新たなる日々
632年春正月
御世の代わる際の紛糾など、まるで無かったかのように、穏やかに時が流れていく。
新しく位に即いた田村王子のための、宮は飛鳥の丘のほとりに建てられた。丘と言ってもなだらかな、見晴らしなど望むべくもない、周囲より少しだけ盛り上がった台地は、けしてえらぶったり人を見下したりなどせぬ、田村の人柄そのもののようだ。
ただ、行幸が好きで、温泉に目が無い。有馬の湯に三月もの長きに渡って逗留したことなどに、毛人は苦虫を噛み潰した顔をしていたが、それも飛鳥の地が平穏な証と言えるのかもしれない。
「それで入鹿も大王に供奉し、有馬に行っていたから、ここには来れなかった。そう仰るのですね」
片岡は入鹿の先ほどの弁をもう一度繰り返した。先ほどから気忙しく斑鳩宮の庭に生える山草を、緋良と摘みながら。
「うん、そう」
刺々しさを感じる片岡の言に、入鹿はただ頷くばかり。
「こちらに文を送る間も無いほど、忙しく大王にお仕えしていたということですね」
片岡の肘にかけた籠に、うはぎが一杯になった。煮て食べると美味しいものではあるが、何も片岡が手ずから摘み取るようなものじゃない。先ほどから一度もこちらを見ないことから言っても。
(抗議って言うか、嫌がらせだよなあ)
怒りの理由が自分の無沙汰にあるのだから、そしてそれは裏返せば自分への愛情の表れであるのだから、入鹿としては、片岡の怒りに怒りをもって応える気は毛頭ない。
「悪かったって。片岡」
彼に背を向けてしゃがみこんだ片岡の正面の木に、入鹿は両腕を伸ばして手をついた。
前途も退路も絶たれた格好になった片岡は立ち上がると、やっと入鹿を見据えた。
久しぶりに相見えたその表情は、放って置かれた怨嗟よりも、悲しみが勝ってるように見受けたのは。
(俺の自惚れなのかな)
「やっと、顔が見れた」
「離してください、卑怯です」
入鹿の二本の腕に挟まれた己が身体を、片岡はさも居心地が悪そうに身動ぎする。
「片岡には、触れてない」
屁理屈でしかない入鹿の言葉に、反論したげに、一旦開いた片岡の唇が、何かを諦めたようにきゅっと閉じられた。
もとより、有馬行幸は然程に長期の予定ではなかった。宝も古人も同行したので、入鹿も随身のひとりに連なったのだが、慣れぬ旅路に着いた途端、古人が倒れ、その病が田村に移り…となって、なかなか帰途につくわけには行かなかったのである。
とは言え、何度か飛鳥の父に状況を知らせる使者は立てた。片岡にも送ろうと思えば、文のひとつやふたつ、そっと差し出す手立てがなかったわけではない。
けれど、ここは飛鳥ではない。彼の邸でもない。
旅先にて大王不予などとわかれば、また勇んで情勢を引っ掻き回そうと企む存在が、ないとは言えない。ここ、斑鳩の地にも。
片岡と山背のことは信じていても、周囲の思惑が動いてしまえば、日ごろの絆も信頼も吹っ飛ぶのだと、入鹿は田村が御位につく際のごたごたで嫌と言うほど学んだ。
また、要らぬ荷物を片岡に背負わせるくらいなら、恨み言を一晩でもふた晩でも聞いた方がましだ。
「すまなかった、と思ってる」
「便りのない入鹿を案じる、待つしか出来ぬ女の辛さを、慮ってください」
果敢なげな言葉をこぼしつつ、片岡の黒目は瞋恚の炎に彩られ、艶やかさを増して、ぞくっとするほど美しい。鎮火の手段を考えつつ、こんな眸で見られるのは悪くないと考えてしまう。
「埋め合わせはするから。必ず」
幹についてた右手を、片岡の顎へと移す。直接柔肌に触れた彼の手を、片岡は今度は文句も言わずに、受け入れた。
手首を返してぐっと細い顎を持ち上げると、彼女を見下ろす自分の視線と彼女の視線が絡み合う。
「どういう風に?」
「望みがあれば、何なりと」
