難波にて
632年秋
初めて見る海に片岡は勿論、入鹿も山背もその雄大さ美しさに言葉を失った。快晴の秋の空とまっぷたつに分断された青い海。
半円を描くような入江に沿った湖があり、その先が海へとつながっている。湖と海の境界の細い浜に立つともう、興奮が抑えられなくなったらしい。
長旅の疲れなと吹っ飛んだか、片岡は波打ち際まで走りだす。
「入鹿も兄上も早く~」
手を振って呼んではしゃぐ様は、まるで童女のように屈託がない。
「片岡、濡れるよ」
早、沓もしとうずも脱ぎ捨て、膝まで裳をたくし上げ、裸足になって波に足を浸してる片岡に入鹿は呆れ顔だ。が、旅先での開放感も手伝ってか、入鹿が窘めても片岡は何処吹く風だ。
「濡れるのを厭っていては、海には来れないのでは」
ちょうどその時、打ち寄せた波がふたりの足元をさらっていった。砂が波にさらわれ、足裏の砂も削られる、初めて味わう不思議な感覚は、更に片岡をはしゃがせる。
「これ、面白いです」
「冷たくないの?」
「冷たくて気持ちいいです」
「……」
意思の疎通がなされてないように思えるのは気のせいだろうか…。
「風邪引くって、片岡」
好奇心の塊の片岡は、更にはしゃぎだして、もっと深く進もうとするのを、入鹿は腰に回した腕をひいて止める。
「平気ですよ?」
「平気じゃないだろ、って」
秋も深まってきた難波の海だ。空から降り注ぐ陽射しは暖かだが、海の水はかなり温度が低い。足首だけとは言え、ずっっと浸かっていたら身体は冷えるし、それに。
「もっと高い波が来たら、人だって飲み込まれる」
「……」
足首をそっとなでていくような潮流が? 片岡には入鹿の危惧はピンと来ない。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないって」
何なの、この不毛な会話。聞き分けのない恋人の身体を、入鹿は少しでも波から遠ざけようとする。ずるずると足の裏を濡れた砂が撫でる。くすぐったさに、片岡は再び笑い出した。
「何やってんだ、お前ら…」
仲睦まじくはしゃいでるようにしか見えないふたりに、山背は呆れたような声と視線を投げかける。
その瞬間。
先程よりももっと大きな波が、入鹿の腰の辺り、片岡の胸の下辺りまでざっぱーんと掛かった。
「うわ、最悪」
ぐっちょりと濡れた袴が足にまとわりついて気持ち悪い。
「あーもう、だから言ったのに」
「あはは、入鹿ずぶ濡れですね」
「片岡もだろ? 山背、それ貸して」
水難を免れた山背の袍を強引に奪い取り、片岡に着せ。
「一旦引き上げるよ」
有無を言わせず、彼女を横抱きに抱え上げる。
「えー、まだ全然楽しんでないんですけど」
片岡は口を尖らせた。
「そんな姿誰かに見咎められたらどうするの」
「だって、ここでは誰も私が誰かなんて知らないし…」
少しくらい羽目を外してはしゃいでも、問題ないように片岡には思えたのだが、入鹿に「言うこと聞かないなら、このまま斑鳩に帰るよ」と脅されて、止む無く口をつぐみ、彼の腕に身体を委ねた。
難波の港は他の国々との交易の窓口だ。遠い異国からの人も荷も、まずはここにたどり着いて、飛鳥を目指す。そのため大きな倉庫が幾つも軒を連ね、その隣に客をもてなすための屋形がある。ひとまず、入鹿たちはそこに逗留した。
先に屋形に着き、入鹿や片岡たちを迎えるための準備をしていた緋良は、女主の姿に苦笑いし、すぐに湯の用意をし、着替えを準備する。
自分たちの出番はないな、と判断した入鹿と山背はいちばん広い饗応用の部屋に腰を下ろした。
普段は使ってない屋形のはずだが、床も壁も綺麗に磨かれている。開け放した窓から風が心地よく舞い込むと、潮の匂いが立ち込めて、飛鳥を離れたのだと実感した。
「入鹿、礼を言うよ」
妙に改まって山背が切り出す。旧知の仲だが、自分と山背の間にそんな会話が為されたことはない。山背の成長というか変化なのかもしれないが、妙に水臭い態度に入鹿の方が戸惑った。
「はあ? どしたの、急に」
「久しぶりに見たからさ、子どもみたいにはしゃいでる片岡」
「ああ…」
箍が外れたんじゃないかと思うほど、片岡は楽しそうだった。
旅程の時も道に咲く花を指さして綺麗と微笑み、木々と空を悠然と飛び交う鳥の囀りに共に歌う。
旅なんて滅多に出来るものではないから、目に映るもの全てが珍しくて仕方ない。好奇心に満ち溢れた表情だった。
