異郷
じとじとと肌に纏わりつく重たい空気に、多岐はなかなか寝付けず、諦めたように身を起こした。外の空気が吸いたくて、玉簾をくぐり、回廊に出る。月はすっかり傾いていて、斑鳩の寺の屋根の上に落ちて行きそうに思えるほどだった。
今年の夏は格別暑い。そう、思うのは、この身が常と違うからであろうか。多岐はすっかり丸みを帯びた腹に手を当てた。
ぼこぼこっと中の子が多岐に応えるかのように、腹の奥から手やら足を突き上げる。伝わる命の鼓動。嬉しいとも愛しいとも思う。
けれど、喜びのみに浸れないのは、多岐に課せられた使命が、あまりに重たいからであろうか。
「――山背王と彼と仲の良い豪族がいる。彼らの動向を探って欲しい。半月ごとにこちらから人を遣わす、その者に異変があったら逐一報告せよ。生まれ育った紀の国を出る時、叔父はそう多岐に命じた。単に采女として中央に上がるのではなかったのか。多岐は嫌だと首を振る。けれど、弟を盾にされては、何も言えなくなる。
待遇に不満があれど、父母を失くした多岐と弟を、引き取ってくれて、育ててくれたのは、叔父夫婦なのだ。
彼らに見捨てられれば、自分たちは路頭に迷っていただろう。多岐は恩返しのつもりで、首を縦に振っていた。
多岐が向かったのは、飛鳥ではなく、斑鳩の地だった。と言っても、地方出身の多岐には、ふたつの地の違いなど、最初はわからなかった。ここには大王はいないのかしら…。広い敷地に点在するいくつもの塔やお堂は、荘厳できらびやかで、粗末な掘っ立て小屋しか見たことのない多岐の目を奪った。
多岐はもともと、斑鳩の山背王に使えるように、手筈が整っていたものらしい。そうでなければ、目的が達せない。叔父が手を回していたのだろう。
最初のひと月くらいは、他の采女たちとともに、仕事を教えられた。宮内の決まり事や歩くの仕草、何かを命じられた時の受け答えにまで、厳しく指導が及び、覚えることだらけで、頭の中が破裂しそうなくらいだった。
けれど、繰り返し教えられるうちに、叱られることも少なくなり、多岐自身もここでの暮らしに馴染んできた。
忙しさにすっかり心から抜け落ちていた、彼女に課せられた最初の指名を思い出す。
――山背王と、彼と仲の良い豪族の動向を探って欲しい
だが、未だ多岐は山背に会ったことがなかった。
自分が入りたての新入りだから、宮の主に会うことなど叶わないのかと思っていたが、どうもそうではないようだった。なぜなら、かなり長く勤めている采女でさえ、山背の姿を見たことは一度か二度で、言葉を交わしたこともないという。
山背王は人嫌いで、堂に籠って瞑想してるばかりの日々を送っているらしい。
(それじゃあ叔父上に頼まれたことも、到底できそうにない…)
多岐は何処かほっとしていた。
人を探るような仕事、本当はしたくない。
月に一度、叔父から送られてくる使者には、悉く「まだおめもじかなわないので…」と言って帰していた。
だが偶然にも山背と接触する機会が出来てしまった。
夏の早朝。宮内のすべての戸を開け、光を取り込み、新鮮な空気に入れ替えるのは、多岐達新米の采女の仕事だ。多岐もいつも通り、宮を隈なく回り、その務めをこなしていた。
扉は重たく、場所によっては立て付けも悪い。けれど、壁と扉の隙間から少しずつ、朝日が覗き、光が建物に満ちていく様子は、いつも清々しく快い気分になる。
更にその日は多岐の開けた隙間から、雀の子が舞い込んできた。
「あら、可愛い」
まだ飛ぶのが上手くないのだろう。ちょっと羽をばたばたさせては、すぐに足が地についてしまうのだ。
しかも、板は雀の小さな足を引っかけてしまう、無数の傷や溝があって、歩くのすらおぼつかない。
(逃がしてあげないと…)
多岐は一旦この手に捉えて、外に放してやろうと思った。
雀の歩く後ろから、手を伸べ、捕まえようとするのだが、多岐の意図を知らぬ雀は、捕まるまいとしてか、その瞬間に羽を羽ばたかせ、空を飛び、また少し先の地に着地する。
「もう」
何度も試みては失敗し、無意識にそんな独り言が口をついて出てしまう。
「捕らえてどうする」
床に這いつくばった多岐の頭上で、からかうような声がした。
「え」
多岐は雀から視線を逸らし、正面に向き直る。
多岐の見たことのない男が立っていた。無精ひげに着崩れた袍。だが佇まいは、凛としていて品がある。
財王や日置王など、この宮の大体の王の名前と顔は、ほぼ覚えてしまった。
知らぬ…ということは、この方が山背王だろうか。
「迷い込んでしまったようなので、逃がしてあげようと存じまして」
声をうわずらせながら、多岐はそう答えた。
「…なら、手を貸そう」
その男は目くばせで、多岐に再び雀をとらえよ、と合図する。挟み撃ちにするつもりらしい。
多岐が背後から、男に正面から追い込まれ、ついに雀の子は諦めたように、多岐の細い手の中に収まった。
優しく包み込んだまま、回廊から外に出て、柔らかな草の上にそっと放す。雀の子はあっという間に空に飛び立っていった。
「…良かった」
ほっと胸を撫で下ろす。
「優しいな」
いつの間に隣にいたのか、男が隣に立っていた。
「あ…」
もしこの人が多岐の想像の通りの人物ならば、自分のしたことは無礼ではないのだろうか。
多岐は即座に膝を折り、頭を低くしようとする。が、すぐに制された。
「気にするな。俺はそんな偉い人間じゃないから」
そう言って、その人は何事もなかったかのように、母屋に戻っていった。彼がやはりこの宮の主、山背王だと、多岐が知るのは、この日から三日後のことだった。




