滲んだ月
ふと見上げると、輪郭のぼやけた月がぽかんと空に浮かんでいた。雨が近いわけでもなさそうなのに、やはりこちらは海が近いから、空も水分が多いのだろうか。
滲んだ円は、まるで月が泣いてるみたいだと、山背は思って、らしくないなと自らを嗤う。感傷的になってしまっているのは、旅情のせいか、はたまた胸に去来した情熱のせいか。
こんな思いに囚われたのは、初めてだった。
白い月の面に重ねるのは、彼女の面影だ。傍にいて、声を聴かせて欲しい。許されるのなら、触れてもみたい。白磁のような滑らかな手に。
酒を過ごせば、そんな厚かましい願いも切り出せるかと思ったが、無理だった。呂律すらも危うくなって、風にあたって酔いざましをする。
常に誰か住まうのではなく。こちらに用があった時のみ逗留する別宅のせいか、ここは建物の規模も小さく、庭も手狭だ。答えのない問を頭でめぐらせながら、懐手に歩いていても、すぐにぐるりと戻ってきてしまう。
「あんたさっきから、何やってんの」
山背がやるせないため息を零す傍から、声を掛けられて、呼吸が一拍止まった。いつの間にいたのか、階に入鹿が腰掛けてた。山背の酔いが一気に醒めた。
「い、入鹿…」
まずいやつにまずい場面を見つかった。この場から逃げ出したいくらいだが、入鹿はつかつかと山背の隣に歩み寄ってくる。
「か、片岡は」
「寝たよ、とっくに」
「お前こそどうしたんだ」
「俺は庭に人影があるから。不審者かと思って出てきただけ」
不審者扱いされてたのか。見ると、確かに入鹿は夜着なのに、不釣り合いな刀を手にしてる。
「い、いや、月でも眺めようと誘おうとしたんだが、なんて言っていいかわからずに」
まさか山背の口からそんな言葉が出るとは予想外だったのだろう。切れ長の目を、入鹿はこれでもかと、丸く大きく見開いた。
そして、長身の背を折り曲げて声を殺して笑い出す。
「笑うなよ」
「だ、だって。いや、普通に言えばいいんじゃないの? 伽を命じるなり、部屋に呼びつけるなり」
「それじゃ嫌なんだよ」
「へ?」
と、入鹿は今度は口をぽかんと開けてから、合点が行ったというように言い直す。
「ああ、つまり。身体だけを求めてるわけじゃないわけか」
恋、なんて大げさな言葉は使いたくなかったから、入鹿の表現はぴたりと嵌った。
「そう、それ」
一方的に上から下に命じるのが可能な立場なのはわかっている。山背が言い出せば、彼女は拒めない。だからこそ、二の足を踏んでしまうのだ。
「ふーん」
物言いたげに入鹿は山背を見つめてにやりと笑う。とんでもない弱みを握られた気分だ。
「あの子だろ、一番若い采女」
斑鳩から5人も采女を連れてきてるのに、入鹿は山背の意中をぴたりと言い当てる。秘してたつもりだった思いは、全く隠されていなかったようだ。
「お、俺はこれまで側女や他の妃を置いたことはなかったんだ」
とは言え彼も人の子で、そして男子である。かりそめに情けを掛けた女が皆無だとは言わないが、それでも同じ年頃の他の王族よりも、遥かに身持ちは固い。父にだって、妃と呼べる女は三人もいたのに。
だが、田村皇子との後嗣争いで、長谷を失って以来、舂米は夫の山背のことをまるで仇敵のような目で見る。山背自身もそんな妻の心を解す努力は全くしてこず、寧ろ現実から逃げ出すように、寺にこもりきりだった。
だから今ある事態は彼自身が招いたことだが、それでもやはり人肌寂しく思う夜もあるのだ。心を預けられる存在を、人は求めてしまうのだ。
「お前なら、どう誘う? 散々遊んで来たんだから、そういうの得意だろ」
「嫌な話蒸し返すね」
じろっと睨まれて、山背は己の失言を恥じる。俯いた山背に入鹿は甚だ彼らしく、助言とも言えない助言を残した。
「自分の言葉で、自分の思い伝えるしかないんじゃないの? あんたが俺の言う通りにしたって、うまく行きっこないだろ」
入鹿の上からの物言いに、これまでの彼なら反発し、皮肉のひとつも言っていただろうに。
「…そっか、そうだよな…」
素直に頷く山背を、入鹿は小首を傾げて、不思議そうに眺める。
「山背、大丈夫?」
「何が」
「いや…うん」
