さざなみ
「多岐っ」
列の後方から、その様子を見守っていた山背は、彼女の乱入に思わず声をあげた。
自然と身体が彼女の方に向かっていくのを、肩に手を掛けられ、遮られる。
「あんた、どうするつもりだよ」
冷静に、山背の行動を窘めたのは入鹿だった。彼の制止をさも、煩わしそうに山背は肩に掛かった手を払いのける。
「決まってるだろ。子どもと多岐を助けないと」
「唐の大使とまともにやりあうなんてやめた方がいい」
入鹿の説得が、山背の耳に響かないわけではない。だが、理不尽な暴力を、見過ごすわけには行くまい。相手が大国の使いであろうと。
「お前、今あそこに出て行ったのが、片岡だったらどうするの」
山背の仮定に入鹿の瞳は一瞬たじろいだ。彼の弱点をここぞとばかりに詰め寄る。
「同じこと、するだろ?」
だが、入鹿は首を振り、山背の想定外の意見をぶつける。
「いや、俺ならしない」
妹を切り捨てるような発言に、山背の怒りは更に増した。
「ああ、そうかよ。俺はあそこにいるのが、片岡だとしても、そうじゃなくても、庇うよ。お前みたいに冷たくなれないからな」
怒りと蔑みを湛えた目を入鹿に向けてから、山背は「お待ちください」と堂々と高表仁の前に出る。
更に増えた乱入者、しかしそれが大和の朝廷の王族の者と通訳に耳打ちされたのだろう。高表仁は不承不承といった顔で、しならせていた鞭を仕舞う。だが、このまま怒りを収めてしまっては、国の威信にも関わると思ったのか、今度は舌で責め立てる。
「やはり無礼者の多い野蛮な国のようですね」
怒りを通り越し、侮蔑となった高表仁の言葉を、今度は苦々しい顔をしながらも、通訳の男は正確に伝えた。
「野蛮なのはどちらですか。子ども相手に大人げない」
山背も黙ってはいない。多岐と少年に手を差し伸べ、しゃがみこんで震えていたふたりを彼の後ろに立たせてから、応戦する。
「子どもであっても、我が国では礼を重んじ、無礼な態度には厳しく叱りつけます。こんなことだから、いつまでも野蛮で未開のままなんですよ」
(あーあ。もう最悪だ)
入鹿を始めとする飛鳥からの使者も唐からはるばる来たものたちも、頭を抱えため息をついたのは言うまでもない。
暮れまで続きそうな口論を何とか宥めて、列は再び前進を始める。三韓の屋形に唐使らがついた頃には、既に海は西日に染め上げられていた。
美酒とご馳走、そして両隣に侍らせた美姫のお陰で、高表仁はいささか機嫌を取り戻したようだ。
「いや、一時はどうなることかと肝を冷やしましたよ」
宴席の中央で金銅の盃を右手に、彼の肩にしなだれかかる女の細越を左手に抱く、高の姿を部屋の外からそっと眺め、大伴馬養は胸をなでおろす。
「…ですね」
全く同感だと、入鹿は短く相槌を打った。
ここに来て、こんなことで奔走させられるとは思わなかった。
恐らく、権威に弱くそして目下と見るや、嵩に掛かって威圧的な態度を取る人物なのだろう…と、海辺での一幕で入鹿は彼の人となりをそう判断した。
だったら、思う様持ち上げて、彼の自尊心を目一杯満たしてやればいい。単純と言えば、単純な御仁だ。
波が高いから今日は休みだと、既にくだを巻いている浜の漁師に宝玉を渡し、拝み倒して沖に出てもらい、鮮度の良い魚を求め、同時に地元の豪族たちの家で評判の見目よい若い娘を借り受けてくる。衣装を片岡に借りて、華やかに化粧を施せば、飛鳥の都に使える女官とも遜色ない。
宴なんて…と、最初は席を蹴立て、ひとり籠もりそうな勢いだった高も、並んだ食膳と麗人に食指が湧いたようだった。
「して、山背王はどうされました?」
ひとつ、肩の荷がおりたことで、馬養がもう一方の当事者を気遣うのも、当然だ。
「ああ…、戻られましたよ、難波の蘇我の屋形に」
もう高と接触はさせない方がいいだろうと、自分が片岡の衣装を借りるついでに、山背は向こうに引き取らせた。
相手国の大使とあわやつかみ合い…の口論を繰り広げ、周囲を混乱と不安の坩堝に叩きこんで置きながら、山背は恬然と「悪かったな」と謝罪を投げてくる。
山背は多岐を、入鹿は片岡を前に乗せての、駒での帰り道。手綱は自然に緩み、馬の蹄が刻む音も、入鹿の脳内の気ぜわしさとは対照的に穏やかだ。
「俺に謝ることじゃないだろ」
これからやらなきゃいけないこと、山積みなのに。憮然と返すと、山背は意外そうに目を丸くした。
「今日は言わないんだな、あんたホントにばかだ…って」
「言われたいのかよ」
「お前に罵倒されないと、却って怖いな」
「ばかじゃねえの」
と、つい口癖の一節が入鹿の口から溢れると、山背はしてやったりと言った風ににやりと笑った。
空気を読めないというか、あえて読まないと言うか、そういう男なのだ。高を怒らせた挙句に唐との国交がどうなるかということよりも、少年と多岐を救えたことに満足をし、そのことの方が彼にとってはよっぽど重要なのだ。
無論、そんな山背とのやりとりも、この一日で寿命が三年くらい縮む思いであっただろう馬養には話せない。
「そうですか、いささか残念ですね。余り私共などはかの王と接する機会がないものですから…」
社交辞令なのか、馬養は眉を下げて、嘆息する。
