異国の船と人
唐からの船が到着したのは、入鹿たちが難波について十日後だった。風の強い日で、出迎えた群臣たちの袍の裾はゆらゆらとはためき、ある者は頭上の冠を飛ばされそうになって、必死に押さえつけていた。
唐からの使者を迎え入れようと、港に三十二艘の船を並べ。陸地では飛鳥から遣わされた大伴馬養や、地元の豪族難波吉士小槻や大河内直矢伏らが待ち受ける。その中に、入鹿や山背の姿もあった。
朱塗りの船は、弓張月のように先端が反り返っている。既に帆はたたまれていた。高い波に煽られながらも、さして左右に傾くことなく陸に前進してくる。入鹿が目を細めたのは、強い風のせいではなく、かの国の技術の粋を集めた船が、目映かったからだ。
全容はとっくに現し、すぐ近くにあるように見えるのに、なかなか陸にたどり着かない舟に焦れたのか、山背が「なあ」と入鹿の肘をつついた。
「何?」
「俺、ここにいていいのか? さっき、すげー胡乱な顔されたんだけど」
あの人に、と山背はこっそりと難波吉士小槻を指さす。まさか斑鳩の王がこんな難波くんだりまで来てるとは思わなかったのだろう。想定外の事態に、小槻は確かに山背の扱いに困りかねた顔をしていた。
馬養が間に入って、山背を立ててくれて、その場は収まった。が、その馬養にしてからが山背の人となりを殆ど知らない。かろうじて馬養の中にある山背の印象と言えば、前大王の亡くなった時に、散々位に即くことを主張し、田村や毛人らと争い、最後は弟の長谷王と摩理勢が彼の罪をひっかぶり、方や自害、方や毛人に処刑され、本人はお咎め無しの上に、大兄王という地位まで手中にしたという、経緯と結果くらいである。
無論、実際は暴走したのは長谷らであり、山背はいち早く和議へと向けて、動いていたのだが、毛人はあの紛争を、飽くまで蘇我内部の軋轢として処理してしまったため、他の氏族の者は詳しい事情は余り知らされていないのだ。増して、以後の三年間は、ほぼ斑鳩にこもりきりで、姿を見た者すら殆どいない。
そんな山背が、蘇我の御曹司と共に、ぽっと難波に現れたのである。腫れ物のような扱いは、無理もないかもしれなかった。
「あんたは、もう少し斑鳩出て、他の氏族とも関わった方がいいと思うけど」
ある意味、こういう華やかな式典に参加するのは、彼の存在感を主張する意味でもいいのかもしれない。
気のおけない友人の立場で、入鹿はそんな助言をする。けれど、山背は微妙な顔をしただけで、否とも諾とも返事はしなかった。のみならず、話題を逸らす。
「そういや、多岐が言ってたけど、片岡様に誘われて、船を見に行くって…」
多岐まで巻き込んだのか。今度は入鹿の方が、無言になって、片頬だけを引きつらした。
「難波津に来る船を見に行きたいです」と、強請られたのは、一昨日の夜だった。入鹿としては、有象無象の輩に恋人の姿を晒したくなかったのだが、ダメだと言って、はいそうですか、と引く片岡ではない。結局押し切られる形になった。
「あの辺りにいるのかね」
「あそこ」
浜に出ている人波を、ぐるりと見回して、妹と恋人の姿を探す山背に、入鹿はぴたりと焦点を当てた指先で彼女の姿を差し示す。浜に来た当初から、じっと目の端で追っていたのだから、入鹿にとっては造作も無い。
「おお、流石」
「見張ってないと、何やらかすかわかんないから」
とは言え、すぐに駆けつけられる距離でも立場でもないのが、厄介だ。
(おとなしくしててくれよ…)
じりじりと近づく船よりも、片岡の言動の方が気になる入鹿だった。
やがて高表仁を先頭に、唐からの使者や日本への帰国者が降りてくる。
「遠く唐の天子のお遣いに御目もじ出来て光栄です。飛鳥の朝廷まで案内仕ります大伴馬養でございます」
通訳を通して、己が立場と姓名を名乗り、馬養が恭しく彼らを出迎える。唐側の大使、高表仁という男は、背も高く、精悍な顔つきで、威風堂々とした態度だった。
「ご苦労に存じます」
軽く会釈をして、馬養の挨拶を受けてから、吹きすさぶ強風に高表仁は、目を眇めた。
「しかし、凄い風ですな。陸も海と変わらない」
「は、申し訳ありません」
「貴方が吹かせているわけでもありますまい。おかしな方だ」
大国の使者を前に、つい卑屈になってしまう馬養を前に、はは、と高表仁は剛毅に笑ってから、独り言めいて付け足す。
「海に囲まれた島国だからとて、風に吹き飛ばされたりはしないだろうに」
明らかに見下した台詞に、通訳の男は眉を上げただけで、馬養らに伝えはしなかったが、入鹿には聞き取れた。司馬氏や東漢氏、多くの渡来系氏族と蜜に関わってきた彼だ、大陸の言葉も、朧げなら理解出来る。が、しかし、今はその能力は要らないと思った。聞きたくなかった。
「無理も、ないかあ」
もやっとした思いを、無理やり自分で納得させる。高表仁のこの国を見下した態度も、事なかれとわざわざ彼の皮肉を、訳して馬養に伝えなかった通訳も。
