東雲
中つ道を曲がり、いつもの下つ道に入ると、東の空は夜の闇が薄くなりかけている。急がねばと、馬の背に鞭を当てた。
数名の従者と捕縛された摩理勢と息子の毛津ら。闇夜を無言で進むのは、官軍というより、敗軍の態だ。
疲労困憊で辿り着いた、毛人の屋形の篝火だけは威容を誇っているかのように、明々と燃えていた。
約束どおり、夜明け前に反逆者を連れて戻った入鹿に、毛人は皮肉に笑う。血まみれの入鹿に対して、父の身に纏った鎧は、綻びひとつ、土ひとつない。
「よくやった」
という労いの言葉も、何処まで本心なんだか。
「長谷王は自ら、命を絶たれました。彼がなく、摩理勢や彼の一族も捕らえた今、ここの兵備は解いていただけますね」
「わしとて徒に上宮と争いたくはないからの。無益な争いは避けたい思いはそちと変わらぬ」
毛人の合図で、庭にいた兵全員が一斉に、手にしていた武器を下ろし、武具を外す。かちゃかちゃと金属の音が庭に広がるのを、安堵の思いで入鹿は聞いて、背後につれてきた摩理勢に視線を移す。
刹那、彼と入鹿の目線がかち合った。斑鳩からここに引っ立ててこられる間、一言も口を開かなかった摩理勢の口から、言葉が零れ落ちようとする。
その言葉を聞く甲斐もないのだと言わんばかり、毛人は腰の刀を抜き、彼に向かって振り下ろした。
両手を後ろでに縛められた状態の摩理勢には逃げる術も暇もなかった。頚動脈を切断するように袈裟懸けに入れられた刀は、あっという間に摩理勢を絶命させた。支える力を失った身体が、ごろんと前に倒れこみ、周囲に血の海が広がった。
入鹿の顔にも着物にも、摩理勢の血が迸る。
あ、と息を呑んでる間に、毛人は摩理勢の子の毛津や阿耶にも同じ刃を振り下ろしていく。
命だけは、と、とりなす隙さえ与えない、果断な処理に、入鹿は非難の色を隠さずに父を見上げた。
その自分に毛人は冷笑で答える。
「気の毒に。ここまで徒労で、終って。長谷王と同様に何故、その場で殺めてこなかった、大郎」
まるで摩理勢らに期待を持たせた分、入鹿の方が残酷だと、毛人は責める口ぶりである。
屋敷の庭に充満する血の匂いに、こみあげる吐き気を抑えながら、入鹿は反駁する。
「同じ一族の、増して父上には叔父に当たるお方に、余りに非情な処置ではございませんか」
「助けろ、と申すか? いつまた爪を研いで、刃向かってくるやも知れぬ獣を」
何処までも甘い奴だな。
蔑むように吐き捨てると、刀についた血を、ふき取って、毛人は鞘に収める。脇にいた者に摩理勢の骸の後始末を命じて、自分は階から母屋に入っていく。
父の背中を追うと、中には古人皇子と田村皇子が端座していて、そのふたりに毛人は何事か告げている。
恐らくこの事態の顛末を、であろう。
声は聞こえぬが、田村皇子の表情が喜びに綻んだのが、庭に侍る入鹿の瞳にも映る。
そして、毛人は勝鬨をあげた。凱歌に湧く声を蚊の羽音のように小うるさく聞きながら、入鹿は毛人の屋敷を後にした。
自邸に着いた頃には、既に日は空高く、遍くものを照らし出していた。血に塗れた骸も勝ちに奢った赤ら顔も。
「若」
いつものように彼を出迎えた嘉陽は、入鹿の変容に息を呑んだ。
常の彼の美貌は見る影もない。着物は血に染まっているし、顔は生気がないし。まるで、黄泉の国から舞い戻ってきたような出で立ちだ。
「ど、どうされたんですか?」
嘉陽は本気で入鹿の安否を憂いた。刀傷のひとつやふたつ負ったのではないかと。
が、当の本人は無頓着に屋形内を歩きながら袷の紐を解くと、着ていたものを脱ぎ捨てる。
「きゃあああああ」
何の前触れもなく、現れた入鹿の上半身に、嘉陽は甚だ慎みのない声をあげた。
「何だよ」
億劫そうに入鹿は嘉陽を振り向いた。
「いやあのその」
と、俯きつつ、嘉陽はちらちらと入鹿の身体を上目遣いに確める。
「ああ、お怪我されたのではないのですね」
