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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第5章 寂寥の明日
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朱夏の邂逅



「夏の頃には完成を見てるよ」

片岡にはそう宣言したのに、思いのほか学堂の工事は難航し、雨続きの天候にも祟られ、予定は大幅に遅れた。

「何だ、まだ出来ぬのか。阿部殿の子息も興味がおありだと言っていたのに」

父にまで揶揄を含んだ催促を受ける始末だ。だが、入鹿は焦ってはいない。急かしたっていいものは出来ない。

なんだかんだ言って、この国では初めての施設である。みなの関心も高いのだろう。


今日は宝皇女と大王まで来ていた。当初は蘇我の私財のみで建てるつもりだったが、入鹿と旻の計画は田村の気に入るところとなり、かなり材木などを都合してくれた。

「面白くなりそうですね」

外枠だけが出来上がった建物の中に入り、ぐるりと四囲を見回しながら、田村は呟く。

「期待しています」と大王に手を握られ、旻は歓喜して、何度も「はい」と頷いていた。

人当たりは穏やかではあるけれど、田村は割と言うべきことは言う性格らしい。先だっても、近頃朝参に遅れがちな大臣毛人以下、何人かの群臣たちが、直接諫められていた。廟堂の真ん中、他の豪族たちもいる中での出来事で、「恥をかかされた」などと、毛人は憤っていたが、当の田村は毛人たちの苦情も耳に入っているはずなのに、平然と黙殺している。

今も、息子の入鹿を前に、父のことは名も出さない。

大王たるもの、一家臣の機嫌などにいちいちかかずりあってはいられない。そんな矜持を彼は持っているようだ。


供のものを連れ、工人たちに「危険ですから離れてください」などと言われても、宝は動ぜず、ゆっくりと外壁を回る。

感慨深げに屋根に葺いた茅を見つめ、「あやも通えれば…」とぽつりと語っていたのが、印象深かった。



「すっかり日に焼けましたね」

嘉陽が目を瞠るほど、冠を取ると額にくっきり日焼けした部分としていない部分が分かれてしまう。袍の袖から伸びる腕も、浅黒くなるまでに入鹿も旻も日焼けした夏真っ盛りの頃、学堂は完成した。

唐帰りの僧が、かの国の制度や書物、歴史などを講義してくれる。物珍しさに相俟って、旻は話上手だ。瞬く間に飛鳥中に噂は広まり、連日学堂は人が集まり盛況だった。


「予想を上回る人の多さだな…」

今日も中に入れなかった。締め出される形の格好になった入鹿は、建物の外から中を窺う。

暑いせいか、入口の扉は開いたままになっていて、外からでも中の様子は見えるし、旻の声も響いてくる。

「もっと広く作ればよかった」

ひとりごちて悔やむと、ともについてきた止利が「隣にも作りましょうか?」などと嘯く。講師もいないのに、入れ物ばっかり造ったって意味がないじゃないか。いずれは、もっと大規模な施設を目指すとしても。

「…定着したらな」

入鹿は止利の言葉に冷静に返した。


唐には科挙という制度があるという。

身分の低い者でも、試験に受かれば役人に登用されるという制度だ。間口を広げるのは素晴らしいことだと思う。実際、豪族の跡取りの中には、家柄に満足し、ただ朝堂に侍ってるだけで良しとするような者もいるのだし、下からそういう突き上げがあれば、彼らもうかうかとはしていれらまい、

だが一方で入鹿の胸には疑念も浮かぶ。

身分の低い者など…果たしてその能力としては、いかほどのものだというのだろうか。

卑しい生まれの者が、いかに勉学を積んだからと言って、われらに比肩することが出来るものなのだろうか。入鹿には甚だ疑念だ。


「若。日差しが強うございます。今日はお屋形にお戻りになられては…」

黙ったままの入鹿をなんと心得たか、止利が気遣ってくる。

確かにここでは、直射日光は遮れないし、今日は小川を吹き抜ける風も止んでいる。じわりと額に滲む汗に気づき、手のひらで拭おうとした時だった。

小川の対岸に立ち尽くす人影を認め、入鹿は岸辺に歩を進めた。


川、と言っても、瀬は浅く幅は狭く、夏の盛りならば尚更、ばしゃばしゃと足を踏み入れ、容易にわたって来られる距離だ。しかし、向こう側の人物は、学堂の様子を気にしつつも、目の前に流れる川を越えてこようとはしない。

