宰相の異変 王太子アルバートは戸惑う
王太子、アルバート・ノルディアの28年の人生に確かなものはほとんど、なかった。
正妃たる母は、アルバートが3歳の時に倒れた。
その身に第二子を宿したばかりの時だった。
毒を盛られたのだろう。母は伏せがちになった。
アルバートは幼い弟妹と共に育つ未来、そして健やかな母を奪われた。
間をおかず、父王は側妃を娶り、終生の敵対者となる弟が産まれる。
側妃とその派閥が力を増すにつれ、正妃である母の実家は力を奪われ、王の庇護はアルバートから薄れていく。
王宮での扱いは光のささない、陰に追いやられたものとなった。
救いであったのは、彼自身の聡明さと数は少なくとも忠誠心あつい側近たちがいた事だ。
貴族の子女が通う王立学園に12歳で入学した時、異例の寮生活が指示された。
その時にはすでにアルバートの立太子は風前の灯火と化していた。側妃の寵愛と王宮の期待のあつい第二王子の王位継承が確実視されていたからだ。
王宮を離れ、絶え間ない暗殺の危険と引き換えに、アルバートには5年間の自由がもたらされた。
彼は大いに学び、人脈を蓄えていった。
側妃の派閥は傲慢が過ぎ、コネと賄賂を厭うた実力ある者たちは、王家の希望をアルバートに見出し、その御許に密かに集った。
中でも、アルバートが1番に信用していたのは、一歳年上の側近、ハミルトン侯爵家が嫡子オリバー・ハミルトンだった。
有能だったが万能ではない兄のような男。
決してアルバートの王位への行程を不可能だとは言わなかった。
王冠を求めることを正統だと肯定した。
出来ないとは決して言わず、条件を提示して時期を待つと言った。
なにより、呪いを受けて忘却の川を渡りかけたアルバートを今世に連れ戻してくれた。
それほどに王太子アルバートの信頼厚い宰相オリバーなのだが。
壊れた、らしい。
馬鹿を言うな、と宰相の執務室に足を運んだアルバートが見たのは、窓に向けた椅子に浅く腰掛け、足を放り出し、ついでに職務も放り出して、虚ろに天井を見つめる若き宰相オリバーだった。
宰相、ハミルトン侯爵、オリバーとひと通り呼びかけたが反応がない。
「いつからだ?」
宰相室付きの文官が答えるには、朝からと。次いで、昨夜からかもしれない、と付けたした。
つけっぱなしの卓上ランプ、床にこぼれ足跡のついた書類。
一晩中、迷い歩いた残滓かもしれない。
どんな時でも万年筆を手放さず、内政、外交を回してきた男の、このていたらく。
原因を問うても、文官達は首を振るばかり。
(なぜ?)を一番知っているオリバーの侍従、ゼイン・カーノスの所在を問うても、同じ。
やむなく、アルバートは人払いをすると、オリバーの傍に歩を進めた。残った側近は、オリバーとも幼い頃より知己がある。3人とも幼馴染というやつだ。
目の前に立っても自分を認識しない友を見つめてアルバートは思う。
こんな風にオリバーに話しかけるのはいつ以来だろう。
「なぁ、オーリ。どうしちゃったんだよ。俺のことわかる? お前の殿下だよ、返事しろよ、オーリ」
甘えるような、相手にされないのをすねる弟のような声音で呼びかけた。
初めて反応があった。
「妻が離縁の準備をしてるようです」
えっ? とアルバートは側近のダグラス・ハーベストと顔を見合わせる。
妻というのは、遺言で結ばれた白い結婚の相手のことか?
書類だけを王宮に提出し、ほったらかしにしているというお飾りの妻のことか?
あっけに取られる王太子を尻目に、オリバーの長身がゆらりと立ち上がる。
濃い金髪を肩下まで伸ばし、剣術もたしなむという広い肩幅、鍛えられた体躯。
濃い紫の瞳をひたと主に据えると、宰相オリバー・ハミルトンは恭しく右手を胸に当て腰を折った。
「愚考致しました結果、一身上の都合により宰相の職を辞することに致しました」
覆ることのない決意を込めて言った。




