つみ人
己が手を抑える、長谷の手ごと、刃を突き立てようとした刹那だった。
「長谷っ」
飛び込んできた人影はひとつではない。山背が十数人の舎人と共に、この場に現れた。
声と気配でわかっていたものを、つい振り返ってしまった入鹿に出来た間隙に、長谷は入鹿の手から、短刀を叩き落とした。
(しまった)
と悔やむよりも、間の悪さを恨む気持ちの方が強い。
完全に殺意を失った入鹿を、あざ笑うように、長谷はその手から逃れ、立ち上がる。
そして、舎人たちに囲まれるように立つ、山背に一歩ずつ近づいていく。
「こんな処まで何をしにおいでですか、兄上」
告げる事実の重さと、逃れられない軋轢に耐えかねたように、山背は目を伏せて、搾り出すような声で言った。
「摩理勢は捕らえた。あとは長谷、お前次第だ。負けを認め下るなら、叔父上は温情はかけてくださるそうだ」
先ほどまで、幾許かの余裕のあった口元が、だらしなく歪む。
「兄上…っ。うまうまと蘇我の小倅の口車に乗せられて…我等を裏切ったのですか?」
恋人に捨てられた女のように、長谷は未練がましく山背に詰め寄った。
「先に俺の気持ちを利用したのはお前だろう」
「ええ、まあ確かに兄上のことを思ってしたことでは、ありませんけどね。それにしても愚かな。蘇我は、入鹿は必ず我等を…」
「見苦しいですわ、兄上」
長谷の慟哭を、片岡は冷たく美しい笑みで退けて、最後通牒を突きつけた。。
「摩理勢も山背の兄上も…。もう貴方には、手駒が残ってないということになりますね。諦めなさいませ」
先ほど蹴り飛ばされた刀を鞘から抜いて、片岡は入鹿の隣に立った。
入鹿はつと、山背に乞うような、視線を送る。
「山背、いいな」
山背の甘さ、自分の弱さ。断ち切るように入鹿は、剣を片岡から受け取ろうとした。
「待て、入鹿。長谷の命だけは、助けて貰えないか」
頼む、と山背が入鹿に頭を下げるのは、長い彼との交流の歴史の中でも初めてかもしれなかった。
ここまでの謀を企て、もう抵抗の手段が残されていない今なお、彼は全く反省していないし、蘇我への憎しみも捨てていない。危険過ぎる男をそれでも庇う山背に、入鹿は言葉を失う。だが、彼の要求を一言の元に撥ね付けられない。彼のこの人となりを、わかっているからこそ、さっき一思いに喉をつくべきだったのだ。
「山背」
無理だ、と重たい口を開こうとした。だが、入鹿と山背の目の前で、長谷は思いも寄らない行動に出た。
「今更、その男に私の命乞いなんてやめてください、兄上。私は自分で自分の始末くらいはつけられます」
兄の慈悲を長谷は無用と嘲笑し。
「どうせなら、貴女の手にかかりたいな」
意味深なことを言うと、彼は片岡の手にしていた刃の切っ先を、躊躇いなく自分の腹部につき立てた。
「きゃ」
片岡の悲鳴を合図にしたように、瞬く間に袍は紅く染まり、長谷の座る床にも、血溜りが出来る。
剣を通して、片岡の手に、長谷の血が肉が鼓動が命が伝わってくる。
「離せ、片岡」
既に長谷の体内に深く呑み込まれていった剣は、恐らく離してもびくともしまい。けれど、片岡の剣を持つ手が張り付いて動かない。そのくせ、震えだけは止まらないのだ。
凄く長い間合いのように思えたのだが、恐らくは大きく息をふたつみっつ吐いた程度。
入鹿が背後に回って、彼女の両手に自分の手を重ねて、引き剥がしても、まだ震えは収まらないし、おぞましい感触は残っている。
「これで私の感触が忘れられなくなっただろう、片岡」
途切れ途切れの息で、長谷はそれでも憎憎しげに囁く。
「山背、頼む」
片岡の背中を押しやって、山背の胸に抱きとめさせると、入鹿は長谷の胸から一旦剣を抜いた。
反動で上がる血しぶきをその身に受けながら、入鹿はもう一度今度は心臓をあやまたず突き刺す。
「うっ」という断末魔の悲鳴と共に、長谷の身体はぴくりとも動かなくなった。
「これで満足か…入鹿」
山背の低い声が、刀よりも鋭く入鹿を刺した。
むせ返るような血の臭い、吐き気をもよおすような凄惨な光景の中に、佇む3人は、まだ己を取り戻せないでいた。
「片岡は巻き込むなと言ったはずだ」
放心状態の妹を抱え込むように抱きしめたまま、山背は入鹿を詰る。
入鹿にしてみても、そこを責められるのがいちばんつらい。
「すまなかった」
彼にしては珍しく、素直にそして心からの詫びの言葉だった。
「兄上、入鹿を責めるのは」
片岡は真っ青な顔で、それでも必死に彼をかばう。だが、彼女の擁護が却って辛い。
「いいんだ、片岡。俺が悪い」
「でも」
「大丈夫か?」
片岡の頬に触れようとして、血に染まった己が手に気づき、入鹿は寸前で手を止めた。
本人の意思ではないにせよ、自分の手で人を傷つけたという事実は、そしてその感触は、いつまでも片岡の手に肌に記憶となって残り、彼女を苦しめ続けるだろう。
彼女の心に拭い去れない染みをつけてしまったと悔やむ入鹿を笑うように、片岡は滞空したままの彼の手を取って、彼女の柔らかい頬に添える。
血がべったりとついた入鹿の手に、自分の手を重ねて、彼女は言った。
「私は大丈夫です。入鹿と罪を分け合えたのだ…と思うことにします」