入鹿が土手に立つと、男は「あ」と漏らしてから、即座にその場に跪いた。

頭をたれ、目を伏せた人物の顔に、入鹿は目を眇めた。何となく見覚えがあるような気がしたのだ。しかも、明らかに向こうはこちらを知っている。

「何をしている」

此岸から声を掛けると、彼は顔を上げ、「あ、はあ…」とどもり出す。

「こちらに来たらどうだ」

命じるように言うと、彼はのそっと立ち上がり、裾を持ち上げながら、川を横切ってやってきた。

目の前にやってきた男は、かなりの巨漢だった。入鹿が目線を上げなければならない男は飛鳥では珍しい。

ちろっと下から睨むと、彼は再び膝を折って、這いつくばる。それから、上ずりながらこう言った。「お、お久しぶりでございます。蘇我様」

「……」

身分柄、入鹿の知らない人物が、彼を知ってることは珍しくない。だが、彼のこの言い方は…明らかに何処かで入鹿に会っている物言いだ。が、入鹿は思い出せない。

「顔を上げろ」

きっと上げられた視線が、彼を見下ろす入鹿のそれとかち合う。体の鈍重さに反比例するような老成した鋭い眼差し。その光には覚えがあった。

「おまえ…あの…」

そうだ、思い出した。あの時は、行き倒れ寸前でやせ細り、肌も汚れて薄汚かったから、全く風体が違っているが、斑鳩宮で山背が気まぐれに助けたあの東国の少年だった。


「中臣鎌子にございます」

低い、だがしっかりとした張りのある声で、男は名乗る。

「…あ、ああ」

そういえば、叔父の中臣御気子みけこを頼って、三嶋に行くとか言っていたか。

あれから既に十年もの月日が経っている。少年の変貌も無理はない。

「三嶋からまたこちらに来ていたのか」

「はい。いつぞやの折は大変お世話になりました。同じ飛鳥にいながら、ご挨拶が遅れたこと、真に…」

「いや」

立て板を流れる水のごとく、滔々とした淀みない弁舌を、入鹿は途中で遮った。

「あの折、お前を助けたのは俺じゃない。礼なら斑鳩の山背に言ってくれ」

助けた男がこんなにも大きく成長したと知ったら、きっと喜ぶ。山背はそういう男だ。だが、入鹿は違う。あの時だって、助ける必要などない、と啖呵を切って、山背と衝突したのだし、そもそも胡散臭い少年だと疑ってかかり、彼の荷物まで暴いたくらいだ。

礼など言われる理由は微塵もない。

「今日はどうした」

入鹿が尋ねると、鎌子は更にまくし立てた。

「はい。唐帰りの学僧が開いている学堂があると聞き、私なぞでも入っていいものか、そこから様子を窺い、連日思案に暮れておりました」

大柄な体躯に似合わず、鎌子は殊勝なことを言う。

「豪族の子弟であるならば、位の高低は問うてない。これは、大王と旻殿の意思でもあるしな。ただ、今は満席だが」

「左様でしたか。残念です」


しかし、次の日から毎朝いちばんに鎌子は堂を訪れ、いちばん前列に座り、講義を聞いているという。

「なかなかの博識ですね、鎌子殿という方は」

旻でさえも、舌を巻くほどに熱心で、聡明だという。まだ通い始めてひと月も経たぬというのに、頭角を表すのだから、大した男だ。

「…そう」

旻の賛美に入鹿はぎこちなく相槌を打つ。

斑鳩で出会った時から、聡い少年であることはわかっていた。野心家であることも。そして、山背に庇われうやむやになってしまっていたが、斑鳩宮の財物をこっそり持ち去ろうとした油断ならない男であることも。

無論、幼い頃の話ではあったし、生きるのに必死な少年が闇雲に生きる手立てを探した結果に過ぎないのかもしれないが、それでも入鹿はあの男が好きにはなれない。


こんなこと言ったらまた「…若は好悪の情が激しすぎます」と、嘉陽とか止利辺りが尤もらしく差し出口を挟んでくるから、あえて言葉には出さないが。

「近頃入鹿殿はお見えになりませんね。入れ物を作っただけで満足されてしまいましたか?」

今日も夕刻、講義が終わり、皆が散るころを見計らい、酒を携えて訪れた入鹿に、旻はちくりと刺す。

「そういうわけでは」

つい寝過ごして、入り損ねてしまうだけです、と笑いながら言うと、入鹿は青銅の盃になみなみと酒を浸し、旻に渡す。こぼしそうになりながら、旻は慌てて口をつけ、半分ほど飲み干すと、濡れた唇を手の甲で拭い、満足げに笑う。

「仕事あがりの酒はまた、体に染み入りますね」

「それは良かった」

二杯、三杯と重ねるにつれ、旻はどんどん饒舌になる。学堂での講義は上辺の理想論的な畏まった話が多いが、こうしてふたりだけで酒を交えながらだと、途端に愚痴も不満も多くなる。入鹿はそれを聞く方が好きだ。

「時に入鹿殿、斑鳩宮の姫はお元気ですか?」

ふいに聞かれて、片岡の勝気な黒目を思い出して、入鹿は返事に詰まった。学堂のことにかまけ過ぎていて、足が遠のいている。

またあの黒目を滲ませながら、恨み言を言われてしまうだろうか。


「…恐らく」

そういえば、山背と多岐の間の子どももどうなったであろうか、そろそろ産み月のはずだ。明日は久しぶりに斑鳩まで赴こう。そう決めて、入鹿は手にした青銅の盃の酒を飲み干した。




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