その場限りの甘言で有耶無耶にごまかされる女じゃない。絶対に片岡は具体的な答えを求めてくる。ここまでは入鹿の想定内。けれど、それを逆手に取った入鹿の問の彼女の答えは、入鹿の想像をはるかに越えていた。
「では私、海というものが見たいです」
「……」
染めたての衣とか、珍しい花とか、艶やかな宝玉とか。他に幾らでも妙齢の女がねだるものはあるだろ、と思うのに。
海。入鹿の脳裏をこの国の地図が駆け巡る。大和の国の山間で育った片岡には、馴染みのないものだろう。かく言う入鹿も、幼少の頃、祖父の馬子と一度しか海は見たことがない。あれは、確か難波の海だったはずだ。。
。
異国からの船はみな、難波の港に着き、そこから人も物資も飛鳥に向かう。
だから、海の近くに蘇我氏の倉庫もあったし、かの国からの客人をもてなす為の屋形もある。
けれど、この時代旅は一苦労だ。片岡を連れて、その難波に? 供は? 荷は? 宿は? ざっと考えただけでも、問題は山積してる。
「わかった」
と実現の難きを承知していながら、約してしまったのは、つくづく。
(惚れた弱みだよな…)
ふうと、息をついてから、入鹿はもうひとつの懸案事項にとりかかった。
「山背はどうしてる?」
入鹿は久しく会っていない知己の名を口にした。少し綻びかけていた片岡の表情に、また翳りがさした。
「相変わらず、か」
片岡の暗さを帯びた眸に、入鹿は己が問いかけの答えを知る。
「はい。斑鳩の宮の奥か、寺に籠もって、滅多に私や弟たちの前には姿を見せません」
三年も経った、三年しか経っていない。
時の流れの早さを感じるのは人それぞれであるにしても、山背のそれは、ひどく澱んだままのように入鹿には思えた。
身近な者に裏切られ、大いなる挫折を味わって、恃みにしていた弟を喪い、そりゃ傷ついてはいるだろう。増して、汚れを知らぬ積りたてのまっさらな雪のような性分の山背だ。足は簡単にめりこんで、深くその白さを抉っていく。
だが。そのまま澱みに留まっていたって、川の流れからは取り残されて、水が腐っていくだけだろう。
「…のばか」
だから、ばかだって言ってるんだ。
あの紛争の後で。田村が即位し、宝が大后になり、そして山背は大兄王となった。次期の即位を約された立場になったと言うのに、新しく作られた岡本宮にも一度も朝参せず、斑鳩に起居を共にする片岡ですら、姿を見ぬ日が多いらしい。
かく言う自分も、いつその従兄弟の姿を見たのか、定かではない。何度か機嫌伺いはしたが、いずれも彼の妻の舂米に会いたくない、と拒まれてばかり。
「何処にいる? あいつ」
今日こそは目の前に引きずり出さなきゃ気が済まない。左手に作った拳を入鹿は右手で受け止めた。
片岡の悲痛な叫び、長谷の苦悶の表情、片岡から奪い取った刀で入鹿が長谷に止めを刺した際の噴出すような血流。
目蓋にも耳にも、あの凄惨な場面は焼きついてしまって、拭えない。
あの後、摩理勢らが狩りの獲物のように処断されたことも聞いた。自らが引き起こした事態の結果の惨たらしさに、山背は今も立ち直れないでいる。
斑鳩宮よりも、斑鳩寺の方に籠もっている日の方が増えた。経を写して心を鎮め、金堂の釈迦像の神々しさに魂を救われる。
無論妃の舂米も、片岡を始めとする兄弟達も、山背のそんな姿を憂いたが。
(私が立ち上がることで、またあのような争いが起きるなら、無理して立ち直る必要もあるまい)
とらわれたままの無力感も罪悪感も、本人がそんな風に結論づけてしまっては、手の施しようがない。
最初はどうにかして、山背の心を解そうとした舂米も片岡も、次第に腫れ物に触るように彼に近づくことはしなくなった。
閉め切った金堂の中は、昼もほとんど日が射さない。小さな手燭の灯りだけが、広い堂内を朧ろに照らす。
