引き出しの中 側近ゼノンは語る
侯爵、と話しかけても返事がない。
側近であるゼイン・カーノスは仕方なく、今度は友人の立ち位置で「オリバー」と呼びかけた。
「なんだい?」と、応える声が思いがけず気安い。
「余計なことだとは重々承知しているんだが、君が忙しすぎて心配なんだ」
イソガシスギテシンパイ
思いあたるふしがないらしく、署名をしながら抑揚のない声で反復された。
執務室に入るなり、オリバーは仕事に取りかかっていた。
積まれてあった書類が瞬く間に処理されていく様は見事だった。
数枚、横に置いたのはきっと不備があるから。
信頼している執事の仕事とはいえ、己が侯爵家の領地経営、流し見としか思えない速度であったとしても、オリバーはしっかり精査している。
そう、とても出来る男なのだよ、オリバー・ハミルトンという奴は。
王立学院で机を並べて学んだ仲だ、ゼインこそが誰よりも承知している。
だから、みんなが頼りきる。
王も王妃も。
大臣達も書記官も。
外交官も騎士団長も。
助言という軽い言葉で最終確認を求めオリバーを拘束する。
結果、新婚だというのに半年も新妻の顔を見ない仕事漬けの朴念仁が出来上がった訳だ。
コイツ、嫁の顔や名、記憶にあるかな。
妻に帰宅を知らせるなって、妻がいること覚えいたとは、驚いた。
そして、学院時代から電撃結婚するまで女っ気のなかったこの男が、婚姻という枠の中でどのように彼女に接しているのか、ゼインは心配でたまらない。
どんな美女も路傍の石を見るごとく無関心な男だ。
妻を名前で呼んだことがあるのだろうか。
まさか、初夜に『君を愛することはない』なんて言ってないだろうな。
いや、結婚式も初夜さえもなかった。言う隙がない。
えっ、じゃあ今夜こそが初めての夜? うんうん、日中の一時帰宅はあったけど泊まりで帰ったことなかったよなー。
「ひっ、久しぶりの帰宅なんだ、奥方と、その、寝酒とか飲んだら、どうかなー」
ひっくり返ったゼインの声に、オリバーの応えは「飲まない」とそっけない。
いつの間にか立ち上がり、武官めいた長身をもう一つの机のわきに移している。
それは側近であるゼインの机だが、昨今の使用者は自分ではない。主人にならってゼインも王宮に詰めている。
現在、その机の椅子に座るのはオリバーの妻であるハミルトン侯爵夫人、アリーア・ハミルトンだ。
机上は書類と帳簿であふれている。
その散らかりようをゼインは意外に思った。
アーリア侯爵夫人は、ふんわりとしたムードの方だが、実務に明るいというのが彼の印象だった。
美しく、控えめで、少し年増の元子爵令嬢、寄り親がいささか問題ではあるけれど、ゼインの感触としては2人の相性は良い。なんとなくだ、なんとなくだがビビビッときたのだ。
比翼連理を感じたのだ!
だから、オリバーにマズイことをして欲しくない。
なんと告げるべきだろう。
言葉を探しながら、ゼインはオリバーがアーリア夫人が開いたままの帳簿を閉じるのを見ていた。
あるものは閉じ、あるものは開いたまま書き込みをしている。
そして、オリバーが引き出しを開け、動きを止めたのを見た。
中をのぞいて、顔色を変え「そんな、アーリア、なぜ?」と苦いつぶやきをこぼすのを聞いた。
次の瞬間、オリバーの足下に魔法陣がきらめき、姿が消えた。
「はぁああああー!」
ゼインはいままでオリバーが立っていた場所に走り、意味もなく床を踏みしめた。
魔法陣はとっくに消えている。
確かにオリバーは少しばかり魔法を習得したとゼイン告げていた。学院時代のはなしだ。
指先に熱くない光を灯してみせたことがある。
だが、転移魔法だぞ、王宮魔術師にだって可能な者は少ないと聞いている。しかも、無詠唱だ。
どこに跳んだ?
なぜ、跳んだ?
[なぜ?]はわかるかもしれない。
ゼインはまだ開いたままの引き出しに視線を落とした。
生唾を飲み下した。
離縁状。アーリア夫人の署名も黒々と、正式な離縁状がそこにあった。
触れてはじけるのを恐れるように、ゼインは人差し指の先で引き出しを閉め、見なかったことにしたいと痛烈に願った。
まあ、無理だ。
オリバーは彼が唯一、忠誠を誓い、生涯仕えると決めた主人だ。その危機は、なんであろうと助けねばならない。
ゼインは大きく息を吸い、吐いた。
なぜ? がわかれば、どこへ? もわかる。
仕事人間が動揺して逃げ込む先は王宮の執務室ぐらいだ。
ゼインは、荒々しく扉を開けて廊下に出た。
執事を探して廊下をいく。
オリバーの元に駆けつけるより先にしなければならないことがある。
嫁いで半年、アーリア夫人が離縁状をしたためるに至った経緯を、できるだけ細かく調べなければならない。
執事と侍女頭、他数名、話を聞く人間をリストアップしながらゼインは、この半年、アーリア夫人の身に何が起こっていたのか、探りだす決意だった。




