ぬばたまの揺らぎ
月のものがまるでない。どうしたのだろうと訝しんでいると、急に胸焼けがひどくなり、食事も吐いてしまうことが多くなった。体調の優れない多岐を、山背が心配するのは当たり前で、多岐がどんなに大事無いから平気だ、と言い募っても、医師を呼ばれ、あれこれ聞かれて、身体を触られた。
医師の見立てに、多岐は驚いた。身ごもっていると言うのだ。
(山背様のお子を私が…?)
信じられぬ思いだった。恐る恐る腹部に手を当ててみても、生命の萌芽はまだ何も感じられない。本当にいるのかしら…。
半信半疑の多岐とは対称的に山背は大喜びをしている。多岐への寵愛も一層顕著なものとなった。それまでは、他の采女達と同じ棟で、簾に仕切られた部屋を使っていたのだが、山背の住まう部屋に近い、もっと広く独立した部屋を与えられ、采女としての仕事も殆どしなくて良くなった。と言うより、山背がさせてくれない。
「健やかな子を生むことが、お前の第一の仕事だから」
そう言って目を細める。山背にとっての子は初めてでもないのに、相当の浮かれようで、既に秦の一族の女性に乳母を請う程だった。
(これで、いいのかしら…)
里の叔父夫婦は、多岐の妊娠に諸手を挙げて喜ぶに決まっている。ひとつ、役目を終え、多岐も誇らしく胸を貼りたいのに、彼女の胸中は赤子がいるはずの腹部より、重たい。
兄の寵妃が懐妊した…という話は片岡の元にも入ってきている。
「お祝いなどはいかがされます? 片岡様」
緋良が尋ねて来る。開いた扉から、春の陽光と梅の香りが舞い込んできた。ああ、もう春なのか…と、季節の移り変わりの早さに驚くばかりだ。入鹿と難波を訪れたのは、つい先日のことのような気がするのに。
「お祝い」
そうねえ、と片岡はまだうら若い兄の寵妃を思い浮かべて首を傾げる。精のつく食べ物か何かより、宝玉とか衣とか、そういったものの方が、喜びそうだ。
「吉事に相応しい珍しい贈り物でしたら、入鹿に頼むのがいちばんと思うのだけど」
近頃、入鹿はここに来ない。なんでも、唐帰りの僧の学堂を作るとかで、その建設に携わって忙しいらしい。難波の港で出会った旻という学僧を、片岡は自然に思い出していた。
彼と話している際の入鹿は至極活き活きしていた。水を得た魚、みたいな。
入鹿と留学帰りの僧と、司馬で造ろうとしてる建造物の話は、ここ斑鳩に座していても、入ってくる。片岡には直接関わりがないとしても、入鹿が目標を見つけ、それに邁進してるのなら、嬉しいし邪魔はしたくない。
「お忙しそうですよね、入鹿どの」
「ええ、でも伝えてみます。何がいいかも打診して」
片岡が文を出して、3日余りの後、入鹿はひょいと斑鳩に顔を出した。
まだ春爛漫とは呼べぬのに、既に入鹿は日に焼けていた。どれだけ日中外にいるのかと、容易に察せられ、その熱の入れようにおかしくなってしまう。
「今はまだいいですが、夏の盛りなどお気をつけくださいね」
片岡が言うと。
「夏の頃には、もう完成を見てるよ。止利と一緒に大工の真似事なんてしないから、大丈夫」
そうカラカラと笑う。
産着にいいんじゃないかと思って。と、入鹿は上質の絹を持参してくれていた。なるほど、これなら多岐も喜びそうだ。ふたりで山背の元に、祝を届けに行くと、山背は上機嫌だった。
初めての子どもじゃないだろうに、好きな女の子どもと思うと、歓喜の度合いも違うのだろうか。入鹿がふと、そんなことを思ってしまうくらい、山背はこれまでの彼にはない浮かれようだった。