「勿体無い。せっかくの機会であったものを」
そう眉を顰めるのは、滅多に表に出てこない山背の人となりを知ってもらい、彼の評価を定める機会であったと、馬養は言いたいのであろう。確かに顔を売るのなら、逆効果に終わった。
「損得を考えて、他人を出し抜こうと、計算高く生きてる男ではないですから…」
苦く笑いながら、入鹿は長年の友をそう評した。彼の短所でもあり、魅力でもある。どんな場面であれ、自分に真正直なのが山背だ。そういうとこ、あの兄妹は実によく似てる。
そして、きっと。
自分はその揺るがない愚直さに、苛烈な言葉をぶつけつつ、憧れてるのも事実なのだ。
「確かにご自身の正義感とか生きる理念をお持ちのようでしたが、ああいった従兄弟をお持ちの、入鹿殿は苦労されますね」
しみじみと馬養に同情されて、入鹿はがっくりと肩を落とした。
(全然嬉しくない)
誰かの腕の中で眠るのに、まだ慣れない。加えて今日はいろんなことがありすぎた。
寝付けなくて、多岐は瞼を閉じるのをやめて、かぶさる腕からするりと抜けた。起こしてしまわぬか心配だったが、隣の男の寝息は乱れぬままだ。
燭台の灯りはとっくに尽きて、部屋は暗い。半ば手探りで、寝台を降りて、卓の上の水差しから青銅の杯に水を入れて飲む。
(これも、高価なものなんだろうな…)
故郷の紀の国にいた頃は、土をこねて焼いた器しか使ったことはなかった。眠る時も、土間に筵を敷くのみ。身体を横たえるための台の存在など、多岐は斑鳩宮に来るまで知りもしなかった。
幼くして父を亡くし、母は全く別の村の男の妻となり、多岐と生まれたばかりの弟は、母の弟に当たる人の世話になることになった。多岐は快活で聡明で、そして村でも評判の美しい娘だった。彼女が成人するとすぐに、おじは多岐を采女として中央に献上することを決める。逆らえるわけもない。
一個の宮の主に見初められ、求められる多岐の立場を、僥倖だと人は羨むのだろう。けれど…。
(お役目、果たせるのかな…)
国元を出る時におじから言いつかったことを思い出すと、心が鉛のように沈んでいった。
喉を潤した多岐は、再び寝台に戻る。
自分の身体を思う様貪り、満ち足りた子どものように眠る男に、愛しさを覚えるかというと、多岐の心は惑ってしまう。
「多岐っ」
自分を呼ぶ、強く鋭い声が今も耳に残っている。
大それたことをしてる自覚はなかった。異国の大男を前に震えてる少年の姿が、郷里の弟にかぶって、多岐は気がついたら身を高の前に投げ出していた。いつも、彼女が叔父の家でしていたように。
鞭で打たれることは怖くない。それに自分がかばった方が、叔父は明らかに手加減をしていた。彼女の瑞々しい美貌に、痕が残るような傷はつけまい。叔父はそう思っていたに違いない。
郷里での日々を思い出しながら、多岐は見知らぬ少を抱きしめて、固く目を瞑った。まさか、次の瞬間、山背が彼女を庇って飛び出して来るなんてことは想像もせずに。
(あ、れ…?)
が、いつまで待っても、振り下ろされるはずの鞭が飛んでこない。しかも、「お待ちください」と場に割って入った声は、彼女の主の物だった。こわごわと目を開けると、思った通り山背が高と自分の間の壁になるように立っていた。
「大丈夫か」
と差し伸べられた手に自分の手を重ねて初めて、多岐は自らの手が震えていた事を知る。重ねただけでは飽き足らないと言うように、山背は多岐の手を包み込んだ。
(何故、自分なんかを助けてくれたのだろう…)
そんな資格はないのに。
誠実な人だと思う。居丈高な振る舞いは、一度もされたことはない。王家の人間など、みんな威張りくさった人たちばかりと思っていたから、意外だった。
「山背様…」
低い声で、届かぬとわかってる名を呼んでみる。
こんな事態は望んでいなかったのに。苦しくなるだけだ。憧れていた恋とは全く違う方に、自分は舵を切ってしまった。けれど、もう船岸には戻れない。
多岐はもう一度、寝台に自らの身体を横たえる。何も考えないようにしよう。そうすれば、意識は次第に眠りの淵に落ちて行く。自らに言い聞かせて、深く呼吸をして、瞼を閉じた瞬間。
「眠れないのか?」
多岐を気遣うように囁かれ、悲鳴のような声が出そうになる。慌てて、口元を抑えた。
「眠れないのか?」
答えないでいる多岐に、山背はもう一度訊ねる。
「あ…いえ」
言い淀んだ多岐の頭を、山背は子どもにするみたいによしよしと撫でた。
「怖いことがあったから無理もないか」
ひとり決めにそう結論づけ、多岐の身体を自分の方に抱き寄せる。彼の両腕で上と下からくるむように抱きしめられると、多岐はその安心感に胸が詰まった。
(違うんです、山背様…)
声に出来ない叫びは、行き場を失い、余計に胸は苦しくなった。
自分の夜着をぎゅっと握ったまま、身を固くしている多岐に山背は何も言わない。ただ、再び彼の手が多岐の後頭部を上下する。凝り固まった多岐の心を解すように優しく。
(この人は何もわかってない…)
でも、わからないままでいて欲しい。多岐の涙の意味など。
多岐が瞼を閉じると、すっと一筋の涙がこぼれていった。