入鹿は言葉に詰まったのか、相槌にもならない返事をする。何故、こうも意外そうな顔をされなきゃいけないのか。
「じゃ、頑張って」
励ましのつもりか、ぽんと彼の肩に手を置いて、入鹿は母屋に戻っていった。
山背に寄り添う多岐の姿が、難波の屋形のあちこちで見受けられるようになったのは、難波に来て三日も経たないうちのことであった。
「多岐、土産を持ってきた」
ぎゅっと握りしめた拳を開くと、山背の掌には真っ白い貝が載っていた。「わあ」と多岐の瞳は輝くが、その彼女を見つめる山背の表情は、それ以上に嬉しそうに綻んでいる。
(あんなやに下がったカオ、見たことないし)
目のやり場に困って、入鹿が隣を見ると、同じ感想を抱いたのか、片岡も袖口を口元に当てて呆然となっている。
ああ、いつも山背はこんな気持で、自分達のやりとりを聞いていたのか…と、日頃の己の行動を省みて、更に居た堪れなくなる。入鹿は苦笑いして、片岡の背中を押して、初々しい恋人達の前から遠ざかった。
「意外ですよね」
だらしなく目を細め、鼻の下を伸ばしてる兄の姿に、片岡は批判も羨望もない率直な感想を述べた。
「…だね」
まさか、こんなに早くうまくいくとは。片岡はとは別の意味で、入鹿にも意外な展開だった、と言ったら山背に叱り飛ばされるだろうか。堅物だと思ってた従兄弟が、あっさりと意中の采女をものにするなんて。
恋が、見える景色を一変させてしまうことがあることは、入鹿も知っている。愛すべき者も守るべき者もいないのなら、この世はとっても味気ない。
「結局どうやって口説いたんだろ…」
あの夜の山背の狼狽した様子を思い出すと、可笑しさがこみ上げる入鹿だ。
山背のことだから、不器用に、生真面目にせっせと言葉を紡いだのだろう。そして、彼の誠実さや実直な思いを、掬い取ってくれたのなら、恐らく多岐という采女も、真摯な娘なのかもしれない。
田村の即位ののち、心を閉ざしてた彼の世界が、多岐の存在で輝くものになったのなら、それは従兄弟としても長年の知己としても喜ばしい。
「入鹿はご存知でしたの?」
入鹿の台詞の言葉尻を捉え、片岡が鋭い目を向けてくる。止む無く、かいつまんで難波に来た夜のことを話すと、片岡は更に険しい顔つきになった。
「反対?」
と、率直に入鹿に訊ねられると、片岡は答えに詰まってしまう。賛成とか反対とか、幾ら妹であっても、兄の恋に介入する権利はない。だが諸手を挙げて祝福出来ない。
「兄上が幸せなら、私は構いません…と言いたいのですが、兄上にしては性急なのが気がかりです」
「兄を取られたみたいで、面白くないんじゃないの?」
「違います」
薄く心に掛かる靄を拭い去れないのは、自身の問題か、多岐自身に何か感じるものがあるのか。片岡にも判然としなかった。
知らず知らずの内に眉間に皺も寄せていたのか、額の中央を入鹿の指に弾かれた。彼の指先の感触が残る箇所に手を当てて、不満気に見上げると、入鹿は悪戯っ子みたいな目な笑みを向けてくる。兄のことになると向きになる片岡をからかってるのだろうが。
「男と女なんて、火がついちゃえばそんなものじゃない?」
入鹿の楽天的な見解にはついていけない。
「入鹿はそうでしょうけど」
采女という立場上、拒めない部分もあっただろう。右も左もわからぬ国に連れて来られて、心細い思いをしてる時に、優しくされれば絆されてしまうこともあるだろう。同じ女性として、多岐の心情も慮りつつ、兄と彼女の通い合わせる気持ちに、隔たりの出ぬよう均衡を願う片岡だった。
◇◆◇◆◇
真新しい木の香を感じながら、毛人は岡本宮の回廊を歩いていた。田村の大王決定と同時に起工し、先年完成したばかりの宮は、派手派手しいのを好んだ先代の小治田宮とは違い、柱への彩色などを極力廃した素朴な作りになっている。
礎石をもっと深く穿ち、柱の数も増やし…、入鹿などはもっと頑強な御世が変わっても使える宮殿を造るべきだなど宣っていたが、新しい大王になる度に、新しい宮殿に伺候するのも悪くないじゃないかと、毛人は思っている。第一、入鹿の主張通りの宮殿など、費用も時間も掛かり過ぎるし、まだそこまでの技術はこの国にはないだろう。