その傍らで、悪阻にたえながら、必死に居住まいを正して座り、ほそぼそとした声ではあったけれど、謙虚な謝辞を多岐は述べる。無論、妊れば女の方にばかり負担がいくのは当然なのだが、全く対照的なふたりだった。
「お前らのところも、早く子が出来るといいな」
山背は満面の笑みで入鹿たちに話を振る。
「そうだな」と入鹿は軽く、彼の話を流す。けれど、片岡にとっては軽く流せなかった問題だったらしかった。
「入鹿も欲しいのでは…?」
入鹿と片岡が山背の前を辞して、居室に戻り、少し間を置いてから、片岡はそんな質問をしてきた。脈絡もなく、唐突だったので、入鹿には最初、片岡が何のことを言っているのか、計りかねた程だ。
「は? 何の話?」
「さっき、兄上がおっしゃっていたではないですか」
そう説明を加えられ、初めて子どものことだと思い至る。
(子ども)
確かに豊浦の父などには、耳にたこが出来る程、跡取りが孫の顔が…と言われている。片岡のことは、もう匙を投げている感のある父だが、別の妻をもらえとは、最近よく言われる小言のひとつだ。無論、取り合っていないのだが。
「…そうだね、いずれ」
と、自分では言葉にしたものの、入鹿には現実感の薄い言葉だったのだが、片岡の受け止め方は、違っていた。
「…もし、このまま子が出来なかったら、入鹿はどうします?」
珍しく、片岡は不安げな声で、入鹿に問うてきた。
仮定の話は嫌いなくせに。いつだったか、片岡が言っていた台詞を思い出す。
「どうしたの? らしくない」
そう笑い飛ばして、軽く流そうとしたのに、いつになく片岡は真剣で、かつ執拗だった。
「でも、入鹿は蘇我の跡目を享けるものです。このままでは子どもも抱けない。…私には構わず、側女でも妻でも…」
「待ってよ、片岡。まだ父だって健在だし、俺も片岡も若い。どうして、自分の子が出来ない、って決めつけるの?」
「それは…」
先走って、入鹿の想定外のことばかり口にしていた片岡は、ふいに言い淀む。
「ごめんなさい、私は子が出来ない体質なのかもしれません…」
「どうして、そう思う?」
子が出来ない、と断定口調で、諦めている片岡の態度が気がかりで、尋ねると、片岡は悔しそうに下唇を噛み締めて、入鹿の知らなかった話をした。
額田部の大王の崩御のあと。山背と田村がその跡目をめぐって争い、片岡が泊瀬宮に囚われていた時、片岡は長谷に腹部を思い切り殴られたことがあるのだという。みぞおちに受けた強烈な一撃で、片岡は一時気を失ったらしい。
今になって明かされる恋人の危機に入鹿は衝撃を受ける。
「もしかして、その時のことが原因なのかもしれません。ごめん、なさい…今まで黙っていて」
床に細い指をつき、頭を垂れて謝る片岡。小さくなってる彼女を、入鹿は乱暴なくらいにその腕にかき抱く。
「…謝らないでよ。片岡のせいじゃないから。俺の方こそ、ごめん。あの時、もっと早く片岡を救ってあげてれば」
片岡の黒髪に何度も指を滑らせながら、入鹿は言う。彼の肩に額を埋め、滲んでいた涙を片岡はそっと入鹿の衣に引き取らせた。
跡取りがいないままで、済む立場の人じゃないのはわかっている。けれど、もし、彼の子を身籠る女がいたら、片岡は自分の心持ちに自信が持てない。悔しさと妬ましさで、どうにかなってしまいそうだ。
(私が入鹿のためにしてあげられることって、何かあるのかな…)
答えなんか出ない。未来がどうなっているかもわからない。けれど、今宵は共に明かせる
…。片岡は入鹿の背中に手を回し、彼の重みを受け止めた。




