春のさきがけ
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痩せた、と言うより少し引き締まったのか、華やかさと同時に、男らしい精悍さを身に纏った彼の姿に、宝は扇の下で嘆息した。
朝から宮全体が騒がしいと思ったら、久しぶりにこの男が現れたからだった。彼の姿を見た見ないで、きゃあきゃあ騒ぐ女官たちを先程は、「みっともないからおよしなさい」と戒めた宝だったが、やっぱり彼のいない宮中は物足りない。あるべき場所にあるべき人が戻ってきた嬉しさにはしゃぐ、彼女たちの浮かれ様も理解出来てしまう。
「久しぶりね、入鹿殿」
御簾越しに声を掛けると、ちょっと気まずそうに入鹿は笑う。
「長の休暇、申し訳ありません」
「そうね、貴方がいないと、寂しがる女が大勢だわ」
かく言う自分もそのひとりなのかと、緩む口元を抑えられなくて自覚してしまう。
恋なんて言うほど、甘ったるいものではないけれど、大后という肩の凝る立場にいる宝には、入鹿のような部下の存在はありがたい。
積もる話があるから…と、宝は側近の侍女たちを全て、さがらせて、御簾を取っ払ってしまう。どうせ彼には、散々無様な姿を見せている。立場が変わったからと言って、妙に畏まって対面するのは、宝の性に合わなかった。
「難波の海はどうでした?」
恋人の姫を伴っていったと聞いた。さぞや、楽しい旅だったのだろう。入鹿の充実した表情が、それを物語っている。
が、自分のことを得々と語るのが苦手な入鹿は曖昧に笑うだけで、大した土産話を聞かせてくれるわけではないのだが。現に今も「ええ」とか「まあ」とか「それなりに」とかばっかりで、具体的な思い出のひとつも出て来ない。
しかも、入鹿は全く宝の予期してなかったことを言いだした。
「今回帰国してきた者の中に、旻と言う者がおります。例えば、何処かに学問所のような物を作り、彼が会得してきた知識をこの国の若者たちに伝授出来たらいいと思うのですが」
「それは…旻殿の意思は? 大王には申し上げましたか? 大臣殿は何と?」
自分が許諾していい内容にも思えず、宝は別のことを聞く。
「大王にはまだ上奏してません。大后様のご意向を聞いて…と思ったので。旻本人の意思は確認済です。父にはこれから言います」
つまり宝に真っ先に相談を持ちかけてくれたようだ。優越感を覚えながら、更に質問を重ねた。
「何処に建てるつもりなのです。建物は?」
「豊浦の辺りがいいかと。建物は司馬に頼むつもりです」
「ではお前が私財を擲つということ?」
「それほど大げさなものにはしません。学生がどれほど集まるか存じませんが、10人も入ればいっぱいの小屋にするつもりです」
入鹿の中には、かなり具体的な構想があるらしかった。確かに実現すれば面白そうだ。それに若い群臣たちの励みにもなるし、知識の底上げも期待出来る。
「わかりました。私の方からも、大王に申し上げてみます」
「ありがとうございます」
父とも相談してまた来ます。そう約して入鹿は出て行った。向かったのは豊浦の屋形か司馬の工場か。帰ってくるなりこれでは、また彼の日々は忙しくなりそうだ。
「今いらしてたのは、蘇我殿ですか?」
入れ替わりにふらりと宝の前に現れたのは、宝の弟の軽だった。間髪置かずに入ってきたのだから、疑問形にすることはないのに、わざわざ名を持ちだしてくる。持って回ったような切り出しは、何か言いたいことがあるからだろうと、わかった上で、宝は軽の疑問をさらっと流す。
「ええ、そうですよ」
「一国の大后ともあろう人が、一介の臣下と直接対面するというのは、余り感心出来ることではない気がしますが」
軽は小難しい顔をして、したり顔の説教を始める。
「いいじゃない、疚しいことはないんだし」
宝はその日のうちに田村に入鹿の構想を話してみた。日頃余り喜怒哀楽を出さぬ田村だが、その話は面白そうに聞いていた。数日のうちに大臣毛人を通じての、学堂建立の上奏がなされ、田村も宝もすぐに許可を出す。
旻の学堂は飛鳥川の畔に建てられることが決まり、暖かくなるのを待って、工事は始められた。慣れた勢いで、司馬の工人達が縄張りを決め、杭を打ち始める。そして、その脇では入鹿、止利、旻が集まって熱い議論を戦わす日が多くなった。
「止利、ここはさ。戸は引き戸でなくて、観音開きに両側から開けた方がいいと思うんだ」
止利の引いた図面と現地を見比べて、入鹿が発した言葉に、止利は苦笑いを浮かべた。
「また若の凝り性が始まりましたな」
「その方が出入りがしやすいし、開放感もある。旻殿もそう思われますよね」
「ええ、まあ確かに…」
いきなり同意を求められて、旻は戸惑いながら相槌を打った。…建築の技術も知識も、自分には専門分野外だ。
「止利もその方がいいと思いますよ。しかしですね、若。物事には限りというものがございます。ご予算とか範囲とか。この狭さで戸をそんな凝った作りにしたら、完全に開ききりませんし、予算も超過してしまいます」
「そこを、止利の技術でなんとか出来ないものなの?」
「ご冗談を。止利は、職人であって、神でも仏でもありませんから」
和気あいあいというか、喧々諤々というか…。でも、楽しそうでは、ある。世代も立場も違う男たちの活発な議論を、嘉陽は寧ろ微笑ましく聞いていた・
昼食をお持ちしたのですが。
さっき、そう言って、自分はずっと握り飯の入った包みを持って立っているのだが、誰も気づいてくれない。
止利の描いた設計図に入鹿が注文をつけて、それに対して止利が無茶だと理を尽くして諦めさせる。間に入る旻はふたりのやりとりを面白そうに眺めている。そんな
日々が日課になりつつあった。
「いやしかし、入鹿殿って若って呼ばれてるんですね、ピッタリだ。私もそう呼ばせていただこうかな」
「やめてくれる?」
旻と入鹿の仲も良好のようだ。思えば、斑鳩の山背と片岡の兄妹以外に、入鹿がこんな風に素をさらけ出している相手を、嘉陽は初めて見た。
(若は少し変わったのかも…)
何処が、とはっきり指し示すことは出来ないし、本人も自覚はないのかもしれない。けれど、何かこう…彼の頭上を抑え込んでいたものが取り払われたような開放感を感じる。
「嘉陽、腹減った」
さっきまで旻と話していたのに、はっと気づくと入鹿が真ん前にいる。
「わ、わわっ」
嘉陽が驚いて、手から握り飯の包みを落としそうになるのを、入鹿は嘉陽の両手を掴んで制する。
「危なっ。何、焦ってんの」
「不用意に近付かないでくださいっ」
「あはは、悪い悪い」
闊達に笑いながら、入鹿は嘉陽の手から竹の皮に包まれた包を受け取る。「止利、旻殿、休憩しましょう」と入鹿が声を掛けると、止利が工人達にも制止を掛け、三人は飛鳥川の辺りに座り込んで、握り飯を食べ始める。
(…ああ、そうか)
と入鹿の表情を見ながら、嘉陽にはひとつ思い当たることがあった。
入鹿はよく笑うようになった。