嘉陽の弾んだ声に、入鹿もずっと張り詰めていた心が少しだけ解れる。
「俺が、傷を負うわけないだろ。返り血だよ、返り血」
と、いつもの強気な発言をしてから、先ほどの凄惨な場面を思い出して、また吐き気をもよおしそうになる。
血の匂い、刀がばっさりと両断する人の皮膚の中味。戦とはそうしたものだと、父は自分に教えるつもりだったのであろう。
でなければ、自ら罪びとを殺めたりはしまい。
「良かった…と、申し上げていいでしょうか」
口元を緩ませたり、また難しい表情になったり、目まぐるしい主の変化に、嘉陽は戸惑い気味にそう聞いた。
改めて嘉陽に訊ねられて、入鹿は省みる。本当にこれでよかったのか、と。
毛人の思惑通り、これで田村が一両日中にも即位するだろう。一方の斑鳩も、長谷ひとりの犠牲で済んだ。
山背も片岡も守れたのだから。彼にとっても毛人にとっても、結果は申し分ない。
だが、何か大切なものを失ったように思え、山背に対しても片岡に対しても、後ろめたさと罪悪感が残る。
「良かったかどうかなんて、後になってみないとわからねえよ」
ただ俺は。最善は尽くしたつもりだ。
吐き捨てるように答えると、床に投げ出された袍に目をやる。
「捨てておけ」
嘉陽は慌てて、血に染まったそれを拾った。僅かに地の色が見えたその部分から、以前に嘉陽が縫ったものだとわかった。
渇き切った部分も、まだ鮮血が生々しい部分もある。ということは、ひとり分の血ではないのだろう。何があったのか、誰を斬ったのか、寡黙なこの主は、嘉陽が訊いても答えないだろうが。
ぼろぼろの着物は、入鹿自身の心が負った傷のように思えて、嘉陽には捨てられそうになかった。彼の抜け殻を本体の代わりにぎゅっと抱きしめる。その瞬間。入鹿が大きくくしゃみをした。
「さむ」
鼻を啜りながら、細いけれど筋肉のついた腕をさすってる。
秋の深まった朝、素肌をいつまでも晒していては、確かに寒い。いつになっても、言われた以上のことに気を配れない自分を悔やみながら。
「あ、お着替えお持ちしますね」
嘉陽は慌てて、入鹿の着物を取りに行く。
「そうして。あ、あと湯も沸かして」
背中に投げられた声は、平素の屈託のない主の声で、嘉陽はそれに安堵した。
政のことなど嘉陽には皆目わからない。入鹿の心を支えることも、自分には荷が勝ちすぎる。だから、何も訊ねたり言ったりせぬ方がいいのだ。
この屋形の中が、若にとって、安らぐ場になれば、それでいい。嘉陽は回廊を急ぎながら、そう決意を新たにした。
その日、毛人の豊浦の屋形ではひっきりなしに酒が饗され、楽が奏でられ、賑やかな宴が繰り広げられたという。
「若は行かなくていいんですか?」
再三豊浦から、迎えの使者が来たにも関わらず、腰を上げない入鹿に、嘉陽は訊ねる。
「ああ」
湯につかり、汚れを洗い流して、新しい着物に召し代えた入鹿は、もう涼しい顔で異国の書物を紐解き、熱心に文字を追っていて、使者の前に出ようともしない。
「何を読まれてるんですか」
「んー」
顔を上げた入鹿は、言葉を探るように目を泳がせた。
「海の向こうの国の法律。人が人を裁いたり罰したりする基準や罰が定められてる」
「怖いですね」
「いや…」
本当に怖いのは、明確な基準も持たずに、国の営みを行ってるこの国の方だろう。
意に染まぬ者、罪を犯した者、全ての命の火を消して行くなんて、この先も続けて行くのかー?
そうではなくて、作り上げて行かねばならない。
犯した罪に、見合う罰。誰かが裁いて、償わさせる。負けた方が、罪人なんて、正しいわけがない。
父のやり方とは違うこの国のあり方、礎。俺が築き上げたい。
思い出すのもおぞましい1日だったが、毛人の行為と、入鹿に浴びせられた血は、入鹿に新しい道を否が応にも求めさせた。
年が明けて、田村王子は即位した。後の名を、舒明天皇。皇后には、宝王女がたつことになる。




