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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第3章 雲の波立ち
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命がけの交渉

 緋良が斑鳩にとんぼ帰りしたのを見送ったその足で、入鹿は父の豊浦の屋形に向かった。

 外塀を取り囲むように、そして庭の内にも溢れんばかりに集められた兵の多さに愕然となった。彼らはみな、武器を持ち、甲冑を身につけ、今にも襲い掛かってきそうな出でたちである。

(どのくらい、いる?)

 横目でざっと数の見当をつける。

 内に二百、外に三百はくだらなそうだ。

 とても、摩理勢一族のみを標的にした数とは思えなかった。


 入鹿は案内も請わずに、一直線に父の部屋へと歩みを進める。

「何をしに参った」

 唐突に現れ、無言で、自分の前に端座した息子に、毛人は不快の色を隠さずに言う。見ると、父は甲冑姿だ。常の装いと変わらぬ息子の姿が呑気に映ったのかもしれない。だが、武具も防具も身につけないのは、斑鳩と争いたくないという入鹿の意思の表れだ。

「表の兵は、何事ですか?」

 入鹿が訊ねると、毛人は即座に人払いをする。父と子、ふたりだけの空間になってから。毛人はやおら切り出した。

「今朝方、山背から知らせが来た。――境部臣摩理勢が泊瀬宮にいるとな」

 遅すぎるわ、と失笑を加えてから、毛人は入鹿の態度を観察するように眺めた。「知っていたのか」

 入鹿は黙したまま頷く。

「一族の裏切り者、境部臣摩理勢を誅す」

 予想はしていたが、父の宣言にやはり心が震えた。

「では、斑鳩はどうなります」

「さあ。わしの目標は飽くまで、摩理勢一人。だが、摩理勢を捕らえるために、結果として、斑鳩がどうなろうと、それはわしのあずかり知るところではない」

 入鹿は膝の上の拳を固く握った。泊瀬宮も斑鳩宮も斑鳩寺も、そう隔たった場所にあるわけではない。今豊浦に集結している兵たちが襲ったら、あっという間に蹂躙されてしまう。目に浮かぶその光景は、入鹿が最も避けたいものだ。

 結局は父にとっては、斑鳩も標的の一つなのだ。

「摩理勢の居所を、この期に及んで知らせてきたのは、山背には叛意はないということになりませんか。何も斑鳩まで、一網打尽にする必要は、ない」

「山背にそのつもりは、なくても、長谷王らを抑えきれない時点で、飛鳥に反旗を翻したも、同じと思うが。何処から得たか、お前もわしと同じ情報を有しているようだが、一族の反逆者の摩理勢をかばい、兵を集めている時点で、斑鳩宮全体で、こちらに敵意を持っていると見做して、何が悪い」

「さもありましょうが」

 父の怒りがわからぬでもない。

 片岡からの書を読んだ時には、彼自身まさか…と目を疑った。

 ここまで、周到で明確な計画が用意されているとは、思わずにいたのは、自分の甘さか、山背との年来の交誼か。

 だが、だからこそ。

「しかし、またここで、国を二分にするような戦がおきるのは、国の為にも、蘇我のためにも良き事は何一つないと考えます。徒に焦土を増やし、民を疲弊させるだけのこと。摩理勢の引渡しで、どうか穏便に済ますことは出来ませんか?」

 必死の抗弁を、毛人は鼻で笑った。

「らしからぬ雄弁よのう、大郎。さも、国を我等を憂いているような口ぶりで、そなたが一番怖れているのは、女一人失うことかと思うと、情けなくて、ため息しか出てこぬ」

 そんなことはない。彼が守りたいものの中に、片岡の存在は入っているが、それだけではない。片岡や山背が暮らす美しい斑鳩の風景も、ここまで培ってきた蘇我と上宮の関係も。父は全て亡き者にして、いっぺんの悔いもないというのか。

「…一日猶予を頂けませんか。私が、摩理勢を引き渡すよう、山背を説得します」

「先陣でも願い出てくれぬかというわしの期待はまたもや、外れるのだな。和睦の使者をしたいなど脆弱な」

「和を以って貴し。厩戸皇子がご存命でも私と同じことをしたはずです」

「そもそもあの皇子がおいでなら、この事態にはなっておらぬわ」

「寧ろこの事態を積極的に招いたのは、父上ではないのですか」

 摩理勢と手を携えて、蘇我をこの国を発展させる道だってあったはずなのだ。叔父と甥。血で血を洗う争いは、どちらかがもっと譲り合っていれば、ここまでこじれることはなかった。

