帰還
帰国して最初の朝を、旻は意外な場所で迎えた。差し込む朝の光は眩しく、回廊を行き来する人の足音も多い。
(そういえば、戻ってきたのだった)
舟特有の揺れがなく、久しぶりにどっぷりと眠った。しかし、身体が痛い。それに、肌寒い。目をこすりながら、重たい瞼を開けると、目の前には端正な顔立ちの男が、やはり板に直接、手枕で眠っていた。
一瞬記憶が飛んでいた旻は、男の顔を見て、漸く昨日の出来事を思い出す。そうだった。宴の後で、更に飲み明かしたのだった。
大臣家の御曹司――なんて、家柄に胡座をかいた、放蕩息子ばかりだと、旻は多少僻みにも似た偏見を抱いていたのだが、彼はちょっと違っていた。
好奇心が旺盛で、知識の吸収に貪欲だ。旻が話すことについて、即妙な相槌を打ってくるし、「たとえば、この国でその制度を活かすとしたら、どうすればいいと思う?」などど、聞いてくる。
終いには、「飛鳥の朝堂にて、大王に仕えるのもいいでしょうが、貴方の知識はもっと門扉を開き、いろんな者に広めた方がいいのではないか。例えば、唐で言うところの学校などを開くのはどうです? 微力ながら、お手伝いします」
などと、彼の身の振り方にまで、精力的に語ってくる。面白い男だと思った。そして面白そうな話ではある。
けれど、飽くまで酒の上での話だ。旻は全てを真に受けてはいない。旻だって、異国の地で数々の辛酸をなめてきた男だ。降って湧いた話に、全てを委ねてしまえるほど、単純ではない。
(酔った席での戯言と思っておけばいいのだよな)
幸せな夢だったと、朝起きて余韻に浸るくらいが丁度いい。旻は自らを軽くいなして、支度をしようと立ち上がる。
改めて祖国に帰ってきたのだと、実感したくて、寝てる男を起こさぬように庭に降りた。朝もやの立ち込める庭には松の樹があり、萩の花が生い茂る。普段住む者のない別荘にしては、手入れが行き届いた庭だった。
「この樹も見納めと思うと寂しいですね」
旻の背後で声がして、彼は振り返る。視界にいたのは。昨日酒席で入鹿の隣にずっと侍っていた女性――片岡女王だった。彼女はもうひとり、侍女らしい女を連れている。さきほどの台詞はその侍女の語りかけたものらしい。
旻が振り返ったことに気づくと、恥ずかしげに袖で顔を隠した。
「つまらぬ愚痴を聞かせてしまい、申し訳ありません」
「昨日は遅くまでこちらこそ、失礼しました」
「いいえ。お気になさらず。入鹿があんな風に初対面の方と打ち解けるの珍しいんですよ?」
昨日の様子を思い出したのか、片岡はくすくすと笑う。そうなのか、珍しいのか。意味のない優越感に、旻は浸りそうになって、慌てて自らを戒める。
「学堂を作るとか素敵なお話をしてましたね」
「いやまあ、雲をつかむような話しなので、何処でどうなるかわかりませんが」
「入鹿は寡黙だから。やるって言った数少ない事柄はホントにやるつもりだと思いますよ」
「そうなんですか?」
寡黙には思えなかったが。自分の前でも恋人の女王の前でも。
懐の入り口が凄く狭くて、奥が深い男なのかもしれない。だから、その内側と外側では、彼に抱く印象が違うのだろう。しかし、そうか。学堂が本気だとすると…どうなるんだろう。
学長。悪くはないが、想像が出来ない。それに。
「学堂を作るなんて話になれば、また入鹿殿はお忙しくなりますね。よろしいのですか?」
笛でさえ、他人任せに出来ない男だ。建物の着工から張り付いてああでもないこうでもない言いそうだ。
「よろしいって?」
旻の質問の意味がわからないのか、片岡は小首を傾げる。
「いや、あの…お寂しくならないかと」
入鹿と片岡。理想的な恋人同士に見えたのに、普段は飛鳥の地と斑鳩の地に離れ離れなのだという。旅先の空の下、共に起居出来る今が『特別』なのだと入鹿はふとさみしげに笑っていた。
