夕闇の伝言
預けた思い、託した手紙。
筆舌しがたい重荷を抱えさせて、入鹿の元に走らせた緋良が――未だに戻らない。
一日で悠に往復出来る距離である。
休息を取ったとしても――そもそもあの緋良が、のんびりそんなことをすること自体が、考えにくいが――、一夜を跨ぎ、既に二日目も暮れかかろうとする、こんな刻限まで、戻らないのはおかしい。
(何かあったに違いない)
じりじりする思いを抱いても、今も片岡の身柄は泊瀬宮の一室に閉じ込められたままで、身軽に動けない。しばし見逃してくれないかと、入り口の男に泣き落としと色仕掛けは試みてみたが、撃沈だった。長谷は、相当強固に彼女をここから出すなと言い含めているらしい。
緋良は、入鹿の元まで辿り着いたのだろうか…。
せめて、彼には伝わっていればいいのだけれど…。何も情報のないこの状況は、月のない夜のように心もとない。このまま引き裂かれたままだったら、どうしよう。
(入鹿に、会いたいなあ…)
膝を抱え込んで、顔を埋めた。愛しい面影を瞼の裏に宿しながら、ため息をつく。その刹那、背後に気配を感じて、片岡は咄嗟に振り返った。
「こちらの居心地はどうですか」
差し込む西日をまともに背中から受けた人影が、片岡を見下ろす。丁寧でいながら、相手を小馬鹿にした声音と口調は、忘れようとて忘れられない。蘇る恐怖のために、全身が戦いた。
「…長谷の兄上」
動揺の色を隠せない片岡を満足そうに眺めてから、長谷は更に片岡を震撼せしめることを言った。
「采女をひとり、こちらで預かっていてね」
「緋良…?」
「そう、そういう名前なの。いろいろ聞きたいことがあるのに、こちらの質問に一言も答えやしない。手を焼いているんですよ」
片岡は瞬時に悟る。緋良に間違いない。
「緋良に何を…!」
「采女が采女なら、主も主だ。強情で、頑なで愚かで」
「緋良は何処? すぐに会わせてください」
片岡の要求を待ち構えていたかのように、長谷は唇の両端を上げて北叟笑む。
「最初からそのつもりですよ。私と――来ますね」
罠かもしれない。頭の中で警鐘は鳴り響いている。だが。嘘や罠だとしても、他に緋良に辿り着く術はない。
頷く前に、片岡は一歩目を踏み出していた。
長谷は、母屋を出、どんどん泊瀬宮の敷地の奥へと向かう。
人影は驚くほど少ない。
摩理勢らは、敷地の狭い宮内ではなく、斑鳩寺の方に拠点を移したらしい。昼間から夕方にかけて、やたらばたばたしていたのが、嘘のようだった。
長谷は厩舎の前で足を止めると、掛けてあった掛け金を外す。いつもは錠などささぬ開け放しの扉。それだけでも異質な感じを与えるのに、更に繋がれていいる馬は一頭もいない。
庭に煌煌と焚かれた篝火も、敷地の端の厩舎までは届きにくい。すっかり日が落ち、薄暗くなった中の様子が、目が慣れるにつれ、明らかになってくる。
馬の餌として大量に積まれた干草の上に、ボロ布のように放り投げ捨てられたものが、何であるか悟って、片岡は目を見開く。変わり果てた姿に、眼前の光景を信じたくはないが、紛れも無い現実なのだ。
「筋違い道をうろうろしていたそうで、保護しておきました。何かよからぬ遣いにでも、行かされたのかと案じましてね」
しゃあしゃあと、長谷が語る言葉の半分も、片岡の耳には意識されず、彼女は呆然とした足取りで、その人影に近づいた。
「緋良…」
ぼろぼろの衣を纏った満身創痍の身体に、片岡が近づいて名を呼ぶと、それまでぴくりとも動かなかった緋良は、ぱちりと目を開けた。
「片岡さま…」
切れた唇の端から、漏れた声は、余りにか細く弱弱しい。
やつれきった顔、破れた着物の端から覗く手足の傷を見れば、この一昼夜、彼女が何をされてきたかなど、問わずともわかる。
謝罪の言葉さえ、おこがましく思えて、無言で緋良の身体を抱きしめた片岡の耳に、緋良は何事か囁いた。
「必ず、助ける」
うわ言のような覚束なさで、緋良はそれだけを言った。誰が誰を、そんな説明が無くても、片岡には緋良の思いも、言葉の主も、明瞭だった。
(入鹿…)
半年も相見えていないのに、彼の声も表情もまざまざと感じられる。
(違うよ、入鹿)
私は、貴方に助けを乞うたわけじゃない。私が、貴方を助けたいと、そう思ったのに。
だけど、緋良の口伝えで聞かされた彼の意思に、胸の中に湧き上がるものがある。強く、なりたい、ならなきゃ。
「緋良、ありがと」
緋良を抱え込むようにして言うと、緋良は役目を終えた、と言いたげに、口元をすこしだけ緩めた。
「どれだけ脅しても、何も持ってない、何も語らない」
嘲りを隠そうともせず、長谷は言いながら、一歩一歩、片岡に近づく。そして、片岡の身体を緋良から引き剥がすと。彼女の上顎を持ち上げた。意に反して、絡められた視線。その先の長谷の瞳に、焦りの色が浮かんでいるのが、見て取れた。
「――何を命じた」
冷静に慎重に、片岡は考える。
自分の知っていること、入鹿に伝えたこと、長谷が知りえないこと。
入鹿が片岡の伝えた情報を手に入れたなら、長谷の目論みは、崩れ去ったと言っていい。だったら。
引き結んでいた唇を、彼女はゆっくりと開いた。
「貴方の謀を、お伝えしたまでです。蘇我の――入鹿殿に」
最後まで言い終えぬうちに、片岡は頬を張り飛ばされた。痛みよりも、空を切った小気味良い音に驚き、我知らず頬に手を当てる。
「あの時、聞いていたのか…」
搾り出したような長谷の声は上擦り、先ほど片岡の頬を打った掌は、きつく握られ、わなわなと震えている。
長谷が初めて見せる狼狽する姿を、片岡はじっと見つめていた。
怒りも憎しみも、その視線にこめたつもりはなかったが、長谷は片岡の方に向き直り、皮肉に笑う。
「いいざまだとお思いですか?」
「貴方や摩理勢殿と蘇我の大臣殿、どちらの言い分が正しいかなんて、私にはわかりません」
願うのは、昨日と変わらぬ今日。今日と変わらぬ明日。愛しい人と穏やかに過ごす時の流れだ。大事な人同士が、憎み合ってるわけでもないのに、争う事態だけはこの目にしたくない。
「だったら、おとなしくしていればいいものを、余計なことをしてくれたものですね。やはり、手に入れられないなら、貴女は殺しておけば良かった」
長谷は腰の鞘に手を当てる。しゃっと、金属が擦れる音を立て真っ白い抜き身が、片岡の眼前に突きつけられた。
刃こぼれひとつない直線が、ちろちろと揺れるのは、自分の瞬きによるものか、刃自身が揺らめいているのか、もう片岡にはわからなかった。
「入鹿は、来るかな?」
「存じません」
恐怖を訴えない片岡に、長谷は少し物足りなそうだった。
「こういう時は、命乞いのひとつもするべきですよ。まあ、もっとも今殺す気は毛頭ありませんけどね。――どちらが、いいですか? 恋人の前で殺されるのと、目の前で恋人が死ぬのと」
そんなの選べるか。
ゴクンと呑み込んだ生唾。その音すらも、響く静寂に、片岡はもうひとつの音を捉えていた。




