刃の向こう
「片岡…っ」
踏み込んできた足音は、いつもの彼のそれより、荒々しく、そして性急だ。乱れた呼吸で、彼女の名を呼ぶ声にも、優雅さなんて欠片もない。
(なのにどうして、振り向かずとも、その人だと確信出来るのかな)
命を脅かされてる瀬戸際だというのに、彼の気配を感じるだけで、声を聞くだけで、舌が張り付くくらい乾ききってた口内が潤う。
「お前が入鹿、か」
長谷は冷たい視線を片岡から入鹿へと移した。抜き身は未だに、片岡の喉元に突きつけたままで。
「長谷王ですよね」
厩舎の入り口から、長谷と片岡の元に歩み寄ろうとした入鹿を。
「待て」
長谷は鋭く一喝すると、条件のようにこう言った。
「刀はこちらに預からせてもらう」
「いやだと言ったら?」
「貴様がここに辿り着く前に、彼女の命がなくなるだけだ」
「物騒な宮ですね」
失笑すると、入鹿は腰帯に手をのべ、かちゃかちゃ音を言わせながら、外した剣を手にした。
「入鹿、やだ、駄目っ。足手まといになりたくない」
「うるさい、片岡」
意外にもその言葉は、長谷と入鹿、両方から飛んできて、片岡は口をつぐまざるを得なくなる。
入鹿は足をその場に留めたまま、刀を放り投げた。
片岡の真横にカランと音を立てて、転がったそれは。
(いつものじゃない…)
ごてごてした飾りの一切ないその太刀に、彼の覚悟が見えた気がして、片岡は息を呑む。長谷は満足そうに頷いて、自らの剣も鞘に収めた。
「俺の方が、心臓止まりそう」
とにもかくにも、片岡の眼前につきつけられた刃が取り除かれたのを確認して、入鹿は安堵のため息と共に、彼女の隣に座り込んだ。
「もう、会えないかと、思った」
張り詰めていた気持ちの糸が緩んだか、言葉と一緒に涙がこぼれた。大きな黒目から滑り伝っていった雫を、入鹿は手をのべて拭う。
「必ず助ける、って伝言聞かなかった?」
「聞いた、けど」
彼の言葉を鵜呑みにするには、余りに状況が過酷だったし、それに片岡はまだ思ってる。自分なんかを助けて、入鹿が危うい目に遭うのは嫌だ。捨て置いてくれて良かった。それは片岡の偽らざる心情であったにも関わらず、今、こうして彼が目の前にいてくれることが嬉しい。矛盾に満ちた内面をぴたりと言い当てる術を片岡は持っておらず、またひとつ言葉の代わりに涙が落ちた。
彼女の涙をどう受け取ったのか、入鹿は目を細めて優しく笑って、また涙を掬った。
「無事で、良かった…」
そしてそのまま、手を引いて彼女の身体を自分の胸元に引き寄せる。
「い、入鹿っ?」
敵の眼前での余りに大胆な行為に、片岡もつい声を荒らげて抗議する。
「いい度胸だな。だが、丸腰の癖に、どうやって片岡を助けるつもりだ」
再会の喜びを噛み締めあってる暇もない。まさに、地獄からの使者のような、低い声を響かせて、長谷が言った。
「ふたりまとめて、地獄に送ってやろうか?」
またしても、刀の柄に手を掛けた長谷に入鹿は跪き、地面に手をついて請う。
「既に山背王は父蘇我毛人に和議を申し入れ、恭順の意を示しています。父も、それに応じる意向です。その証として境部臣の一族を私に引き渡して頂く――さすれば、斑鳩宮も泊瀬宮も、一切蘇我の者が弓引くことはありません」
「兄上が…?」
先ほどの片岡の話より、更に一歩も二歩も後退している戦況を、入鹿の口から聞かされて、長谷の表情が一瞬歪んだ。言葉を失った長谷に、入鹿は更に畳み掛けた。
「これ以上の抵抗は王にとっても益なきこと。飛鳥と斑鳩の安寧のために、お力添えてはくださいませんか」
言い終えると、入鹿は頭を垂れたまま、長谷の反応を待つ。しばらく押し黙っていた長谷だが、やがてゆっくりと重たい口を開いた。
「――断る。私は貴様の言い分など信用していない。片岡はやるわ、話は鵜呑みにするわ、兄上は人が良すぎる。その信頼を裏切って、いつか、手を噛んで、思い切り後ろ足で蹴り立てて、逃げて行くのが、お前たちのやり方であろう?」
蘇我宗家のことは、まるで信頼していないらしい。
ならば何故、摩理勢を…と思うのだが、摩理勢が蘇我の族長位を狙うために、山背を利用したように、彼もまた摩理勢を利用し、上宮を手に入れようとしている、としたら…?