只でさえ距離を置いた生活を強いられるのに、時間までも他のことに奪われてしまったら…と、旻は何故か彼らしくないお節介をしていたのだ。
「寂しくないと言ったら嘘になりますけど…。でも、入鹿が私のことに気を取られて、やりたいことも出来なくなる方がもっと嫌です」
凛とした声には迷いがない。ああ、こういう女性だから、入鹿は傍に置こうと願うのだろう。
かつて旻が愛した女性は、彼が隋へ行くことが決まった途端、私を置いていくのかと、旻を詰り、そしてあっさりと他の男の元に走った。いつ帰れるか、戻ってこられるかもわからぬ旅に出る自分だ。彼女の行動は納得出来たし、逃げる彼女に追いすがり、待っててくれ、と言うほどの強さも情熱もなかった。
「もし、入鹿殿が異国に行かれることにでもなったらどうされます? 笑顔で送り出し、待ってると約しますか?」
やはり迷いなく『待ってる』と言うのだろうか。半ば答えの見当をつけて、旻は尋ねる。
片岡はじっと旻の目を見つめて、しばらく考えて、可憐な唇を開いた。
「送り出すことは送り出しますが、待つという約束はしません」
「え?」
旻にとっては意外な切り返しだった。
「私との約束で、彼の行動も心も縛りたくないですから」
と言っても、私はきっと待ってると思います。現に、当てもない恋を5年も続けてたんですよ。と、片岡は付け足して優美に微笑んだ。
「入鹿殿が羨ましいですね…」
「俺が何?」
ふと耳に飛び込んできたのは、その入鹿の不機嫌な声で、旻は背筋が薄ら寒くなった。
(…やばい)
昨日の言動からも入鹿がこの女王を大切にしてるのは明々白々だった。というより、ちょっと尋常じゃない執着心も見せてた。そんな女性と自分なんかが、ふたりきりで話してたのだから、只じゃすまない…かもしれない。
「い、いえなんでもありません」
入鹿の表情すら確かめることすらせず、旻は脱兎のごとく駆けて、母屋に戻った。
「片岡さあ」
旻が巨体を揺すって駆けるのを見送ってから、入鹿は片岡に向き直る。
「何ですか」
悪びれもせず、入鹿と向き合う片岡には、通じてないのだろう、いちいちやきもきする入鹿の気持ちなんて。
「あんまり気軽に表に出るもんじゃないと思うよ。宮の女王なんだしね」
入鹿は結局常識的な見解を述べるに留まる。
「宮と言ったって、私自身の位が高いわけでも、偉いわけでもないですし」
だが、片岡には世間の杓子など、あまり意味のないものだった。やっぱりみっともなくても、嫉妬を前面に押し出した方が良かったか。聡いはずなのに、どうしてこう恋人の心の機微には鈍感なのか。ちぐはぐな会話を入鹿が悔やんでも始まらない。
「…何、話してたの?」
「入鹿にお話するようなことでは」
取るに足らない内容だと、片岡が判じたそれを強いて聞きたいと、思う自分が小さいのだろうか。
「あ、そういえば」
「うん、何」
「海に…連れてきてくださってありがとうございます。ちゃんとお礼も言ってなかったですよね」
期待していたのとは違う会話の運びに、またしても入鹿は肩すかしを食った気分だ。それに。
(礼なんて片岡が言う必要ないのに)
自分のための旅だったと言い切っても過言ではないくらい、入鹿自身も楽しんだ。
「楽しかった?」
「はい、また来たいです」
「俺は、まだ帰りたくない…」
夢の終わりを引き伸ばしたくて、片岡の身体を抱きしめる。この甘やかな香りと感触にいつまでも酔っていられたらいいのに。
「入鹿のお帰りをお待ちの方が、飛鳥には大勢いると思いますよ」
「……ねえ、片岡」
「はい」
「ちょっとくらい寂しがってよ」
「いやです」
寂しがったら、飛鳥への帰還が延期されるわけじゃない。言っても詮ないとわかってることを敢えて言う女を、男は可愛く愛しく思うのかもしれないけれど。
楽しかった日々の終わりを、涙で滲ませたくはない。片岡は、入鹿の背中にぎゅっと腕を回した。




