大陸から来た男
「あとは私どもにお任せください」
馬養がそう胸を張り、断言してくれたので、酣の宴を入鹿はそっと辞した。
身も心もくたくただが、すぐに難波の屋形に戻る気にもなれない。三韓の屋形の厩舎ではなく、浜の方に降りいて行った。昼間の賑わいは既に別世界のように静まり返り、漆黒の夜空と濃紺の海がぶつかりあい、入鹿の足元にはおとなしくなった白い波がさざめいた。夜の海も悪くない。
久しぶりに笛でも吹くかと、袂から取り出した愛笛を口に当てる。
波の音に乗せた調べは、日中の音楽隊の列の奏でた華やかな音とはまるで違う雰囲気を醸し出した。それは入鹿の心持ちを反映してのことだろう。
丁度一曲吹き終えて、もう一曲吹くか屋形に帰ろうか、考えた時、背後から手を打つ音がした。
「お見事ですね」
入鹿が振り返ると、丸めた頭に頑丈な体躯。なんともちぐはぐな風体の男が立っていた。見覚えがある。先ほどの宴席の末席に侍っていた、今回の船で帰国してきた留学僧だ。旻と言ったはずだ。
「蘇我殿、でしたよね」
太い眉の下の丸っこい目を細めて、彼は確かめるように聞く。二十年ぶりに国に帰って来たのだから、どう若く見積もっても、彼の年齢は四十近いはずだ。だが、どう見ても山背より年下、否、それどころか自分と同世代くらいに見える。
「旻殿でしたね。お耳汚しでしたか」
入鹿も彼の名を呼ぶと、旻は嬉しそうに破顔した。
「とんでもない。引きこまれてしまい、ついふらふらと宴席を抜けだしてしまいました」
と、いつかの片岡と似たような事を言う。
「差し支えなければ、愛笛をお見せ頂けませんか」
入鹿は所望されるままに懐の笛を出して、彼の肉厚の掌に載せる。細い横笛に似合わぬ太い指で、旻は笛を縦にしたり横にしたり、吟味している。熱心さに思わず言っていた。
「良ければ奏でてくださっても」
「ご冗談を。あんな音色を聴いた後で、私なぞが吹いても、烏の泣き声のように、煩わしく思われるのがオチですよ。いや、しかし奏者の腕もさることながら、笛も名器ですね。これは何処の国のものですか」
「ああ…」
手放しの賞賛で、非常に答えづらい。出さなきゃ良かった。悔やみながら、入鹿の返事は歯切れの悪いものになってしまう。
「それは私が…」
「ええ、どちらでお求めに」
「いや、自分で作ったものなんです」
「えーっ」
絶句して、旻がまたまじまじと見ようとするのを、慌てて懐にしまった。細部まで見られたら、粗が目立つのは必至なのだ。
「ほ、本当に蘇我殿が手ずから…」
「そんな大それたものでは」
ついでに言うなら、得々と語って聞かせるような事情でもないのだ。
入鹿の愛笛は、もう五本目か六本目になる。いつも止利に作らせていたのだが、回を増す毎に注文が多くなる入鹿に、止利はうんざりしたのだろう。彼の仕事はほかにも沢山あるのだし。
「若は注文が多すぎます。一度ご自分で作ってみられたら、さぞや思い通りのものができるのでないですか」
やれるものならやってみろ、作り手の苦労をとくと味わうがいい。止利の真意は恐らくその辺りだったと思うのだが、売り言葉に買い言葉で、「じゃあ自分で作るから、やり方だけ教えろ」と入鹿が応じ、何本かの失敗作を経て、漸く作り上げた満足行く笛なのだ。
けして褒められたものじゃない話を、旻はほうと興味深そうに聞いていた。
「いや、素晴らしい出来栄えでしたよ。お器用なんですね」
「…見よう見まねの素人作です」
こんな話、吹聴されたら、また父は苦虫を噛み潰したような顔をするだろう。蘇我の跡取りとして、為すべきことは他にもあるだろう、と。旻の言葉は、器用貧乏な自分の性を見透かしてるようで、入鹿はつい一歩ひいた返事をしてしまう。妙に今日卑屈になってしまうのは、まざまざと違いを見せつけられたからか。唐とこの国の。山背と自分の。
「――二十四年ぶりの祖国だそうですね」
海の彼方に視線を移して、入鹿は訊ねた。
彼がこの国を発った時、まだ厩戸皇子も祖父も存命で、何より彼が向かった国は、唐ではなく隋と言った。国の名前が代わるほどの過渡期を知らぬ国で過ごし、旻は祖国に戻って来たのである。
先ほどの宴席では、畏まった話しか出来なかったが、入鹿も彼の見てきた国や、二十年ぶりの倭国は彼の目にどう映ったか気にかかった。
「ええ」
「何か目新しいものはありましたか?」
入鹿が訊ねると、旻は大口を開けて笑い出した。
「昼間、この浜辺についたばかりの者に無理をおっしゃいますね、蘇我殿」
そりゃそうだ。急過ぎた問いかけに、入鹿は頭を掻いた。もっとこの男と、話してみたい気がするのだ。聞いてみたい事柄も山ほどある。しかし、話を一足飛びにしてしまうのは、相変わらずの悪癖だ。
「これからじっくり見定めるつもりです。何が変わって、何が変わっていないのか、何処を変えて行ったら良くて、私に何が出来るのか…」
先ほどの入鹿とは逆に、旻は内陸の方を見やって言う。新しい何かを作り出す責任と期待に満ちた誇らしげな眼差しで。