三年前の事件は片岡の心と身体にも、多大な瑕疵を追わせたはずで、表立って塞ぎこんだりはしないが、やはり片岡らしい快活さとか明朗さとかは影を潜めていた。明るい陽光にも引けをとらないあの笑顔が見られただけでも、遠路来た甲斐があったと、入鹿も山背も同じ思いだった。
「けどさ、よく叔父上が許したな、こんな物見遊山」
山背の疑問は尤もだ。けれど、春先に強請られて、既に季節は秋も深まる頃。実現にこぎつけるのに、時間が掛かったのはある事情があったからだ。
「いやそれがさ…」
入鹿は出立前の父との会話を思い出していた。
「難波じゃと?」
最近蓄え始めた顎下のひげを震わせてから、毛人は前に端座した息子をじっと見つめた。
「はい、難波は唐との玄関口、物流の要、蘇我の倉庫もあります。一度この目で見ておきたいと思います」
予め用意しておいた言い訳を、入鹿は淀みなく披露する。
「それは蘇我の嫡男としても、よい心がけじゃが大郎」
物分かりのいい言葉とは裏腹に、毛人の視線は常より更に厳しくなった。
「はい」
「それならば、斑鳩の王と女王は必要ないと思うがな」
体の良い理由に包まれた本当の事情を、父はとうに知っていたらしい。
(この狸オヤジ…)
舌打ちしても、更に父を言い含めるうまい言い訳は出てこない。今度は片岡に許可が下りなかった時の謝罪文句を考えてしまう入鹿だった。
だが、てっきり反対すると思った父は、意外なことを言い出したのだ。
「じきに難波に唐からの遣いと、遣隋使だった者達が帰ってくる。大伴馬養殿が出迎えることになっているが、まあお前も行くなら手伝って来なさい」
田村の御代になってから、毛人の入鹿への態度は以前より軟化してきた。成人し、廟堂にて政を共に行う息子に、頼もしさを覚え始めたのか、一方的に頭ごなしに物を言うことはなくなった。喜ぶべきことなのだろうが、張り合いがない。手応えのないふわふわとした感触は反発もしにくいのだ。
この毛人の提案も、全面的に肯わざるを得ない入鹿だった。
完全休暇でのんびりするつもりだったのに。
代わりに、難波にある蘇我の屋形は好きに使っていいことになってるし、片岡同行についても目をつむってくれるようなので、条件としては悪くない。ないが、結局父の手の内で踊らされてるようで、不本意だ。
しかも年明けすぐにでも唐を発つような口ぶりだった船は、結局夏の終わりにやっと出立した次第で、それに合わせた旅自体ものびのびになってしまった。夏のもっと暑い時期に行きたかったのに。世の中ってやっぱり思い通りに運ばない。
仏頂面で入鹿が、毛人との契約の経緯を話すと、山背はからからと笑った。
「お前、やっぱり叔父上には敵わないんだな」
「うるさい」
不貞腐れて、入鹿は頬杖をついてそっぽを向く。
「一生敵わなそうだよな。俺もそうだけど」
父の厩戸皇子の業績を思い出して、山背は自嘲気味に笑う。
「一緒にするなよ」
「俺とお前?」
「違う、俺と父上」
「は?」
「目指すものが違うっていうか、俺はあんまり乗り越えようとは思わないんだよなあ、あの人を」
ぼんやりと呟いて、入鹿はそのまま板目に背中を預けて仰向けに寝そべる。
とらえどころのない入鹿の言葉だった。じゃあ、お前の目指してるものって?
聞こうとしたところに、ちょうど着替えを終えた片岡が出てきた。山背も見たことのない薄紅色の艶やかな装いで、入鹿の視線も意識もそっちに釘付けだ。
熱っぽい瞳で見惚れられて、「凄く綺麗だ」なんて囁かれて、片岡の頬も紅く染まる。
子どもの頃から知ってる女に、臆面もなく歯の浮く台詞を吐けるものだと、山背は感心しつつ呆れるが、もう、こうなったら山背が会話に入る隙はない。
「当てられてしまいますわね。お兄様は」
背後から声を掛けられて、山背の肩がびくっと揺れる。振り返ると、斑鳩宮から同行してきた采女の多岐だった。
近頃、紀の国から献上されたとかいう采女だ。それで、多岐という名を、彼がつけたのだ。
まだ新入りだが、優しく鈴が鳴るような声を、山背は気に入って、今回も供の列に加えていた。
「昔からあんなもんだ、あいつらは」
政略も打算もなく、互いが互いでなければダメなんだという我儘で一途な恋を、これほど貫き通した例を山背は他に知らない。
「羨ましいですね…」
「そんなものか?」
「私も身を焦がすような恋がしてみたい」
主の横であるにも関わらず、多岐はそんな幼い呟きを口にした。山背の中で、その声はいつまでも耳に残る。
じんわりと、山背の心を暖めるのは、彼がかつて覚えたことのない情熱だった。