いつものように床に腰を落とし、瞑想に耽けようとした時、灯りが揺れた。背後から風を感じて、咄嗟に振り返る。
両の扉を目一杯開き、立っていたのは入鹿だった。
「な、にやってんだ、お前」
扉を開け放したまま、入鹿はあきれ返った口調で言い放つと、ずかずかと山背の元にやってくる。よく見ると、後ろに片岡もついてきていた。
彼がいとも容易く、山背の領域を侵せたのは、彼女がいたかららしい。次からは中から錠も差しておこう。破壊されかねないが。
「お前こそ何しに来た」
さも煩わしそうに山背は言う。
「幼馴染の従兄弟殿に会いにくるのに、いちいち理由が必要?」
こっちは会いたくないんだ。だが、山背の引け目も遠慮も、この強引で傲慢な男はまるで頓着せずに、彼を責め立てる。
「あんたさあ、いつまでこんなことしてるの」
「お前には関係ない」
「俺が言わなかったら、誰があんたに物申せるの。なあ、山背。あんたが望むと望まざるとに関わらず、あんたが今大兄王なんだから」
入鹿は、山背と同じように床に座り込んで、彼を諭す。
大兄王、ね。次期王位継承候補だと言えば、聞こえはいいが、要は不満をそらすために宛がっただけじゃないか。
現に、大兄と名がついていながら、すんなりと大王の地位に上った王子の数は多くない。
「相応しくないと言うならいつでも返上してやるよ」
入鹿の真摯な、そして山背には口うるさく聞こえる助言に、山背は皮肉で応酬した。途端に、入鹿のいつもは涼しげな瞳が、悲しみとも怒りともつかない色に縁取られた。
「あんたなあ…っ」
何かを言おうと動きかけた唇は、そのまま呼吸を吐き出したのみに終わる。
説得を諦めたように、僅かに口角をあげて、声のない笑いをもらすと、入鹿は山背に対峙していた己が身をくるりと反転させた。徒労に終わると勝手に見積もられ、封印された言葉の続きがこうなってみると、山背には気になった。
恐らく、こんなにも自分に感情を剥き出しにしてくるのは、飛鳥では最早彼だけだろう。多くの者が、自分の存在など忘れかけているはずだ。
それでいい。放置を願っているはずなのに、飛鳥と斑鳩を結ぶ最後の一本は断ち切りたくなくて、、向けられた背中に言葉を掛けてしまう。
「悪い、言い過ぎた」
「全くだ」
憮然と入鹿は返す。けれど、この一言で入鹿の怒りも帳消しになるのも知ってる。既に山背に対する目線は和らいでいる。
潔癖で繊細なくせに、他人に対しては何処か鷹揚で、怒りも憎しみも長続きしない。驟雨を降らせても、すぐにカラッと晴れ渡る夏の空みたいな彼の性分を。
(叔父上辺りは甘い、と思ってるんだろうなあ)
「なあ山背」
彼の人となりを改めて考えてぼんやりしてた山背に、入鹿はとんでもない誘いを持ち掛けた。
「あんたも行かない? 難波」
「はあ?」
どっから出てきたその話。「も」ってなんだ、あと誰がくっつくんだ。山背には皆目見当がつかない。
「入鹿、兄上は先ほどの私たちの会話聞いてたわけじゃないですよ」
片岡に端折りすぎを指摘され、入鹿は頭をかきながら付け足した。
「いや、片岡が海が見たいって言うから。一番近いのは難波だろ? どうせ、ここで燻ってるなら、お前も行かない?」
「……」
片岡を連れていくついで扱いの上に、「どうせ」つき。誘い文句としては、最低の部類だ。
幼い頃、「呼び捨てにするんじゃない」と注意したのに、「それよりも」とあっさり返された時のことまで思い出した。
あれから十余年の月日が流れたはずだが、彼と自分の距離は変わってないらしい。
あんなことがあったのに。入鹿だって、片岡だって、心に傷を負わなかったわけではないだろうに。
ぐだぐだと思い悩んでた己が、矮小に思えて、自嘲がこみ上げた。
「山背?」
「わかった、俺も行く」
自分だけが立ち止まってるわけには行かないのだ。