旻の言葉に、入鹿の胸も何かが始まりそうな予感に震える。気怠い疲労感を何処かに吹っ飛んでいた。
「旻殿」
思わず、その肉厚の手を取っていた。予想外の行動だったのだろう。旻の大きな身体がたじろいだ。けれど、入鹿はその手を離さなかった。
「お疲れでないのなら、あちらに蘇我の屋形があります。飲み直しませんか」
(遅いなあ)
ため息をついてから、片岡は簾を降ろした。月と星の灯りが届かなくなると、部屋は一層暗くなった。先ほど、緋良が持ってきてくれた燭台も、蝋が尽きかけている。
兄は、宴にも出席せずに屋形に戻ってきたまま、多岐と自室に篭ってしまい、入鹿は未だに戻らない。直に、子の刻になろうというところか。
先に休まれては…と緋良は片岡の身体を気遣ったが、昼間の事態の決着がどうついたのか、入鹿に話を聞かない限りは、心安らかに眠れそうにない。
(さっき、浜の方から聴こえた笛は、入鹿の物だと思うんだけどな…)
しかし、その音色が止んだ後も、彼は戻って来なかった。片岡の不安は増幅する。
だから、屋形の外で入鹿の帰宅の気配がすると、はしたないと思いつつ緋良が止めるのも聞かずに、出迎えてしまった。
「おかえりなさい…あら」
待ちわびてた人物の隣には、もうひとり男が立っていた。頭を丸め、僧衣を纏った男。背は入鹿と同じくらいに高く、酒に酔ってるせいで赤いが、元々の肌は浅黒く、着衣の上からでも筋骨逞しそうだ。
(本当にお坊さんなのかしら…)
つい、疑いを挟んでしまうくらい、風体が僧らしくない。入鹿が連れているくらいだから、身元は確かなのだろうが、でもしかし。
片岡の下からちろっと窺うような視線を捉えて、旻はこう言った。
「これはまた別嬪な侍女ですなあ。流石蘇我家」
「…違うよ」
片岡が目を剥いてる横で、ぼそっと入鹿が訂正した。
「いや、本当に申し訳ありませんでした」
客間に通されてから、分厚い背中を無防備に丸めて、旻は片岡に謝罪する。謝り方まで豪快だ。
聞けば彼は、戻ってきたばかりの留学僧だという。
「いいえ、別に…」
初めから怒ってなどいない。片岡は謝罪は要らないと、旻を制す。が、彼の気は収まらないらしい。
「よもや、斑鳩宮の女王がこのような場所におられるなど露も思わず…」
いやまあそうだよね。旻の主張ももっともで、片岡と入鹿は目を見合わせた。
「もう、いいよ」
今度は入鹿に促され、やっと旻は顔を上げた。そして、片岡を見て破顔する。
「しかし、本当にお綺麗ですなあ。厩戸皇子には何度かお目もじ致しましたが、まさかこんな美しい女王をお持ちだったなんて」
まじまじと見つめられ、率直な賛辞をぶつけられ、片岡はますます羞恥に頬を染めた。
「…俺のだから、無遠慮に見るな」
「これは、心ない申しよう。美しい花はみなで愛でてこそ、ではありますまいか。手折ろうとでも言うのなら、入鹿殿の言い分も然りでしょうが」
「そんなことしてみろ、直ちに唐に追い返す」
珍しいな。片岡はふたりのやりとりを聞いて、笑いを堪えるのに必死だった。入鹿の悋気は恐らく酒のせいもあるだろうが、それを抜きにしても、今宵の彼はやけに饒舌だ。
人付き合いに積極的とはいえぬ入鹿が、わざわざ宴の終わった後も共に飲みたいと思ったのだから、この旻という男とは余程波長が合うのかもしれない。
緋良に酒と肴を運ばせて、ふたりは再び飲み始めたが、その話の内容は、傍に侍ってる片岡には全く理解不能意味不明だった。鷹揚府や均田、府兵制。租庸調とか戸籍とか。どうやら、旻がこれまで習ってきた大陸の施策を入鹿に教えているものらしい。
堅苦しい話を諧謔を交えながら話す旻という男の話術はなかなかのもので、入鹿は熱心に聞き入っている。こんな話を夜を徹して、しかも子どもみたいに目を輝かせて語り合うふたりの男の姿は、見てて微笑ましくもあるのだが、いかんせん片岡の体力はもう限界だった。
「片岡…?」
うとうとと舟を漕ぎかけて、入鹿の肩に何度かぶつかった。
「休んでていいよ」
そう言われる度に平気だと強がり、瞬きを何度もして、眠気を醒ましているつもりなのだが、いつしか再び意識は遠のいていってしまう。
そんなことを何度繰り返した後か。
ふわっと身体が浮かび上がったと思ったら、いつもの寝台に横たわらされた。片岡を運んできた腕は、すぐに彼女から離れて行きそうになる。
(行かないで!)
その瞬間だけ、覚醒した片岡は咄嗟に遠ざかる袖を掴む。すっかり寝入ってるものと思ってたらしい入鹿は驚いたように眉を上げて、それから優しく微笑んだ。
「おやすみ」
甘い声の囁きを落とし、入鹿の唇は片岡の額に触れる。
まだ傍にいて欲しい、とねだったら、子どもみたいだと笑われるだろうか。仕方ないなと苦笑いしつつ、昨日の夜と同じように抱きしめてくれるだろうか。
言い出せない願いの代わりに、片岡は低い声でぽつりとこぼす。
「おやすみなさい…」