「約定を違えるようなことはけして」
「口では何とでも言えるさ。――さて、私は、先ほどの貴様の説得に応じなかった。その際の、筋書きは、どうなってる?」
挑発的な笑みを、入鹿に向けて、長谷は抜刀すると、いきなり入鹿の喉元に、切っ先をつきつける。
「貴様を葬る機会を作ってくれた、片岡に感謝すべきかな」
「やめてっ!」
たまらず、片岡は刃をかいくぐって、入鹿の前に出た。
「案ずるな、その男の骸の横で可愛がってやる、片岡。すぐに、忘れるさ」
嘲笑と共に下卑た想像が降ってくる。おぞましすぎる。それくらいなら、このまま入鹿と折り重なって、凶刃に斃れたい。彼の腕の先の白い刃はもう、恐くなかった。絶対にどかない。決意を長谷に宣言するように、下から睨めつける。
「愚かな女と情けない男だ」
呟いて長谷が、刀を振り上げた瞬間だった。
「――ごめん、片岡!」
背後から声が掛けられて、胸元をまさぐられたかと思うと、片岡の身体は横に思い切り突き飛ばされた。
投げ出された身体が地を這う。手をついて振り返ると、右手から血を流した長谷が、痛みに顔を歪めていた。片岡の頭上から降ろされるはずだった刀は、長谷の脇に転がっている。何が起きたかわからぬままに、片岡はその刀を素早く手にした。
「片岡に持たせていたのか…。卑怯な男だな」
右手から流れ出る血を左手で受け止めながら、長谷が悔しそうに呻く。入鹿の手には、片岡が肌身離さず持っていた小刀が握られていた。
「仕込んだのは、随分前ですけどね。さっき抱きしめた時に、胸の辺りが重くて固かったから、多分入ってるだろうな…って」
もう五年も前になるのか。入鹿と再会した際に、「持ってて」と渡された黒塗りの小刀を、入鹿は勝手に片岡の懐から引き抜いたものらしい。
「手柄話はもういい。形勢逆転だな――入鹿」
利き手の右手は使えない。武具も片岡の手に渡ってしまった。圧倒的不利な窮地を何処か面白がるように、長谷はにやりと笑った。入鹿の方が、使い方のわからぬ道具を手にした者のように、戸惑った眸で立ち尽くしていた。
「どうした、喉はつかぬのか」
長谷はとっくに、入鹿の逡巡を見透かしてるらしい。
わかっている。つけば、終わる。入鹿の優位は揺らぎない。
だが、他人を傷つけるのと、殺めてしまうのでは、振りかざす武器の重さが違う。更に入鹿を躊躇わせるのは、山背の存在だ。
俺がこいつを殺したら、あいつの自分を見る目は変わるのだろうか…。
「入鹿…?」
片岡が不思議そうに、彼の名を呼ぶ。
こんな状況なのに、耳に届いた声は、たやすく彼の胸中深く分け入り、愛しさを充満させ。たとえ、血で汚れても、守りたいものがあるのだと、本来の目的を思い出させる。
「目、閉じてろ、片岡…っ」