慈愛に満ちた言葉と表情に、入鹿の瞳から我知らず涙がひとすじ溢れ、頬を流れ落ちようとしている。
その涙をひた隠すように、入鹿は片岡を山背の腕から引き寄せて、抱きしめた。
俺の力じゃ、何も出来ない。何の憂いも不安もなく。危ないことなどしなくてもいいように。どうやったら、守れるんだろ。どれだけの力、手に入れればいいんだろ。
こんな無力感を覚えたのは、甘樫丘で彼女と別れた時以来だ。
「片岡」
あふれる愛しさも、臍をかむような悔しさも、全部自分の中に押し込めて、身体を離した。
「ゆっくり休んでろ。もう、大丈夫なはずだから」
月はまだ真上にある。父との約束には間に合うはずだ。
「お前はどうするんだ」
入鹿の行動を不審に思った山背が問いただす。
「摩理勢を連れ、長谷の首を持って、父上の元に戻る。刃向かう者がいなくなれば、父も兵は出せまい」
無抵抗の者に弓矢をつがえ、剣を振るう。それは、戦でもなんでもない、単なる殺戮だ。
入鹿が事も無げに言った、首を持って…という言葉に、片岡の瞳が恐れおののく。幾ら気丈と言っても、片岡には刺激の強すぎる場面の連続だ。
早く安らかに朝を迎えられる眠りにつかせてやりたい。それはきっと、山背も同じはずで、だから入鹿は片岡を、彼に託すつもりで言った。
「後は俺がやるから、何人か舎人だけ残しておいてくれ」
「だったら、俺が行く」
斑鳩宮の主は俺だ。
矜持と自負心を漂わせた山背の発言を、入鹿は一笑に付した。
「ばかか、あんた」
彼にこの言葉を投げつけるのは何度目だろう。山背の目元が怒りを滲ませる。だが、そんなことに怯んではいられない。
「摩理勢さえ引き渡せば、斑鳩には手を出さない――父と、その約定をかわしたのは俺だ。あんたはここにいろ」
毛人の言葉を、鵜呑みに出来るほど、入鹿は父を信じていない。山背がのこのこ出て行って、責めを負わされるようなことになったら。
(何のために下げた頭だ、っての)
流れる血の濃さ故の絆など信じていないが、だが、それ故に父が自分を害さないことだけは、確信している。毛人の後を、他に享ける者がないから。
「片岡を頼む」
その言葉を吐き出すと、ふたりの背中を押した。
大きな手の感触が、片岡の背中に広がった。離れても、はっきり彼の手の形がわかるほどに熱い。
何度目だろうと、思う。入鹿がこうして、兄に自分を託すのは。
私はふたりの間で、やりとりされる天秤の重石じゃない。
支えになりたい、力になりたい。そう思ってそばにいるのに、現実は逆なことばかりだ。
安全な方に逃げ込みたいと願ってなどいないのに、入鹿が兄に自分を任せるのが、彼にとって最も安心できる私の処遇方法だって言うなら、こんなに切ないことはない。しかも、従わざるを得ないのも、悔しい。
真一文字に唇を噛み締めて、片岡は彼女の不本意な意志を誇示するように、しばらく立ち尽くしていた。
「片岡。行くぞ」
放っておけばいつまでも、その場に留まっていそうな片岡に、山背は有無を言わさず、腕を引っ張る。厩舎を引きずり出されそうになるのに、慌てて抗うように、片岡は言った。
「兄上。比良を助けなくては」
無造作に放り投げられた身体は、渾身の力を使い果たしたのか、ピクリとも動かない。けれど、
「ごめんね…」
巻き込んでしまった罪悪感に涙が自然に落ちてきた。だけど、その謝罪の言葉さえ、白々しい。
「泣いてる暇はないぞ」
片岡の感傷を断ち切るように、山背は言って、比良の身体を抱き上げた。
血の匂いの籠もった粗末な小屋を後にする際も、まだ片岡は去りがてにしている。
「行くぞ」
山背が重ねて言うと、片岡はしずしずと彼の後に従った。
もう、ここは毀してしまおう。馬に乗る度に、凄惨な記憶が甦るのは、片岡にも辛かろう。無事に、事が収まれば――の話だが。
「本当に入鹿ひとりに任せてよいものなんでしょうか」
なるべく片岡の目に入らぬように、自分が壁となったが、その先で長谷の首は入鹿の手によって、切断されようとしていた。
汚れ役を引き受けて、毛人の矢面に自ら立って。
(俺はあいつに、甘えてばかりなんだな…)
己が立ち位置に気づかされて、苦い笑いがこみ上げた。
彼が骨を折ってくれたのは、片岡のためばかりではないと、わかっているのに、礼も詫びもしなかった。尤も向こうも、山背の殊勝な態度など、求めちゃいないだろうが。
「あいつに任せておけば、大過ない」
片岡を安心させるようにそう言った。
悔しいが事実だ。長谷に利用され、摩理勢につけこまれ、そして入鹿に庇われて――。
身の程を知らぬ大それた望みであったとは思わないのに、結果はこれだ。弟を見殺しにし、叔父との仲を決定的に悪くし、斑鳩を危険に晒した。
「片岡」
「はい」
「俺は、もう二度と大王位は望まぬ。たとえ、入鹿に懇願されてもな」
「……」
片岡は何も言わなかった。確かにこんな夜に高らかにするべき宣言ではなかったかもしれない。
「兄上」
ふいに片岡が、天上を指し示す。
星がひとつ瞬いて、夜空に流れて消えていった。
一閃を放つその刹那に、願い事を唱えると叶うとか叶わないとか。
普段なら、子ども騙しの血迷いごとと気にも留めぬところだが、今宵だけは縋りたい。
妹が幸福になれるように、と――