 一歩も引く気配のない息子に、やがて匙を投げたように父は言った。

「好きにしろ」

 出来ようが出来まいが、どちらでも構わない。そんな響きさえ感じる言葉だった。

「だが、蘇我と争わぬという山背の本意は、斑鳩の総意ではあるまい。心して行け、大郎」




 馬の蹄の音を聞くと、豊浦からの使いかと、思ってしまう。

 外に出ることを禁じられた子どもたちが、宮の中庭で、馬の稽古をしているのだとわかると、山背は再び自室に戻って端座した。秋の終わりの黄昏間近の陽の光は、弱弱しく、彼の居室に差し込んだ。

 悩みに悩んで、彼が毛人の元に使者を送ったのは昨日のことだ。摩理勢の居場所を知らせ、長谷の計画を暴露したそれは、事実上の密告であり、彼らに対する裏切りだ。そして都合良く、蘇我に擦り寄ってみせたも同じこと。

 幾ら、山背が国の平和と民の安寧のために…などど、、大義名分をかざしてみたところで、この後ろ暗さは到底拭えない。それどころか、時間を経るに従って、罪悪感と後悔は膨らむ一方だった。

 豊浦の毛人の元に、使者を送って、すでに一昼夜。返事か来ぬということは、大臣は自分を、斑鳩を許さぬという断を下したのかも知れぬ。

 明日、摩理勢の軍勢が着くより早く、いや間に合ったとしても、それに倍する数で、毛人の命を受けて、飛鳥から押し寄せた軍勢が、この宮を囲む。

 山背の脳裏を、そんな想像が掠める。

 だったら、いっそ飛鳥側には、何も知らせずに、長谷の主張するが如くの奇襲を掛けるべきであったか。

 めぐらした思いを、自ら哂う。

 意志も行動も中途半端で、欲望はあるけど、覚悟はなくて。

「だから、あんたは」

 駄目なんだと、またあいつに冷笑を浴びせられそうだ。

(…ん?)

 山背は、ふと思考を停めた。

 今の、言葉は俺の頭の中で、鳴っていた言葉ではない。

 ゆっくり振り向くと『あいつ』が、山背の脳裡に描いた笑みそのままに、立っていた。

「入鹿…」

 宮門は、平素よりものものしい警備に護られているはずなのに、まるで、片岡に逢いに来たついでのように、自分の前にいる彼の姿が信じられなかった。


「何をしにきた」

「いい加減この不毛な争いを終わらせに」

「迂闊な奴だな。俺が、いや俺じゃなくても。誰かが強硬な態度に出たら、どうするつもりだ」

 彼にとって、ここは今は敵地だ。なのに、彼は今共も連れずに単身乗り込んできている。長谷でもいたら、この場で一刀両断にでもしかねない。

「少なくともあんたは、俺に刀、向けないだろう」

「…何しに来たんだよ」

「摩理勢は何処にいる?」

 詰問に近い強さで訊かれ、山背は咄嗟に聞き返してしまう。

「訊いて…どうする」

「摩理勢と、彼の一族をこちらに、引き渡して欲しい。そうすれば、何もなかったことにする。あんたの野心も、長谷の謀略も。水に流して、斑鳩には矢一本射掛けさせない」

 つまり、入鹿は調停に来たということか。

 全面降伏をして、摩理勢を引き渡し、王位には田村が即くのを、指をくわえてみていろと。

 入鹿の出す交換条件に、魅力と抵抗を同時に感じた。

「王位を諦め、摩理勢を売って、大臣に恭順の意を示せと?」

「ああ」

「頼って来た者を放り出せと?」

「ああ、そうだ」

 結局は毛人の敵は摩理勢で、摩理勢の敵は毛人で。自分たちはふたりの争いに乗せられただけなのだろう。摩理勢さえ葬ることが出来るなら、斑鳩は見逃してやってもいい。毛人の不遜な条件は、極めて順当で、予期できていたはずなのに、いざ示されると簡単には肯えなかった。