まるで大人と子ども、獅子と兎。国力の差は明らかなのだ。
(悔しいと思うなら、見返すしかないんだよな…)
高表仁の広い逞しい背中を睥睨して、袖の中の手を、入鹿はぎゅっと握りしめた。
波打ち際での、微妙なやりとりなど、浜にごった返した人と共に、唐船の来航を見ていた片岡たちは、知る由もない。
「風が強いですね」
吹き荒れる風に、裳の裾や髪を手で押さえつけながら、多岐はそれでも真っ直ぐに海の方を見つめた。
「多岐は海は初めてなの?」
「いいえ。和歌の浦の海の近くだったので」
片岡が訊ねると、すぐに明快な答えが戻ってきた。
「すごい人出ですね。あ、あれが唐の船ですか?」
無邪気な感想を弾んだ声で語る多岐とは対照的に。
「片岡様、やはり戻られた方が…」
想像以上の賑いに緋良は、眉を顰めて片岡に進言する。みなが少しでも浜辺に近づいて見ようと押し合って、肘と肘がくっつくくらいの密着度なのだ。
「だって、こんな機会二度とないわ、緋良」
けれど、緋良に諌められたくらいで、すごすご帰ったりする片岡ではない。
「入鹿様にも止められてますし…」
「大丈夫。入鹿の了承は得てるから」
にっこり笑って、片岡は緋良の眉間の皺を指さす。
「仲睦まじいですよね、片岡様と入鹿様。入鹿様が、あんな幸せそうな顔されるの、片岡様にだけですよ」
緋良の差し出口を止めたかった片岡なのだが、今度は多岐に拠って、話題の方向性が大きくずらされた。
「あ、えっと…」
長年一緒にいるけれど、身分は釣り合わないし、入鹿は飛鳥中の女性の羨望の的だ。片岡は、やっかみや軽侮の視線や陰口には慣れているが、多岐みたいに手放しで羨んできた者はいない。これはこれで、反応に困るものなのだな…と、片岡は口ごもり耳朶を赤くする。
「男の人を幸せに出来る女性って、憧れます」
「いや、だから…」
そもそも入鹿は私といて、幸せなのかな。前提条件すら、危ぶんでしまう片岡に、多岐は盲目的な意見を翻さない。
幸せでいて欲しい、とは常に願ってる。けれど、片岡の存在が入鹿の足枷ではないのかと、自問したことは一度や二度ではない。そして、その答は未だ片岡の中で未解決のままだ。
「多岐の方が、あの堅物の兄上を骨抜きにしちゃったんだから、凄いと思うんだけど」
兄の鼻の下を伸ばした顔を思い出して、片岡はちくりと逆襲を試みる。即座に紅くなるかと思ったが多岐の声や表情から、少女らしい爛漫さや情熱が引いていく。
「私は、ダメなんです。幸せにして貰うばっかりで、全然返せなくて」
そんなことはないと思う。片岡が、他の人間と接する時の入鹿を余り知らぬように、多岐も彼女の前以外での山背を知らないのではないかと思う。
「片岡様、あれを」
多岐にどう伝えようか考えあぐねている片岡に、多岐は正面を指さす。先ほどまで海面に漂っていた船から錨が降ろされた。
朱塗りの船は先端が弓張月のようの反り返っていた。帆はたたんであったが、その下の甲板には多くの人が集まっていた。
今度の船には、唐からの使者は勿論だが、かつて唐へと渡った留学生たちも帰国の途についているのだという。
距離がありすぎて、片岡の目にはこの国に帰ってきた人と、他国の人の区別はつかない。衣装などもこの国ではなく、唐の国の装いになっている。
長い時間と距離を越え、命がけの航海を経て、今祖国の地を踏んだ人たちはどんな思いなのだろう。
全ての人が降り、荷が降ろされると、一斉に旗が掲げられ、音楽が鳴り響く。
笛や鼓の音に合わせて、唐とこの国の使いの者たちの行列は進む。目的地は三韓の屋形だ。整然と列をなすその中を、ひとりの男の子が横切った。
見れば、まだ七つ八くらいの男の子は、空中の蜻蛉を夢中で追ってるうちに、身体が踊り出てしまったものらしい。ただ、彼が遮ったのは、丁度高表仁の前だった。
突如、目の前に出てきた闖入者に、高表仁の足が止まる。
「――無礼な」
低いどすの効いた声で脅されて、漸く少年は自分のしでかした過ちを知る。顔面は蒼白になって、あわあわと口を開閉させるが、言葉ひとつ発せないほど、怯えていた。
「親は何処だ」
名乗り出る勇気ある者はいない。ならば、と。
高表仁は「私がしつけ直してやろう」と、馬用の鞭を取り出した。まずは威嚇にぴしゃっと地を打つ。湿った砂地に響いた打擲音は、人々の戦きのため息と悲鳴に消えていった。
おろおろと立ち尽くす少年の姿は、虎を前に襲われるのを待つばかりのうさぎのように、弱々しい。
片岡は彼を庇おうと行列の先頭に出ようとする。その腕を、緋良が後ろから引いた。
「おやめください、姫様」
「離して、緋良」
「離しません」
緋良との押し問答が、片岡の行動を一歩も二歩も遅らせた。そして、その隙に片岡と同じ行動を取った者がいた。
「こんな幼い(いとけない)子どもです。ご容赦を」
人混みからすり抜け、少年を鞭から庇うようにぎゅっと抱きしめたのは、多岐だった。