何事によれ、従来の型を堅実に墨守するほうが、彼の性に合っている。ただ、そのやり方は峻烈で剛愎なのが、彼の蘇我氏らしい所以だ。他人からも屡々(しばしば)指摘されるし、自分でもその意見には逆らわない。
(わしと逆なのが大郎じゃな…)
と、毛人は不在の息子を瞼に浮かべた。
考え方は至極革新的だが、入鹿の打つ手は手ぬるい――と、毛人は見ている。摩理勢との抗争の際の手際など、如実に現れてる。鉄は熱い内に、敵は叩ける時に打たなければ、後々悔恨を残すだけだ。
何の益にもならぬ斑鳩宮の王と女王にいつまでもかかずりあってるのが、そのいい例だ。
難波にも何をしに行ったことやら。
そんなことを考えながら、懐手に歩いていた毛人の前に、ひとりの女が柱の影から手招きをしている。あれは、確か大后に使える采女だ。余り好ましい事態ではないが、大后のお召を断るわけには行かない。
気付かれぬように浅く肩を竦めて、毛人は彼女の後につき従った。
「入鹿殿はいつ戻られます?」
時候の挨拶もそこそこに、田村の大后である宝皇女は毛人に問う。
自分で無理やり、前夫との仲を引き裂いて田村の褥に侍らせたのだから、生涯口にすることはしないだろうが、毛人はこの女性が苦手だ。
豪奢な宝玉。艶やかに染め抜いた美しい絹に身を飾り、葛城にいた頃とは、雲泥の差の暮らしをしているうちに、宝は目に見えて美しくなった。すでに田村の后となって五年は経つが、年々若返っていく印象さえある。
(大后の地位に即けてやったのはわしなのに)
毛人の中で恩着せがましい気持ちは消えないし、宝は愛する夫と引き裂かれた恨みを忘れることはないだろう。
お互い、いい年だから胸にわだかまる感情は老獪に隠し、上辺だけは繕いながら接しているが、それでも滲み出てしまうものはある。
大后の信頼は、専ら息子の入鹿の方にあるとは、大方の飛鳥の群臣達の共通した意見だ。
今も、その説を裏付けるように、宝は入鹿の名を真っ先に出した。毛人にしてみれば面白く無い。
「唐使を待っての帰還となりますので、早くても来月かと…」
そっけない答弁に、宝は「…そう」と短く相槌を打った。
「大郎の代わりに出来ることがあれば、なんなりと承りますが…」
そんな申し出も却って迷惑だとばかりの勢いで、宝は否定する。
「いいえ、いいえとんでもない。そういうことではないのです」
すぐに話は別の案件へと移ったが、それは取るに足らないわざわざ毛人を呼びつけて聞くようなものではないことだった。
「大郎に一刻も早い帰還だけは促して置きます」
言わずともいいことを、わざわざ告げて、毛人は宝の前を辞した。
「大臣殿を怒らせてしまったのではないですか?」
宝の乳母の楓がぽつりと言う。宝の居住が、葛城から嶋の屋形、そしてこの岡本宮と移っても、ずっと傍にいてくれている宝の腹心の侍女だ。母にも等しい女性からの忠告に、宝は叱られた子どもみたいにバツが悪そうに笑った。
「そうねえ、…そうかも」
と言いつつ、大臣の怒りなどにいちいち臆す必要もないだろうと思ってもいる。今の自分は、大后なのだし、けれどこの地位に何が何でも執着したい宝でもない。そういう意味では彼女は怖いもの知らずだ。
「葛城と漢の様子を、入鹿殿に見に行って欲しかったのだけれど…」
父親は違えど、宝のふたりの息子は睦まじく、葛城の地で育っている。高向も共に暮らしている。事情を全部知ってる入鹿は折に触れて、彼らに会いに行ってくれ、近況を宝に話してくれるのだ。
傍にいられないとわかっているからこそ、入鹿のもたらす便りは嬉しく、ありがたい。だが、彼の帰還まではお預けかと思うと、露骨に寂しさが出てしまった。
「早くお戻りにならないかしらねえ…入鹿殿」
「いずれお戻りになった暁には、抱えきれないおみやげをご持参になって、お見えになるのではないですか?」
「新しいもの好きだものね」
難波の空は晴れているだろうか、海は荒れてはいないだろうか。唐からの船が直にやってくるという。異国からの客に、宝もいずれ相まみえることになるだろう。この国の大后として。
十年ぶりの国交が何をもたらすのか、宝も期待と不安に胸を震わせた。




