。
(あの時、ヘロンの名を捨てて良かったわ……)
リネット・ヘロンがただのリネットとなってから、世界が大きく変わった。
ベアトリーチェに振り回される日々ではあるが……
それでも家族とも呼べない監獄にいるよりは今の方が幸せだ。
「承知しました。美味しい紅茶を準備いたします。」
「ふふっ。今日はちょっとバターの風味が強いと思うから、渋めの紅茶がいいわね。」
「バターですか……?」
(また、知らない言葉が出てきたわね……)
「そう、バターよ。きっとこれが商品化できたら……ふふっ……世界が変わるわ!」
「は、はぁ……とりあえず渋めの紅茶を準備しますね。」
リネットは小さく首を傾げると、茶葉を取りに部屋に戻った。
「早く焼けないかしら。」
遠くでベアトリーチェの声を聞きながら、リネットは小さく笑みを零した。
「くすっ……本当に、昔から変わらないわね。」
お菓子や紅茶が大好きで、興味があればどこまでも追い求める。
そんな彼女をずっと傍で見守ってきた。
欲しい紅茶があれば、次期王族を盾に王族のみが許された図書室へと足を踏み入れ……
食べたいものがあれば、これまた権力を盾に領地訪問までしてしまう。
(見ていて飽きないわ……)
「お嬢様が待っていますし、早く戻りましょう。」
リネットは自分の独り言が誰かに聞かれているとも知らず、茶葉を手に厨房へと戻っていった。
その背を見送る影がひとつ――
「……なんだか面白そうだな。」
廊下の柱にもたれかかっていた男は、小さく口角を上げた。
「あいつを誘って行ってみるか。」
気配を消したまま踵を返す。
その場に残ったのは、微かに揺れるカーテンだけだった。