「父は摩理勢もろとも、斑鳩を襲うつもりなんだぞ。そうなったら」

 黙りこくってしまった山背の危機感を、入鹿は煽るように被せる。

「それでもいい――と、宮の主の俺が言ったら?」

 諦観を声にも表情にも滲ませて、山背は入鹿の案を退けようとする。

「ばかを言うな。そんなつもり毛頭ないくせに。だったらどうして、父に和を請う使者など送って寄越した」

 切っ先鋭い刃のような、入鹿の言葉に。

「黙れ」

 威圧的に命じてしまった己に、はっとなる。

 これでは、彼の言う通りだと、認めてしまったようなものではないか。

 気まずさに、山背は彼に背を向けて、廊の手摺に、腰を掛けて庭を眺めた。

 舂米も長谷も――片岡も、今はここ、斑鳩宮にはいない。みな、隣接する泊瀬宮の方に移ってしまった。

 そこで、どんな謀議がなされているか、彼は知る由もない。

『兄上のお心を煩わすようなことはしません』。長谷は言葉巧みに、山背から実権を奪っていった。

 入鹿の言う交換条件に応じたくとも、ここに来ての毛人との和睦など、長谷らは納得しまい。

 全てを得るか失うか。長谷と摩理勢は、乾坤一擲の勝負を毛人に仕掛ける覚悟を決めている。

「もう間に合うまい…。片岡だけを連れて、お前は逃げろ」

 山背が入鹿の袖に縋りついた手も、頼りなくこぼした声も。

「片岡のために来たんじゃないっ」

 入鹿は即座に振り払って、声を荒げた。

「摩理勢ひとりのために、ここが、飛鳥がどうなってもいいのかよ」

 入鹿に言われて、山背ははっとなって、周囲を見渡した。

 暮れなずむ夕日が、陰影を濃くしても、この景色の美しさは変わらない。

 父が愛でていた桜の木、この斑鳩宮のうちにいても、五重の屋根を覗かせる斑鳩の寺、彼が両足をつけて立つ廊の床板ですら。

 父がどれほどの心血を注いで作らせたものか知っている。

 国の平和を、民の安寧を、願う父ならば、一体どうしたであろうか。

 彼の胸に、汚泥のように凝り固まっていた拘りが、すーっと波がひくように消えていく。

「わかったよ」

 狙いを見定めて、山背がきっぱり言うと、入鹿は無言で頷いた。

「だが、どうやって、摩理勢を説得する?」

 山背の疑問は尤もだ。そもそも、すんなり応じるくらいなら、こんな事態になっていまい。

「長谷王を説き伏せて…」

 片岡の書にも、山背の話でも、彼が首謀者と見受けられる。彼が降りれば、摩理勢は拠り所を失って、降伏か死を選ばざるを得ないだろう。

「長谷か」

 山背は眉間に皺を寄せる。

 彼の表情は、入鹿の案の成立の難しさを、語らずとも顕しているように見えた。


(名前だけは、聞くが)

 入鹿は、彼との因縁に思いをはせる。

 本人との面識は、いまだ叶わず。

 片岡を挟んでの、不思議な縁。入鹿は彼を快く思っていないが、恐らく彼も同じだろう。

 刻限はギリギリだ。明日、東雲の空の下、毛人はこちらに兵を向ける断を下すのだろうから、迷ってる暇は、ない。

 彼が徹底抗戦をあくまで主張するのなら、自ら手を汚すのも、辞さない。

「片岡は、あっちにいるのか」

 入鹿は、同じ砂利の敷かれた宮内の、向こう側の建物を見やった。

「恐らく」

「何その不確定未確認情報」

 入鹿は不満げに山背を睨む。

「長谷の監視下に置かれてる、ってことだよ」

「お前、好き勝手やらせすぎだろっ」

 助けるから、と緋良に伝えた言葉は、彼女の元に届いたのだろうか。

(片岡と)

 山背の視線に晒されて、俺に、出来るかな…。

 飛鳥から抱いてきた決意が、一瞬だけぐらついた。

 腰に差して来た刀は、いつもの飾り刀ではない。無駄を一切省いた無骨な鞘を力を込めて握り締めた。



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